5-11.エンゲル地方と老人①
「アロイスもエンゲル地方、初めてなのか?」ヴォルフが助手席から尋ねた。地図を広げ、方向指示を出している。
「ないな。あんなところ、こんな用もなければ行くこともなかったやろな」アロイスが運転席から答えた。身長が低いせいで、ハンドルを握る姿がまったくさまにならない。「ブランカちゃんは?」
ブランカは後部座席で首を横に振るが、二人とも前にいることを思い出した。「私も初めてです」
「そんなもんやんなぁ」
車は国道を北へ走っていく。
翌日、ブランカとヴォルフとアロイスは、早速エンゲル地方に向かった。ヘルネーから北に車で三、四時間ほどの田舎だ。
ヘルネーを出てから景色が流れていくたび、ブランカは緊張してきた。
本当にこれで、明らかになるのだろうか。
ブローチの解読にもう少し時間がかかると思っていたから、実際に見に行く勇気が未だにない。
ホフマンさんの爆弾……。
一体どんな形で現れるのだろう。手に負えないようなものだったら、どうしたらいいのかしら。古城の町では祖父の計画を止めなければと息巻いていたのに、いざ近づいてみると逃げたくなる。
ブランカは背もたれにもたれながら、窓の外を見た。
荒れ地ばかりの殺風景な景色。ところどころ農作物が出来ている箇所もあるが、それよりも崩れた小屋がそのまま放置されていることの方が気になった。
「ブランカ? 大丈夫か?」ヴォルフが後ろを向いた。「酔ったか?」
ブランカは首を横に振った。「平気です」
「そりゃそうやろ。僕の運転は安定しとるからな」アロイスが口笛吹きながら言う。「ティモの方がよっぽどひどかったやろ」
「ティモさんのは……」ブランカはティモのトラックに乗り込んでヘルネーまで来たときのことを思い出した。「あのときは、それどころではなかったので……」たった二週間余りしか経っていないのに、ずいぶん昔のことに思う。
するとヴォルフが神妙な顔でこちらを見ているのに気がついた。
「その……無理しないようにな」
労わるような力ない口調。もしかしてティモのトラックの件を気にしているのだろうか?
ブランカはヴォルフを安心させるように頷いた。
時折オプシルナーヤ軍の車が、反対側を通っていく。ブランカはいちいち顔を隠さないでいるのに苦労した。
何もなく通り過ぎるたび、ブランカは胸元をぎゅっと握りしめた。
ゴールドのブローチ。
その下で、心臓がうるさく音を立てていた。
やがて車はエンゲル地方に入った。
「ほんまなんもないとこやなぁ」
見渡す限りのジャガイモ畑と玉ねぎ畑。点々と見える家は、特に壊れた様子もない。途中の景色と違って、戦争などなかったかのようにのどかだ。
北には、大きな山が東西に広がっていた。
「さて、どう行くかな」
「ブランカ、スケッチもらえるか?」
ブランカは胸元からヴォルフのスケッチを出した。昨日描いた地形図を、新たに反転して模写したものだ。
スケッチには、左右に伸びる山の下側中央――エンゲルグルント山の南側に短い濃い線がいくつか集まっていた。
「やっぱりここから攻めるしかないよな」
ヴォルフは地図の該当箇所を指で示しながら、アロイスに指示を出した。
山の麓へ近づくにつれて、道がだんだん細くなっていく。先ほどまで続いていたジャガイモ畑も、ただの野原に変わっていった。遠くに民家は見えるが、このあたりは不気味なほど暗く静かだ。
そうしているうちに、道が途切れた。
「印のあたりはもうこの辺なんだが……」ヴォルフは首をひねった。
三人は車から降りると、山の方に向かって野原を歩いた。
しかし歩いて五分も経たないうちに、低い鉄条網に阻まれた。雑に張られたそれは、ところどころ破れている。
近くには、「この先危険、入るな」とヘルデンズ語で書かれた板も――。
「いかにも、という感じだな」ヴォルフが言う。
「絶対この先になんかあるやん」
ブランカは二人の一歩後ろから、鉄条網の先を眺めた。鉄条網のこちら側と比べると草の生え方がまばらで、土が剥き出している箇所もある。
ヴォルフとアロイスはブランカを振り返った。
「行くか」
ブランカは勇気を絞って頷いた。
三人は鉄条網に近づいた――。
バンッ!
突然の銃声に、三人は足を止めた。聞こえてきた方を見る。
横の草むらが揺れた。
ヴォルフとアロイスは反射的にブランカの前に出て、草むらに向けて銃を構えた。
現れたのは、一人の老人。猟銃をこちらに向けて構えている。
「じいさん、危ないやん。いきなり撃って」
アロイスは軽い調子で言うが、老人に向けた警戒心は非常に鋭い。
ヴォルフは無言で老人を注視している。
老人は眉間に深いしわを寄せると、忌々しそうに口角を上げた。
「危ないだと? 生意気な若造どもが。命の恩人に感謝の言葉もない」
「命の恩人――?」
アロイスが問いただそうとしたとき、草むらから出て来たイタチが、するっと鉄条網の中に入って行った。
イタチは鉄条網の先の草むらに消えていく。
老人が舌打ちした。
アロイスたちが老人に注意を戻したとき。
鉄条網の向こうで、地面が吹き飛んだ。
噴煙があたりに立ち込める。
ブランカは思わず後ろに下がった。ヴォルフとアロイスも驚愕の目で、地面が吹き上がった方を眺めている。
三人とも、言葉がすぐに出てこなかった。
「こういうことだ」老人は銃を下ろした。「あんな風になりたいなら止めないがな」老人はつまらなさそうに吐き捨て、こちらに背を向けた。
「おい、今のはまさか……」
「じいさん、待てや」
ヴォルフとアロイスが老人を引き止めにいく。
老人は慌てる様子もなかったが、途中何かにつまづいて、倒れた。
「おい、じいさん、何でこんなところに地雷が――」
二人は老人に近づいて、また息を止めた。
ブランカもそっと二人の後ろから覗き見た。
老人の右のズボンから、そこにあるものの代わりに、金属の棒が見えていた。
***
ブランカたちは老人を車に乗せて、彼の家に向かった。
「ふん、つくづく生意気な若造どもだ。お前らの世話なんかいらん」
老人はぶつくさ文句を言っている。車に連れて行く時も何度か暴れていた。
「僕らも世話したないわ。そこの女の子に感謝しいや」
老人を置いてはいけないと、ブランカがアロイスにお願いした。
「余計なことだ」
老人は隣に座るブランカに向かって吐き捨てた。
「あんた、あそこに何があるか知ってるのか?」
ヴォルフが低い声で聞いた。助手席に座る彼の手には老人の猟銃。老人はその状況にも苛立っている。
「お前らに教える筋合いなどない」
「なぁじいさん、あんたその足、あの地雷か?」
アロイスの無遠慮さに、ブランカは冷や冷やした。
老人は窓の外を眺め、何も言わなかった。
地雷原から数分で、老人の家に着いた。
そんなに新しくもない、田舎の平屋。周りにはタマネギ畑が見えるだけで何もない。
「あの、手を……」
老人側の扉に回りブランカは手を差し出す。老人はしばしブランカの手を睨むと、勢いよくその手を打った。
「おい、それはないだろ」ヴォルフがよろけたブランカを受け止めながら言う。
「ふん、見世物だと思ってバカにしおって。憐みなどいらんわ」
老人は車から降りるが、やはり安定していなかった。
アロイスが後ろから支える。「ようあんなとこまで歩けたな」
「そのアジェンダが銃奪わんかったら一人で帰ってこれたわ」老人はヴォルフを睨みつけるが、ヴォルフは何も言い返さなかった。
「おい、お前たち、うちに押しかける気か?」
「まぁまぁ、ええやん」
アロイスが老人の背中をぽんぽん押しながら、家へ向かう。老人は決して上背がある方ではないが、アロイスが低いせいで、老人と孫に見えなくもない。
「僕らもじいさんに聞きたいことあるからさ」
「図々しい若造が……」老人は歯軋りする。
「今ほどあいつの遠慮なさをありがたいと思ったことはないな」ヴォルフが小声でぼそっと言う。
ブランカも密かにそう思った。
二人はアロイスたちに続いて家に入った。
玄関には泥のついたシャベルとハンマーが投げ置かれていた。廊下の壁は褪せていて、ところどころ銃で穿たれた穴が空いていた。
「うわ、なんやこれ。きったな」
先に居間に行ったアロイスが声を上げた。
ブランカたちも居間を覗き込む。
床に散らかった無数の本。本棚からこぼれ落ちたように中途半端に開いたものが、乱雑に重なっている。壁の本棚の一角は崩れ、よく見たらこちらの壁にも廊下と似たような穴が空いていた。
「ふん、わしはこれで苦労しとらん」
老人はそそくさと暖炉の前のウッドチェアに座りに行く。そこの周りだけ、本がきれいに積まれていた。
ブランカは一歩踏み出そうとしてヴォルフに止められた。「床、気をつけろ」
見れば、床には陶器の破片も散らばっていた。おまけにガラスも。
どすん、と鈍い音がした。暖炉の方で老人が転んでいる。
ヴォルフが老人を起こしに行った。老人は顔を赤くしているが、ヴォルフに抱えられる彼は、弱そうにも見えた。
「それにしてもひどいな、これ」
布地の裂けたソファを見て、アロイスが言う。ソファは中から綿も出ていた。
ヴォルフも壁を見て渋い顔をする。「これは……オプシルナーヤ兵にやられたのか?」
老人はつまらなそうにウッドチェアにもたれただけで、何も言わない。
「あの地雷も、オプシルナーヤか?」
アロイスが声を低くして聞く。
ヴォルフもブランカも、息を呑んで答えを待った。
老人はしばらく黙っていたが、肩越しに三人を迷惑そうに眺め、壁の穴を見、火のない暖炉に視線を戻した。
「オプシルナーヤなど、あの地雷を見るなり、とっとと消えて行った」
ブランカはヴォルフと目を合わせた。嫌な汗が背中を伝う。
アロイスがそれを確かめた。
「あの地雷は……ヘルデンズがやったんか……?」
老人はふんと鼻で息をした。
ブランカは、無造作に投げ出された老人の右足を見ると、陶器とガラスの破片をよけて、ウッドチェアのそばにしゃがんだ。
「あの……お掃除、してもいいですか?」
ヴォルフとアロイスが息を飲む。
一方、老人の視線はゆっくりとブランカに落ちた。




