5-14.忍び寄る①
髪よし、服よし、化粧よし。
ゼルマは自分の部屋の姿見の前でポーズを決めた。
いつも通りのセクシーな自分だ。
口紅をいつもよりも厚く塗る。うん、これでいい。
ゼルマはお気に入りのピンヒールを履き、スカーフを巻いて、『女神の泉』の裏口から外に出た。
スクーターの前に、ヤーツェクが立っていた。
「今日も店、サボんのか?」
ゼルマはヤーツェクを上から下まで値踏みするように眺めた。まったく、相も変わらずみすぼらしい格好。
「店はパパがやってくれてるから大丈夫よぉ」
ゼルマはヤーツェクをスクーターから払いのけるように手を振るが、ヤーツェクがその手を取った。
粗野で理知的な瞳が、ゼルマを見下ろす。
「お前、ここ数日こんな時間にどこ行ってんだ?」
ゼルマはうんざりしたようにヤーツェクを見上げた。
「だからいつも言ってんじゃなぁい。ちょっと気晴らしに行くだけよ」
言いながら、ヤーツェクの手を振り払う。もうこのやりとりも三日目だ。いい加減に諦めてほしい。
ヤーツェクはもどかしそうに手を上げ下げした。
「なぁゼルマ。ここ最近俺たち普通じゃないけど――」
「普通じゃないのはあんただけ。あたしはいつもと変わらないんだから」
ゼルマは構わずスクーターのエンジンをかけ、店の裏手から出した。
「あんた、たった一晩ヤッたからって彼氏ヅラしたいわけぇ?」ゼルマは鼻で笑った。「純情なことで」
ヤーツェクはゼルマを睨んだ。
悪態をついて店の中へ戻っていく。
ゼルマもイライラして市街地に向かった。
いつものバーの近くに行くと、店先にこの前のオプシルナーヤ兵がいた。
「やぁダーリン。ご機嫌斜めだね」
彼は片言のヘルデンズ語で言った。長い腕が、ゼルマのウエストに伸びてくる。
ゼルマは広い肩に腕を回して、薄く彼を見上げた。
「そぉなの。慰めてくれない?」
***
「まだ起きとるのか?」
毛布にくるまりながらエンゲルグルント山を眺めていると、オットーがコーヒー片手に裏手へやって来た。
彼はブランカの隣に座った。
「なんだか眠れなくて……考え事をしていました」
ブランカは毛布を剥がしてオットーに差し出すが、老人は断った。
ブランカはオットーを見上げた。「……祖母の話、ありがとうございました」
「たいしたことではない」オットーは首を横に振った。
夜の静寂が、二人を包む。山の向こうでは、たくさんの星がきらめいていた。
しばらくの沈黙の後、オットーが静かに聞いた。
「君は今、ブランカと名乗っているんだったか?」
ブランカは曖昧に頷いた。「流石に本名は名乗れないので……」
オットーは納得したように頷いた。
「ブローチをもう一度見せてくれないか」
ブランカは胸元からゴールドのブローチを取り出した。ブローチのピンで花の装飾の隙間を押そうとするが、そのままで、とオットーはブローチを手に取った。
表面の花の装飾を、指でなぞる。
「どうして『ブランカ』なんだ?」
ブランカは一番最初に名乗った経緯を思い出そうとした。しかし記憶が酷くおぼろげだ。
「……なんとなく、です」
「そうか……」老人はブローチを手の中で転がしながら、ふっと息を漏らした。「皮肉なものだな」
オットーの言っている意味が分からなくて、ブランカは首を傾げた。
老人はブローチをブランカに返した。
「お前の祖母も、白い花が好きだった」
ブランカは表面の花をそっと触った。金一色のこの装飾に色味を想像したことなんてなかったけれど、これが白い花なら、とても癒される気がした。
ブランカはピンで花の表面を開き、若かりし祖母の横顔を改めて見た。
お祖母様……。
ブランカと同じ名前の祖母。
つい昨日まで意味を為さなかったブローチの秘密が、今は特別愛おしく感じられた。
祖母の彫りを指でなぞっていると、ややしてオットーが尋ねた。
「親はどうしたんだ?」
ブランカは目を瞑った。
父のことは考えたくない。
母のことは――……。
静かに涙が流れた。何度思い出してもあの光景は辛すぎる。
オットーはそれ以上は深掘りしなかった。代わりにブランカの手を軽く叩く。
「ケラミンが生きていれば、もう少し時代は変わっていたかもしれない……」
ブランカはオットーを見た。老人は目を細めて、遠い日を眺めていた。
ブローチの中の祖母をじっと見る。
祖母は、祖父にとってどんな人だったんだろう。
祖父とオットーの間に、一体何があったのか。
それは聞くにはまだ、ブランカもオットーも準備が出来ていなかった。
ブランカはブローチを眺めながら、ふと思い出した。
「オットーさん、ひとつ聞いてもいいですか?」
老人は片眉を上げた。「ひとつだけか?」
ブランカは曖昧に頷いて、ブローチの側面をオットーに見せた。
「ここの文字、どういう意味か分かりますか?」
「暗くてよく見えん。なんて書いてある?」
ブランカは胸元の布袋から、ベッカーのメモを取り出した。
『N4CLK1RM△3』
オットーはふんっと鼻息で笑った。「マクシミリアンの奴め……」小声でそう呟く。
「昔こういうのが流行ったんだ」ブランカが首を傾げると老人は付け足した。「人名を入れ替えて暗号化する遊びだ」
ブランカはますます困惑した。「それで……?」
オットーは片側の口角を上げて言った。
「KERAMCLAUD」
「ケラムクラウド……?」
「クラウディア・ケラミンだ」
オットーはメモをブランカに返して懐かしそうに目を細めた。
「その困った顔、あいつもよくしていたよ」
老人はぽんとブランカの肩を叩いて、家の中へ戻った。
***
仄暗い寝室の中、男女は激しく身体を揺すり合った。
頂点に達すると、二人は荒い息を吐き、ベッドに倒れ込んだ。
「まったく……君は本当にセクシーだ。ずっとこのままでいたいよ」
男は女に覆い被さりながら、彼女のこめかみにキスをした。
女は押し潰されるのを心地よく感じながら、男を流し見た。「なら、ずぅっといればいいんじゃない?」
「そんなわけにはいかないんだ。僕は一時的に派遣されて来ただけだから」男は横に転がり、片手に頭を乗せた。
「ふぅん。たいそうな任務なのかしら」
「どうかな? 火傷の女の子探しなんだ」男は彼女を見た。「知ってる?」
女は鼻で笑った。
「そんなの、いっぱいいるじゃない」
「そうだよね」
男は天井をぼんやり見ると、再び女に覆い被さった。
***
翌朝。
アロイスはガソリンスタンドで大きく伸びをした。
こんなところに二泊もするとは、まったく予想していなかった。しかも一日目は車中泊。他の二人はまだ若いからいいが、こんな短身で童顔とはいえアロイスは三十代半ば。流石に体に堪える。
しかし、あれをどうするかな。
アロイスは上半身を左右に振りながら、エンゲルグルント山を眺めた。
ここに来る前から随分状況が変わったが、油田であることの方が遥かに意義がある。ヘルデンズの復興に使いたいのはアロイスも同じだ。
しかし事はそんなに簡単じゃない。
『――こちらは東ヘルデンズ国営放送です』
さっきまで安っぽいドラマを流していたガソリンスタンドのラジオが、ニュース番組に切り替わった。
『本日未明、エルンハルト地区において、治安維持部隊が反社会的武装集団を制圧しました。これにより、地域の安全は回復され――ザザッ』
「なかなか都会は物騒っすね。ここではまったく無縁でさぁ」
給油作業をしていた店員が、欠伸しながら言った。まったく他人事のようだ。
「ほんまっすね……」
アロイスは適当に相槌を打ちながら、顔を引き締めた。
エルンハルト地区は、ヘルネーから南に数時間の町。
嫌な胸騒ぎがした。




