6-4.洗脳①
『誉れあるヘルデンズの民よ! 我々はすでに証明した! この世界がどんなに歪んでいたかを!』
激しく鳴り響く爆撃音。
『そして我々が正しかったのだと!』
沸き起こる歓声。
『恐れる必要はない。迷う必要もない。我々は選ばれた。この美しい世界を導くために!』
カンカンカンカン!
鐘を叩きつける音につづく、轟音。泣き叫ぶ声――。
お願いだからもうやめて……。
ブランカは耳をふさいで目を閉じた。
『我らがヘルデンズの希望、クラウディア・ダールベルク様が、我々に語ってくれました』
いや……聞きたくない……。
『おじいさま、目覚ましいご活躍ですね』
『はい、わたしのあこがれです。みんなのために、いつもがんばっています』
『クラウディア様は将来、ヘルデンズ帝国をどんな国にしたいですか?』
やめて……もう止めて……。
『いい人だらけの国にしたいです。花がいっぱい咲いていて、みんながしあわせな国に』
パンッパンッ。
不規則に聞こえる銃の音。
やがて音がしなくなった。
ブランカは恐る恐る顔を上げた。
何もない平原に横たわる無数の人。
血だらけで、頭に穴が開いていて、手や足が吹き飛んでいた。
兵士も、大人も、子供も、みんな。
その上に重なる、バルコニーで手を振る祖父と――自分。
『わたしもいつか大きくなったら、おじいちゃんみたいにヘルデンズ国のためにはたらきたいと思います』
ギュンターが部屋に入ると、ブランカは赤いソファに突っ伏して、両手で耳を塞いでうずくまっていた。
ブランカの顎を持ち上げる。娘は焦点の定まっていない目から、涙を流していた。
「かわいそうに」
ギュンターはブランカを抱きしめた。娘は抵抗するそぶりもない。
わずかに口元が緩んだ。
娘の耳元でささやく。
「大丈夫だ。私がお前を導いてやる」
部屋を出ると、兵士に連れられて別棟に向かった。
外の光が目に刺さる。けれどもブランカは目を逸らさなかった。
窓のない、写真だらけの部屋。光といえば壁に映る映像のみ。吐いたにおいがまとわりついている。
涙で視界がぼやけた。
朝になると、また押し込まれる。
今、何日目なのだろう。いつまで続くの。
ブランカはぼんやりと外を眺める。
きれいに整備された議事堂の敷地の奥に見える、がれきの街。
光のないヘルデンズの首都ノイマール。
昔は輝いていたのに。
私が……壊したの……?
「朝のお勤め、ご苦労様です」
別棟にあるブランカの居室に着くと、大げさに抑揚のついた声が掛けられた。
ブランカはそちらを向く。
「おや、泣いておられる。おかわいそうに。着替えて落ち着かれてはいかがでしょうか?」
不必要なまでの身振りで中に案内するのは、カミーユ・マルシャン。上等なスーツに身を包み、オレンジ色の髪をきれいに油で撫でつけている。
以前と違うのは、顔の左側に痛々しく残る――火傷の痕。
「未だにこの火傷が気になりますか?」
カミーユは右側の口角を持ち上げて言った。
しかし、目はブランカを鋭く見据えていた。
「嬉しいですね、あなたとお揃いですよ」
ブランカは目を逸らした。
カミーユは容赦しなかった。
「しかし正直なところ、残念ですね。これでも見た目には自信あったんですよ、私」
カミーユはブランカを鏡の前に誘導し、後ろから新しい着替えを肩に合わせた。
「やっぱりこうして見ると……顔のこちら側は美しいのに」
カミーユは自分の右側とブランカの左側を指先でゆっくりと触れると、反対側に手をまわした。
「こちら側は、美しいとは言い難い」
後ろで、くすくすと笑う。
ブランカはぼんやり鏡の中の自分を見た。
みにくい……私。
「マルシャン殿」
落ち着いた低い声が、割り込んだ。
部屋の隅にいた護衛の男が、一歩前に出た。
「セドロフ大尉」
「入浴の準備が出来たと、先ほど使用人が」
セドロフ大尉がドアを開けると、ブランカの世話係の女性が入ってきた。女性はブランカを見て鼻にしわを寄せる。
「我々は退室しましょう」セドロフ大尉がカミーユに促す。
カミーユは目を細めて護衛の男を見ると、ブランカを振り返った。
「のちほど、楽しい勉強をしましょう」カミーユはにんまり笑う。「今日もきっと、楽しいはずですよ」
カミーユは部屋を出ていく。
護衛の男はブランカをちらと見ると、そのまま踵を返した。
日当たりのいい暖かい部屋。
柔らかいワンピース。極上のお茶とおいしいケーキ。
そのどれもを与えられて、ブランカは何も感じなかった。
「おかしいですね、クラウディア。前にロゼで授業したときは素晴らしく優秀だったのに」
机の上に広げられたページには、問題文が並んでいる。
フィンベリー大陸戦争の帰結において、決定的な役割を果たした国家はどこか。
戦後の安定化過程において、主導的役割を担った国家はどこか。
現在の地域的緊張を高めている要因として、最も悪い影響力を持つ国家はどこか。
ブランカは、何も答えなかった。
答えは分かっている。期待されていることも。
それでも、手も口も、動かなかった。答えたくなかった。
「まったく、仕方がないですね。それならこちらはどうでしょうか?」
カミーユは新たなページをめくった。
フィンベリー大陸戦争において、ヘルデンズの政策が国際秩序に与えた影響を概観せよ。
ブランカは首を横に振った。
「またですか? 何日間この勉強をしているのでしょう。まったく……随分定着が遅いですね」
カミーユは大げさな身振りで肩をすくめてから、次のページをめくった。「これなら答えられるでしょう?」
マクシミリアン・ダールベルクの統治がもたらした結果について、評価を含めて述べよ。
ブランカはその問題文を見ながら、涙を流した。
「また涙ですか」カミーユはうんざりしたように言った。「泣いても問題は逃げませんよ。ほら、適切な言葉で事実を述べてください」
ブランカは目をつぶって首を横に振り続けた。
「いい加減にしてください」カミーユはわざとらしく苛立って見せた。「今日、またあの部屋に戻りますか?」
ブランカは止まった。
震えて声が出ない。
「アメルハウザー大佐にお伝えした方がよろしいですね。クラウディアはあの部屋にいる方が好きなのだと」
「……めん……なさい……」
「何と言ったのですか? 声が小さくて聞こえない」
「ごめんなさい……」
ブランカがうつむき縮こまる横で、カミーユは歯を見せて満足げに笑った。
大げさに肩をすくめた。
「休憩しましょう。お茶を入れ直します」
カミーユは冷めたティーポットを、金属製のサモワールに乗せた。サモワールの中では湯が温められ、静かに湯気を上げていた。
ブランカはすがるように胸元を握りしめた。しかし期待していた感触が返ってこない。
布袋を出すと、そこにはゴールドのブローチはなかった。
代わりにあったのはWの刺繍の入ったハンカチ――。
そうだ、私……。
「ずいぶん汚らしいハンカチを持っているんですね」
ブランカは反射的にハンカチを手で隠した。
そのしぐさにカミーユは鼻で笑った。
「たいそう大事なんですね、その汚らしいハンカチ」
言いながら、カミーユは新しいお茶をブランカに出した。
ブランカはハンカチをしまってお茶を飲む。
ヴォルフ……助けて……。
そんな言葉が頭に浮かんで、ブランカは目をつぶった。
違う。私は戦いに来た。戦いに来たの……。
だからヴォルフ。力を分けて……。
「おや、また物騒な記事が載っていますよ」カミーユが手近にあった新聞を取り上げた。「スパイ容疑で逮捕らしいですよ。なんと怖い」
カミーユはその記事を机の上に広げた。
それをぼんやりと見ながら、ブランカは祈った。
ヴォルフ、無事に逃げて――……。




