5-14.忍び寄る②
「オットーさん、必ずまた来ます」
ブランカはオットーに向き合って言うが、老人はそっぽ向いていた。
夕べは少し打ち解けた気がしたのに、やっぱりまだブランカのことは受け入れられないのだろうか。
「ブランカ、そろそろ行くぞ」ヴォルフが催促した。
ブランカは後ろ髪引かれるような気分で、車に向かった。
「今度は……」
しわがれた小さい声。
ブランカは振り返った。
「今度は、もう少し家事を覚えてこい」
それだけ言うと、老人はそそくさと家の中に入っていった。
ブランカはヴォルフと顔を見合わせ、二人でくすっと笑みをこぼした。
一行は一昨日来た道を、ヘルネーへと引き返す。
朝から口数少なかったアロイスが、しばらくして言った。
「……ブランカちゃん。ヘルネーに帰ったら、しばらく出歩かんように」
緊張を孕んだ言い方に、ブランカは唾を飲み込んだ。
「ブランカ。スケッチもらえるか?」
ヴォルフが察したようにブランカに言った。
胸元の布袋からスケッチを出しヴォルフに渡すと、ヴォルフはそれをビリビリに破いた。
「オットーじいさんの家で燃やしてくるんだった」
それから二時間ほど車を走らせていると、遠くの町から煙が上がっているのが見えた。
行きにはなかった光景だ。
「兄さん、これで見てくれやん?」
アロイスが助手席のボードから双眼鏡を出した。ヴォルフが覗き込む。
「……民家がいくつか燃えている」
「火事か?」
「いや……」ヴォルフは声を落とした。「軍の重機が見える」
ブランカは窓に手を付いてよく見た。「どうしてそんな……」
「ブランカちゃん、普通に座って」アロイスは硬い声で言った。「一時的なものならいいんやけどな……」
ブランカは座席に座り直して、身を小さくした。
信じられなくて、首を横に振る。
そのとき、不吉なラジオが流れてきた。
『こんにちは。東ヘルデンズ民政局内務部のアメルハウザー大佐です。今日は皆さんに一つお願いがあって出演しました』
ブランカは蒼白な顔でカーオーディオを見る。
「ブランカ、聞きたくないなら切るぞ」
ヴォルフがこちらを伺うが、操作しようとした手をアロイスが止めた。
『当局は今、ある行方不明の女性を追っています。十六歳、白と金のまだら髪、緑色の瞳。顔にやけどを負っています』
三人は息を飲んだ。
ブランカの身体が震え出す。
『彼女は先日アジェンダ人の青年に誘拐され、以来行方が知れません。どうか皆さんの協力をお願い致します』
ニュースはそこで終わらなかった。
『彼女を見つけましたら、どうか丁重にお願いします。もし彼女に危害を加えた者には――』
一段低い声で続けた。
『当局は容赦しませんので、ご理解を』
「これはあんまりのんびりしてられんな……」
アロイスがラジオの音量を下げて言った。
ヴォルフは考え込むように窓枠にもたれている。
ブランカは、無意識に煙の上がる町を見た。
せっかくヘルデンズの未来を見つけたのに、父はブランカをそっとしておいてはくれない。
それどころか、娘を探し出すために父がどこまでするのか、とても怖くなった。
***
ヘルネーには昼過ぎに戻った。
下町はやけにざわついている。
通りにいたベッカーが、アロイスを見つけるなり走ってきた。
「アロイス、『女神の泉』に来てくれ。ティモが――」
撃たれた。
最後まで聞こえなかったが、ベッカーの口はそう動いていた。
ブランカはヴォルフにしがみついた。
「兄さん、ブランカちゃんをうちに連れてって」
言うなりアロイスは『女神の泉』に向かう。
「ブランカ、行くぞ」
ヴォルフに促されるが、ブランカはヴォルフにお願いしてアロイスの後から店に向かった。
『女神の泉』の周りでは、下町の男たちがうろうろしていた。彼らはアロイスを見るなり、安堵と縋るような視線を送る。
三人は店に入った。
店の中では誰かが怒鳴り、また別の誰かがそれを遮った。
「何でだ! ティモは関係ないだろ!」
「今度あいつが来たら殺してやる……!」
みんな口々に話し、怒りと怯えをあらわにしていた。
奥のソファには、ティモが倒れていた。ティモは太ももから血を流していた。
ブランカは慌てて駆け寄った。
「何があった?」近くにいたヤーツェクに、アロイスが尋ねた。
「オプシルナーヤだよ」ヤーツェクは顔を歪ませて吐き捨てた。「この辺で偉そうにしてくるいつものあいつだ。あいつ、今日は突然来るなりティモを引きずり出し、いきなり撃ったんだ!」
そんな……。
ブランカはティモのそばに膝をついた。ティモは歯に力を入れて、痛みに悶え苦しんでいる。よく見ると、複数箇所撃たれていた。
やって来た近所の医者に、ブランカは押し除けられる。
「おい、ゼルマ。しっかりしろ!」
店の一角で、ゼルマが椅子に座り込んで壁にもたれていた。顔面蒼白で、全身を震わしていた。視線はどこにも定まっていない。
「それ以外には何かあった?」
アロイスが鋭い目で男たちに聞いた。男たちは口々にアロイスに報告する。
パン屋のパンをめちゃくちゃにして行った。『女神の泉』の向かいの家に勝手に入り、中を荒らして行った。行く手を遮った少年に銃を突きつけ怖がらせていた。
そんな話が飛び交う中で、『アバジョーンナヤ・ジェーンシナ』という単語が聞こえて来た。
ブランカはヴォルフと目を見合わせた。
アバジョーンナヤ・ジェーンシナ。
オプシルナーヤ語で、『火傷の女』。
「あいつ、今度は徹底的にやってやると言っていた」
近くにいた男性が、そんなの毎回言ってるさ、と鼻で笑った。
ブランカは店の中を見渡した。
ヘルネーに来てから顔馴染みになった下町の人たち。彼らは、ヘルデンズ人で、メルジェーク人で、アジェンダ人……。
ブランカはヴォルフを見上げた。ヴォルフも典型的なアジェンダ人だ。
そして、火傷の女――。
「ブランカ? 大丈夫か?」
ヴォルフがブランカを揺する。
ブランカは首を振った。
単なる脅しでは済まない……。
ここも近いうちに、本当に潰される。
「ヤーツェク、そっちは頼んだ。じきに連絡する。頼むから冷静でおってくれよ」
身分証と金を、服の内側に入れる。仲間の足がつくようなものは、普段から処分しているから特に問題ない。
アロイスはハンチング帽を深く被り、くたびれた鞄を肩から下げた。
「ああ、俺もあんたらが出たら適当に出るよ」
ヤーツェクはやや困惑気味にアロイスに返事した。アロイスの横で出る用意をするブランカとヴォルフを、まじまじ眺める。
火傷の女とアジェンダ人の男……。
今まで特に気にしていなかったが、今朝のアメルハウザーのニュース以来、引っかかっていた。
「ヤーツェク」アロイスはヤーツェクを鋭く見た。「今必要なことだけ考えろ」
ヤーツェクはアロイスを見返した。この三人が何かを隠しているのは気付いていたが、今くらい明かしてくれてもいいのではと思う。
だが、こんなことで時間を無駄にしても仕方ない。
ヤーツェクは、少年のような格好のブランカの手を取った。
「必ず無事でいろよ」
ブランカはヤーツェクの手をぎゅっと握って頷いた。
ヘルネーの下町から男たちがひとりふたり、時間をずらして去っていく。みんな目的地はばらばらだ。
大事なことはただ一つ。オプシルナーヤの反乱分子狩りから逃れること。
ブランカとヴォルフとアロイスも、夕方に職場から帰宅する人たちに紛れながら、街中を西へ向かった。
俯きがちに歩くヴォルフを真ん中に、ブランカとアロイスは付き従うように歩く。傍目に職場の先輩後輩のように見えているといいのだが。たびたびすれ違うオプシルナーヤ兵士を見るなり、ブランカはそう願った。
思わず胸元に手を添えたくなるのを必死に堪える。
せっかく見つけたヘルデンズの未来。地雷のせいですぐにはどうにもできないが、油田はこの国を変えてくれる希望だ。
西ヘルデンズとブラッドローに頼らざるを得ないのが、とても苦しい。しかし決してオプシルナーヤに奪われるわけにはいかない。
銃声が、突然鳴り響いた。
ガラスが割れる音も、街角の向こうから見えた。泣き叫ぶ女性や子供を嘲笑うかのように、兵士たちが家や店を破壊していた。
「ブランカ、止まるな」
ヴォルフが小声で呼びかける。
ブランカは引っ張られながら足を前に運んだ。
別の街角で、男が数人、オプシルナーヤ兵に連れて行かれる。その中の一人が暴れて逃げ出すと、兵士は流れる手つきでその人を撃った。
そばにいた少女が泣き出した。
「今は逃げることだけ考えや」
アロイスが横から囁いた。
分かっている。こんなところで立ち往生していてはいけない。
だけど――。
『火傷の女性探しにご協力を』
さっきからたびたび目にするポスターが、ブランカに突きつけてくる。
ブランカを見つけ出すためなら、父はどんな手でも使ってくる。目的の妨げになるなら、街を壊すことなんて厭わない。
私は――逃げていいの?
先ほど撃たれた人は動かない。理不尽な乱暴に啜り泣く声。道を行き交う人は、生気のない目でそれらを見ながら、微かに震えていた。
こんなことが、あとどれくらい繰り返されるの?




