5-12.オットーと祖父
雨音に呼応するように、心臓がうるさく鳴った。
「クラウディア……まさか本当に……」
オットーの声と荒い息が、部屋に響いた。
オットーはブランカの顔を端から端まで食い入るように眺め――。
鋭い目でブランカを睨みつけた。
「何でここに来た!」
次の瞬間、オットーは杖を振り上げた。
「ブランカ!」
ヴォルフが素早く間に入った。ヴォルフの背中に、勢いよく杖を打ち付けられる。一足遅く、アロイスがオットーを抑えた。オットーはアロイスを振り払おうと暴れている。
そのすべてに、ブランカはどうすることもできなかった。
「お前は……お前は、何で来た! ダールベルクに言われて来たのか!? 今度はわしを殺しに来たのか!!」
オットーは唾をまき散らしながらまくし立てた。
ブランカはその言葉を一つずつ受け止めた。
ダールベルク……今度は殺しに……?
オットーの右足と顔を交互に見る。ブランカは力なく首を横に振った。
「じいさん、落ち着け」アロイスが老人を抑えながら言った。「僕らはたまたまここに来ただけや。あんたを殺す気なんてさらさらない」
「信じられるものか! あのダールベルクの血だぞ! お前たちよく知ってるだろう!!」オットーはブランカを指さしながら、ヴォルフを見た。「お前はなぜその小娘をかばう!? お前はダールの生存者だろう!?」
ヴォルフは背中の痛みに顔をしかめながらも、ブランカを後ろに隠した。「こいつが……ダールベルクとは違うからだ」
「違うだと!? マクシミリアンが溺愛していたクラウディア・ダールベルクだぞ!?」
老人があまりに暴れるので、ヴォルフも一緒に抑えに行く。男二人がかりで抑えられながら、オットーはずっとブランカを睨み続けていた。
ブランカは手の中のブローチへ視線を落とし、そして床に落ちた写真を拾った。老人へと視線を戻す。
「あなたは……なぜこのブローチを知ってるのですか?」
震える声。
ヴォルフとアロイスは息を飲んで、ブランカとオットーを見比べた。
「この女性は誰ですか……?」
ブランカは写真をオットーに向けた。
オットーは写真をじっと見た。きつく吊り上がった目尻が、微かに下がる。老人の口が、「ケラミン」と動いた。
ブランカはそっと尋ねた。
「祖父を、知っているのですか?」
オットーは、再びブランカを睨みつけた。
「この国にあいつを知らん奴なんかいるのか?」
ブランカは何も返せなかった。
「出て行け」
オットーは再び暴れ出した。
「帰れ! 出て行け! お前の顔など見とうない!」
激しい雨の中、車内の空気は重かった。
「念の為にとトランクに毛布いくつか積んどいて正解やったわ」
アロイスが窓際に体を預けて毛布をかぶった。
いくら初夏とはいえ、ここはヘルデンズ北部。夜は冷える。
「しかしあのじいさん、ほんま暴力的やったな。あんな打たんでもいいやんな」
アロイスが腕の赤くなった箇所を手でさする。オットーはアロイスたちが退去するギリギリまで杖を振り回していた。
「すみません……」
「謝るな。お前のせいじゃない」
ヴォルフも同じく首周りを揉んだ。ヴォルフが一番叩かれていた。
ブランカは後部座席で毛布をぎゅっと握りしめた。
「しかしどうするんだ? ああなったら何も聞けないぞ。それどころか通報されたらどうする?」
「一応、あの家に電話はないのは確認済みや」アロイスは前方の家をじっと眺めた。「傘もささずに民家あるとこまで行ったら分からんけどな」
車は、オットーの家を見張れる位置に停めてある。老人の家が他の民家から孤立しているのは、三人にとってはまだ都合が良かった。
「あのじいさん、どこまでこのあたりの事情を知ってると思う?」
ヴォルフも同じく毛布にくるまりながら、オットーの家を監視している。ヴォルフの体格では助手席で休むのは居心地悪そうだ。
「どうやろ。さっきの様子じゃあ割と知ってそうな気もしたけど」
ブランカはオットーとのやりとりを思い返してみた。
ダールベルクに言われて来たのか。
マクシミリアンが溺愛したクラウディア。
祖父の名を口にするたび、オットーは怒りを込めていた。
無理もない。彼が祖父と旧知の仲でありながら地雷の被害に遭ったなら、憎くて仕方がないはずだ。ブランカのこともそう。
ブランカは手の中のブローチを見つめた。
――ヘルデンズの運命は、お前の手に
こんな運命は間違っている。一体何がしたかったの?
ブランカは滲む涙を堪えて、ブローチの花の飾りを開いた。オットーの部屋にあった写真と同じ素敵な若い女性。
ケラミン。
オットーはこの女性を見るたび、そう言っていた。
「もう一度、オットーさんと話したいです」
アロイスとヴォルフが振り返った。
ヴォルフは眉を顰める。「お前が一番危ないんだぞ」
ブランカは頷いた。でも、多分自分は確かめなくてはいけないことが、まだある。
アロイスは考え込むようにブランカとブローチを眺めると、一度オットーの家を見てから、またブランカを見た。
「ブランカちゃん。たまには図々しくなってみやん?」
アロイスはニヤリと笑った。
翌朝。
開いた扉の向こうで、オットーが顔を歪めた。
「また来たのか! 帰れ! お前の顔など見たくない!」
ブランカはぐっと両手を握って勇気を出した。「でもオットーさんの部屋掃除、途中でしたし」
「要らんと言っとるだろう、姑息な小娘め。帰れ!」
老人は扉を閉めようとするが、アロイスが足を差し入れた。
「生意気な若造が。何のつもりだ」
「何のつもりもないわ。ただやりかけた仕事は放り出さない主義なんや」
オットーが内側から引っ張る扉を、アロイスはなんとかこじ開けようとする。ヴォルフも加勢した。
ブランカは隙間からオットーをまっすぐ見た。
「オットーさん、今日はこんなに晴れました」
雨はすっかり止んで、気持ちの良いくらい青空が広がっている。
「せめてベッドのシーツだけでも替えさせて下さい」
通れるくらいまで扉が開いた隙に、ブランカはつかつか中に侵入した。
オットーが追いかけてくるが、アロイスとヴォルフが老人を遮った。
「まぁまぁ、たまには若いのをこき使うもんやで」アロイスは親指でヴォルフを指した。
俺だけかよとヴォルフは言いかけて、よろけたオットーを支えた。「ほら、じいさん。ゆっくりしとけよ」
文句を言い続ける老人を、ヴォルフとアロイスが居間に連れて行く。
ブランカは寝室に入り、窓を開けた。次に流しに行き、たらいに水を張る。それを抱えて裏手に向かおうとしたところで、ヴォルフに持ち上げられた。
「俺がやろうか?」
きっとその方がいいのは分かっている。でもブランカは首を横に振った。
「ヴォルフはお食事の用意、お願いしていい?」
ブランカはベッドからシーツを剥がし、石鹸と洗濯板と一緒にたらいに入れた。水の冷たさに身体が震える。
それでもブランカはシーツを洗濯板にこすった。
家の中からはぶつくさ文句を言うオットーの声と、飄々と部屋片付けをする音、コーヒーの匂いがしていた。
爽やかな風に、シーツが揺れている。
ブランカはふぅと息を吐いた。
「ご苦労さま」ヴォルフが顔を覗かせた。「手、大丈夫か?」
ヴォルフはブランカの手を取った。少し赤くなっている。火傷の残る右手は、より痛そうに見えた。
ブランカは首を振った。
「そうか」ヴォルフはブランカの黒髪についた石鹸を拭った。「今なら中行っても大丈夫だから、少し休め。飯も置いてある」
そう言ってヴォルフは斧を持ち出し、薪割りを始めた。
ブランカは家の中に戻った。
居間を覗くと、アロイスがこちらを見て、口に人差し指を当てた。見れば、オットーがウッドチェアで寝ていた。
ブランカはそっと離れ、ヴォルフが用意してくれたスープを飲んでから、寝室に行った。
カビ臭かった空気が、ずいぶんきれいになっていた。ブランカはベッド周りを片付け始めた。
昨日せっかくまとめた本が、また散らばっている。壁に打ち付けられた本棚に、アルファベット順に本を並べていく。本当は分野別の方がいいのだろうけれど、この家にある本は分野が偏りすぎて、分け方がよく分からない。
そうしていると、ベッドの下の奥に、小さな箱があった。
しばし迷った末、ブランカは中を開けた。
大量の写真が出てきた。
岩肌、石と定規、山道や山の上から撮った写真。そんな類の写真に混ざって、ブローチの女性の写真がいくつか出て来た。彼女単体のものもあれば、若い男性が一緒に写っているものも。
更に底の方から、二人の男性の写真が出てきた。
少し若いときのオットーと――祖父。
ブランカの手が止まった。
スーツ姿の二人は、肩を組んで笑っている。
「君は部屋掃除しに来たのか、サボってるのか分からんな」
ブランカは顔を上げた。オットーの忌々しそうな顔が、ブランカを見下ろしていた。
「もう用は済んだだろう。さっさと帰らんか」
ブランカは首を横に振った。「……オットーさん、祖父と仲良かったんですか?」
オットーは鼻に皺を寄せて、顔を逸らした。「あいつが裏切った。だから孫も好かん」
ブランカは、手元の写真と目の前の老人を、交互に見た。喉に固いものが詰まる。
オットーは向きを変えて居間に行こうとする。
ブランカは咄嗟に別の写真を取り出して聞いた。
「この女性は……誰なんですか?」
オットーは肩越しに振り向いた。「ダールベルクは、クラウディの話をしなかったのか?」
「クラウディ……?」
老人は困惑するブランカをじっと見て、やがて言った。
「クラウディア・ケラミン――お前の祖母さんだ」
ブランカは息を飲んだ。
写真の女性に目を落とす。震える手でブローチの花の装飾を開けた。
優しさと意志を感じさせる、生き生きした素敵な女性。
私の、お祖母様……。
「知りませんでした……。私が生まれたときには既に亡くなっていたので」
オットーは静かに頷いた。
「祖母は、どんな人だったんですか?」
オットーはブランカの手の写真を取り上げると、懐かしそうに目を和らげた。
「……クラウディア・ケラミンは、気高く美しい、みんなの憧れだった」
あいつは男顔負けに頭が良く、よく俺たちを捕まえては言い負かしていたよ。大学で知り合ったんだ――ケラミンと俺、それから……ダールベルクも。
祖父の名を語るとき、オットーの声にはやはり怒りが滲んでいた。
オットーはしばし沈黙を挟みながら、話を続けた。
「当時は、よく政治のあり方に議論していた」
わしはどうでも良かったがな。ダールベルクが長々と持論を展開するたびに、ケラミンはよく口出しして、二人はしばしば言い争っていた。
初めて見たときは面倒くさいインテリ女だと思ったよ。しかし実際には後腐れないさっぱりした性格で、優しく明るい女性だった。
「あいつも暖炉を付けられなかったな」オットーはふっと息を漏らした。「それどころか真っ黒になっていた。そんな状況で、大きく笑っていた」
話しながら、オットーは昔の写真を見せてくれた。どの写真の祖母も、おおらかな笑顔できらきらしていた。
ブランカは祖母の姿を指でなぞった。
写真をめくっていくと、教会のチャペルの下で手を握り合う若い祖父と祖母の写真が出てきた。
オットーは乱暴にブランカの手の中の写真を遠ざけた。
「余計な話をした。早く帰れ。もう気が済んだだろう」
ブランカは老人を引き止めた。「あの、もう一つだけ教えてください。あなたが祖父の古い友達で……」
「誰が友達だ! あいつは国家の敵だぞ!」
「……あなたが祖父の古い知り合いで、このブローチを知っているのなら、きっとあの山に関してもご存知のはず」ブランカはエンゲルグルント山を指差した。「あそこには何があるんですか?」
オットーはつまらなさそうに吐き捨てた。「見ただろう、地雷だよ」
「あの地雷は、何を守ろうとしているんですか?」
ブランカは老人をまっすぐ見た。
オットーは胡散臭そうにブランカを睨んだ。
「知ってどうする? お前はあいつの孫だ。ろくなことになりはせん」
「否定はしません。でも確かめたいんです」ブランカはぐっと唾を飲み込んだ。「それが戦争の原因になるなら、私は祖父の陰謀を止めなくてはいけない。ようやく細々とでも再生できてきたのに、オットーさんも……」
ブランカは不意にオットーの右足を見、それから穴だらけの部屋を見渡し、再びオットーを見上げた。
「これ以上何を犠牲にしなくちゃいけないんですか?」
老人はやや困惑したように顔を歪め、じっとブランカを見た。
しばらくして、首を傾けた。
「その火傷はどうしたんだ?」
「これは……」
予想外の質問に、言葉に詰まる。しかし正直に火傷の経緯を話すのは、抵抗があった。代わりにこう答えた。
「これは、自分への戒めなんです」
オットーは理解不明というように眉を顰めた。
「私はあまりにも無知で愚かでした」
ブランカは、祖父の理想がただの破壊だったことを、オットーに語った。祖父の支配下でどんなに苦しんだ人がいたのかを、語った。幼い自分がどれだけ残酷な振る舞いをしていたのか、懺悔した。
オットーはそれらを静かに聞いていた。
「ふん、あいつに聞かせてやりたいな」
ブランカは溢れた涙を拭いながら、強く言った。
「だから……祖父がまた間違ったことのために脅威を残しているなら、止めないといけない。誰も戦争なんて望まない」
老人は、そっとハンカチをブランカに差し出した。ブランカは少し驚きながらも、ハンカチを受け取った。
オットーは窓辺に行き、山を眺めた。
「あいつは聞く耳を持たなかった……」
老人はぽつりと言った。
「あれを正しく使えば、戦争を早くやめることもできた。この国がこんなに疲弊することもなかった……」
正しく使う……? 「爆弾に正しい使い方なんてあるんですか?」この人からそんな言葉が出てくるのが、ブランカは許せなかった。
オットーは困惑したように振り返った。「爆弾? 何を言うとる」
ブランカも困惑した。「あそこには、爆弾関係のものが隠されているんですよね? ホフマンさんの……」
オットーは眉を顰めつつも、聞き返した。「もし爆弾だったらどうする気なんだ?」
「分かりません」ブランカは首を横に振った。「でも少なくとも使われないようにしなくては。爆弾なんかで生活は守れない」
オットーはしばらく押し黙った。
「……何を誤解しとるか知らんが、あそこには地雷以外爆弾なんぞはない」
ブランカは息を飲んだ。「え?」
オットーは諦めたようにため息をついた。「地雷さえなければ、ヘルデンズを立て直せたのに」
「どういうことですか?」
まったく話が見えない。
ヘルデンズを立て直せるようなもの……?
「油だよ」
オットーはぽつりと言った。




