6-2.出頭
車が止まり、エンジンが切られた。
幌の隙間から薄い明かりが入って来る。道を行き交う車の音や人の声が聞こえてきた。
ほどなくして幌が開けられる。
「<降りろ>」
横柄なオプシルナーヤ語。両側からずっと銃を突きつけてきた兵士たちが、ブランカの腕を乱暴に引っ張る。
朝焼けの中に現れたブランカを、オプシルナーヤ兵たちは胡散臭そうに眺めた。黒染めした髪にみすぼらしい格好。この中の誰も、ブランカをクラウディア・ダールベルクだとは信じていない。
でもこの人たちはどうでもいい。
ブランカは目の前の建物を見上げた。
ノイマールの真ん中に聳え立つヘルデンズの国会議事堂――昔、よく遊びに来たところだ。
こんな形で帰ってこようとは。
「<ほら、歩け>」
後ろから兵士が押してきた。
疲れた身体が、不安に震える。胸元のハンカチを肌に感じたいけれど、両手を縛られていてはどうにもできない。
ヴォルフ、どうか勇気を分けて。
ブランカは顔を上げて、父の元へ向かった。
見慣れた入口をくぐり、見慣れた廊下を進む。手前にあるエレベーターを素通りし、何度も駆け上がった階段を最上階まで登る。
そうしてたどり着いたところは、一番好きだった部屋だ。
ブランカはぎゅっと目を閉じた。
今は感傷に浸りたくないのに。無邪気な時代の記憶が、次々よみがえる。そんなものに惑わされたくないのに。
オプシルナーヤ兵が恭しくノックした。中から合図が返り、内側から扉が開く。
――おじいちゃん!
そこにはいつも、祖父がいた。
嬉しそうな笑顔で、ときには困ったように顔をしかめて。まっすぐ飛んでいったクラウディアを、両手を広げて迎え入れてくれた。
今はそこに、ギュンター・アメルハウザーが座っていた。
祖父が使っていたマホガニーの重厚な執務机に我が物顔で座る父。壁の棚も、趣向を凝らした壁時計も、昔のまま残されている。
それらすべてを、貼り替えた壁紙ごと、この空間を自分のものにしていた。
「<恐れ入ります、閣下。件の者を連れて参りました>」
ギュンターは無機質な細い目をブランカに据えたまま、立ち上がった。
「<間違いない。ご苦労だった。手の拘束を解いて、下がれ>」
兵士はブランカの両手を自由にすると、そそくさと退室した。父は机を回り、ブランカの前に立った。
ブランカと同じ深緑色の瞳。鋭い威圧感を放ちながらも底の知れない不気味な光。五年前、妻と娘を殺しにかかったのと同じ目だ。突き刺すような視線は、ブランカを上から下まで移動する。
足が震えそう。五年前の恐怖が、じわじわ這い上がって来る。
だけど私は父と向き合いに来た。もう逃げない。
冷静なそぶりをせいいっぱい保っていると、父は片手を上げ――ブランカを平手打ちした。
口の中に血の味が広がる。叩かれた左頬がズキズキ痛い。
想像どおり。これが父。
そう思っていると、ギュンターはブランカの顎に手をかけ、顔を上げさせた。
「どれだけ心配したと思っている!」
父は切なそうに眉根を寄せ、顔を歪ませた。
まただ。列車のときと同じ顔。昔信じた顔――。
ブランカはぐっと奥歯を噛んだ。
きっと嘘。列車で再会したときは惑わされたけれど、今度は騙されない。
「ああ、クラウディア。本当に無事で良かった」父は優しい手つきでブランカの髪をすく。「あのひどい列車ではぐれてから、生きた心地がしなかった」
「お騒がせしてすみませんでした」ブランカは機械的に言った。
ギュンターは首を横に振った。「お前が戻って来てくれただけで……」
やめて。そんな風に父親らしく振る舞わないで。
「私が戻ってこなければ……どうしていたんですか?」
「分からない」父はブランカに背を向け額に手をつく。「分からないが、お前を取り戻すためなら何でもしただろう」
かすれ混じりの低い声。
ブランカは目を閉じた。
昨日、ヘルネーで起きたことを思い出す。撃たれたティモ、連行される人たち、壊される生活。本気で父がブランカを心配したことであんなことが繰り広げられていたのなら、この人をどう考えたら良いか分からない。
ブランカは一歩下がって父を見上げた。
「私はお願いがあって来ました」
「他人行儀はやめてくれ。なんでも言うといい」父は振り返り、ブランカとの距離を詰めた。
ブランカは更に一歩下がる。
「あなたが今、この国の半分を統治しているなら、どうか、そこに暮らす人の生活を大事にして下さい」
父はまじまじと娘を見た。「何を言っている?」
「村が焼き払われているのを見ました」ブランカは震えそうになる声を一度飲み込んでから続けた。「オプシルナーヤ兵に人が撃たれているのも」
ギュンターは考えるように腕を組んだ。「それは新政府に仇なす不貞どもだったんだろう。お前は優しいから勘違いしたんだ」
「オプシルナーヤ兵が普通の家を壊すのも、何回も見ました」たくさんの女性や子供が泣いていた。「そこまでする必要はないはずです」
ギュンターは目を閉じると、ため息をつき、瞳を細めてブランカを見た。
「お前は一体、どこで誰といたんだ?」
深緑色の目の奥が、怪しく光る。
ブランカは思わず後ずさった。五年前に見た狂気が脳裏をよぎる。出会い頭に詰め寄り過ぎてしまったか。
父は再びため息をついた。
「ようやく帰ったのに、こんな話はやめよう」
ギュンターはブランカに背を向け、窓辺に寄った。
「クラウディア。列車でも言ったが、私はお前とやり直したい」
列車でそう言われたときは、一瞬でも父を信じそうになった。父の優しいそぶりに、失った家族の絆を求める自分がどこかにいた。
あのときは本当に、ひとりだったから。
ブランカは胸元でぎゅっと手を握ったまま、何も言わなかった。
「出来ることなら、お前にどんなことでもしてあげたい」
ギュンターは続けた。
「しかしお前は、今まで良からぬ者たちから、悪い影響を受けてきた。正しい教育が必要だ」
ブランカは眉を寄せた。
父は一体何を言っているのだろう。抑制された静かな低い声に、薄ら寒さを感じた。
父はこちらを振り返った。
「今日は疲れただろう。まずは休むといい」
フッと笑って言う。
「お前の部屋を残してある」
昔の部屋なら、案内なんていらないのに。
父に案内され、ひとつ下の階に向かう。
休めるのは、正直ありがたい。昨日ヘルネーに戻ってからずっと、気を張っていた。今のやりとりで、疲れが一気に押し寄せた。
こんな日が、いったいどれくらい続くのだろう。
そう考えているうちに、目的の部屋の前に辿り着いた。この部屋にも、たくさんの思い出が詰まっている。
国会議事堂にあるクラウディアの第二の部屋。遊んで、勉強して、ときには眠って、祖父の仕事が終わるのを待っていた。
南向きの窓に、花をいっぱい飾った、明るい部屋――。
「さあ入りなさい」
父が扉を開けた。
ブランカは中に入りかけて、足を止めた。
どうしてこんなに――暗いの?
「懐かしいだろう。お前が使っていたソファもそのままだ」
父に押されるまま、ブランカは中に入る。
確かに昔よく座った赤いソファは、真ん中に置いてある。でも――。
違う。こんなのじゃない。
胸騒ぎがする。
「さあ、ゆっくり休みなさい。そして――」父は電気をつけた。「ゆっくり振り返るんだ」
何を――?
そう言いかけたとき、ブランカは目を見開いた。
何あれ……写真?
こっちも……振り返っても――写真。
壁も、天井も――写真、写真、写真。
奥の壁以外、隙間がないくらいに埋め尽くされている。
なにこれ……。
写真に映るのは、崩れた建物。銃殺され壁に倒れる人たち。焼き払われる村。
その中に混ざる祖父。
そして――自分。
「いや……いやよ……」
ブランカは後退り、扉に向かう。
しかし扉はいつの間にか閉まっていた。
「お願い、ここから出して!」
ブランカはドアノブを引っ張った。
代わりに聞こえて来たのは、鍵を閉める音。
ブランカは思いっきりドアを叩いた。
「分かってくれ。これがお前に必要なんだ」
「いや! 待ってお願い! 出して! 出して!!」
すると部屋が突然暗くなった。
ブランカは恐怖に震えた。心臓がうるさく音を立てる。
なに……?
これ以上、なにがあるの?
『わたしのおじいちゃんはヘルデンズ帝国の一番えらい人で――』
どこからか聴こえてきた子供の声。ここ最近やたらと聞かされたフレーズ。
『――世界を今よりももっとよくするために、毎日一生けんめいはたらいています』
待って……。
この声、知っている。
まさか……嘘でしょ?
突然部屋の奥の壁が、明るくなった。
人が映し出される。
一列に並ばされる人たち。
『おじいちゃんがいつも言っていることがあります。それは、わたしたちヘルデンズ人が、世界で一番とうとい民族だと』
次の瞬間、彼らは後ろから銃で撃たれ、大きい穴に落ちていった。
ブランカは首を横に振った。
映像は田舎の村に切り替わる。
『めずらしい発明品を作るのも、新しい発見をするのも、いつもヘルデンズ人です。だから、世界のリーダーになるべきなのは、このヘルデンズ国です』
村は、火炎放射器で焼かれている。
ブランカは耳を塞いだ。
もうやめて……。
『でも、それを証明するためには、世界をきれいにする必要があるそうです』
突然、映像が暗くなる。
ひゅっという音がした。
ひゅっ、ひゅっ。
次の瞬間、火が灯った――屋根の上に。
道路に、街路樹に、そして家が燃えていく。
隣の家に、建物に、火が広がっていく。
次々落ちてくる火から、みんな逃げていた。犬も馬も、人も。
そしてみんな、飲まれていく。
『そういう人たちを一人のこらずたいじし、世界を平和にして、ヘルデンズ国のすばらしさを世界中の人々に教えるために、おじいちゃんは戦っているそうです』
ブランカは、赤いソファに崩れ落ちた。




