6-4.洗脳②
ノイマールに戻ってからのブランカの毎日は、ずっとこんな様子だった。
朝食を無理やり食べさせられると、午前中はあの部屋に閉じ込められる。幼い自分の声や祖父の演説を聞かされながら、フィンベリー大陸戦争のあらゆる映像を見せられた。
たまに映像を流さない日もあった。でも視界に飛び込んでくるのは、天井と壁に貼られた無数の写真。音声は変わらず流れ続ける。耳をふさいで赤いソファにうずくまるしかなかった。
あの部屋での数時間が終わっても、午後はカミーユが待っていた。オプシルナーヤにふさわしい教育。カミーユは教科書を読み上げながら、ブランカを否定し続けた。あなたが全ての元凶だ、と言って。カミーユが出す問題の答えを拒否すると、あの部屋に戻された。
もう何度も自分を失いそうになった。
時間の感覚も、曖昧だった。
けれどもヴォルフのハンカチを思い出しては、縋りついた。
ハンカチには、いろんなにおいが染みついていた。血のにおい、泥のにおい、すえた水のにおい。
そして――ヴォルフ。
ヴォルフ……。
まっすぐブランカを引っ張ってくれる大きな手が、恋しかった。
いつも安心させてくれるぬくもりが、欲しかった。
ありのままのブランカを見てくれる、あの薄鳶色の瞳が恋しかった。
最後にぶつけてくれたまっすぐな気持ちを思い出すと、涙がとめどなく流れた。おかげで自分を持ち直すことができた。
ブランカはベッドの中で泣きながら、Wの刺繍を唇にあてた。
ヴォルフ……私、大丈夫だから……。
だから力を分けて。
けれども何日もそんな日々が続けば、自分を保ち続けるのは難しい。
ノイマールに来てから二週間経ったある日。ブランカはきれいな服を着せられて、豪華なディナー席に座っていた。
「こうして一緒に食事をするのは随分久しぶりだな、クラウディア。父さんは嬉しいよ」
テーブルの向こう側から、父が言った。
あんまり遠くにいて、どんな格好をしているのかもわからない。
「勉強は順調か? マルシャンは優秀だと聞いている。お前もロゼにいたときには彼から教わっていたんだろう?」
ブランカは何も答えなかった。
何か答えようにも、言葉が出なかった。
カチャカチャとフォークとナイフを動かす音が、やたらと響く。
「落ち込んでいるのか? 確かにお前が新しい教育に馴染めていないとは聞いている。しかし私は心配していない。お前は頭がいいからな」
そう言いながら、毎日あの部屋に押し込む父。
やめてほしいと懇願したかったのに、声がまったく出ない……。それどころか他にも言いたいことが沢山あったのに、頭がまともに働かない。
ブランカはなんとか目に力を入れるが、父の姿をうまく捉えられなかった。
「ほら、まったく食べていないじゃないか。お前のために用意したんだ。残すのは良くないな」
ブランカはフォークとナイフを手に持つが、指が動かない。口に運ぶどころか、目の前の食事すら、よく見えなかった。
「ところで、私はお前がこれまでどう過ごしてきたかを確認したい」父は何かを口にして、言った。「この数週間、お前はどこにいた?」
ブランカは唇を引き結んだ。
目を閉じ、下を向く。
トントントンとテーブルを叩く音が、ブランカを攻め立てた。
「まぁいい。じきにまた聞かせてもらおう」
椅子が引かれる音がした。
父は立ち上がり、ゆっくりこちらに歩いてくる。
「クラウディア。明日はひとつ、手伝ってもらうことがある」
すぐそばに立ったはずの父を、ブランカはぼんやり見上げた。
翌朝は、あの部屋に押し込まれなかった。
ブランカは少しだけ息をついた。
あの部屋には行きたくない。行かなくていいなら、何でもいい。
しかし、軍施設の地下に向かい始めたとき、胸の奥がざわついた。
ほどなくして地下階に着いた。無機質な灰色の扉ばかりで、ひどく不気味だ。
ブランカは思わず足を止めた。
次は――なに?
後ろにいたオプシルナーヤ兵士に背中を押され、目的の部屋に入った。
その部屋には、灯りがついていた。壁や天井の写真はない。ガラス窓もあった。
ガラスの向こうにあるのは、人影。
銃を持つ兵士。
それから――椅子に縛られた男性。
顔じゅう腫れ上がり、血だらけになっている。
「ブ……ブランカちゃん……?」
彼は、ヘルネーにいた人だった。
ブランカは窓に寄ろうとするが、後ろにいた兵士に止められた。
「ブランカちゃん……なんでこんな……」
「喋るな!」
向こう側にいる兵士が、男性の頭を銃床で殴った。
「やめて……」
ブランカは兵士を振り払おうとするが、びくともしなかった。
「クラウディア・ダールベルク!」
ガラスのこちら側にいたオプシルナーヤ兵の一人が、いきなり声を上げた。
ブランカはそちらを見る。
「クラウディア・ダールベルク。あなたはこの男を知っていますね?」
兵士は冷たい目をこちらに向け、カタコトのヘルデンズ語で聞いた。
ブランカは反応できなかった。
「ク……クラウディア……ダールベルク?」
窓の向こうから、呻くような声が聞こえてきた。
男性は腫らした目をなんとか見開いてこちらを見た。
「クラウディア・ダールベルク。この男の仲間の行き先を教えなさい。拒否すれば……分かりますね?」
男性の頭に、銃口を突きつけられる。
ブランカは弱々しく首を振った。
「クラウディア……ダールベルク……。まさか、嘘だろ、ブランカちゃん」
男性は信じられないというように、ブランカを見ている。
ブランカは動けなかった。
「クラウディア・ダールベルク」兵士の口調は柔らかくなった。「あなたが教えれば、この男は楽になります」
それは……一体どういう意味で……?
ブランカは兵士の冷たい微笑みを見る。
何か言わなければ。「わたし……」言葉が続かない。
はやく……何か言わないと、彼が撃たれてしまう……!
「マジかよ……本当にクラウディア・ダールベルクなのか? 俺たちを騙して、売るつもりだったのか……!」
「違う……!」
ブランカは男性の方を見ようとするが、兵士がそれを遮った。「ほら、言わないと。それともあの男を殺す方がいいですか?」
ブランカは首を横に振った。
「私、知りません……みんながどこに行ったかなんて」かすれる声で言う。
「本当はどうなんです? 正直に答えなさい」
「言ったら殺す……。殺してやる……!」
「ほら早く」
ブランカは首を振った。「本当に知らない――!」
――パンッ。
切り裂くような銃撃音。
ブランカは窓の向こうを見た。
男性は、後頭部から血を流して、首を垂らしていた。
彼の後ろにいた兵士の銃から、煙が出ている。
ブランカは、足から崩れるように座り込んだ。呆然と窓の向こうを眺める。
彼は、ヘルネーでいつも、ブランカに優しかった。
涙がとめどなく流れる。
「クラウディア・ダールベルク。あなたはあの男を殺すことを選んだ」
兵士はそれだけ言うと、退室していった。
ブランカはその場から動けなかった。




