5-9.解読②
その日の夕方、ブランカとヴォルフは、アロイスの仕事部屋で二人して唸っていた。
ヴォルフはベッカーの家で二枚のスケッチを描き上げた。一枚はブローチの最下層に刻まれた薄い彫りを描いたもの。これはやはり等高線のように見えた。
もう一枚は、ベッカーの構造体の赤い光によって浮かんだ線をスケッチしたもの。金の板座の中央にはでこぼこの線が縦に走り、流れるようなS字の線が斜めに引かれている。左上には逆向きのV字が複数描かれ、それら全てを囲うように板座の側面に歪んだ線が刻まれていた。
まるで、どこかの地形図だ。
どこなのかはさっぱり分からない。ベッカーは全然十個の文字列解読を始めてくれないし、アロイスも近所の人に呼ばれて出て行ったから、ひとまず二人で何かしてみるしかない。
そういうわけで、アロイスの本棚にある地図を広げて調べていたのだが。
「あー分からねぇ」隣でヴォルフがソファに寝転んだ。「もう少しヒントがあればいいんだが」地形図のスケッチを手に取り天井にかざす。投げ出された手が、閉じたり開いたりしている。
ブランカは引き寄せられるように手を伸ばした。
しかし触れる直前で、ブランカは手を引っ込めた。
「ブランカ?」ヴォルフが顔を上げる。「どうした?」
「あ、いえ、その……」ブランカは咄嗟に俯いた。「なんでもないです」
「なんでもなくないだろ?」ヴォルフは起き上がってブランカを覗き込んだ。「お前のなんでもないはアテにならないからな。ほら、言ってみろ」
ブランカはヴォルフを見上げた。いつものまっすぐな笑みを浮かべている。
ブランカは少しだけ勇気を出した。「あの……その、手を……」
「手を?」
「揉んでもいいですか?」
ヴォルフは固まった。微妙な沈黙が漂う。
ああ、聞かなければよかった。あまりに身の程知らずだし、ヴォルフも困ってる。
頭の中でいくつもの後悔の言葉がよぎったとき、目の前に大きな手が差し出された。
「え、いいの?」
「いいよ。いくらでも」ヴォルフは僅かに眉間に皺を寄せつつも、困ったように目を逸らして笑った。「お前、時々大胆だよな」
そうなのかしら。そう言われると恥ずかしい気もする。
ブランカはヴォルフの手を取った。ブランカの手をすっぽり包める大きな手。いつもブランカを安心させてくれる。伝わる体温が、心地良い。
親指の付け根を両手で押すと、吐息が降ってきた。見上げると、思ったより近くにヴォルフの顔があって、薄鳶色の瞳が少し影って見えた。
ブランカはその瞳から、しばらく目が離せなかった。
するとヴォルフがふっと、柔らかく笑った。
「何で急に揉んでくれる気になったんだ?」
頰が熱くなってきた。改めて言われると、やっぱり大胆なことをしている気がする。
ブランカはヴォルフの手を見ながら答えた。「ヴォルフって何でも出来て器用ですよね」
「そんなことはないが……」
「今日のスケッチもびっくりしました」ブランカはソファに転がったスケッチを見た。「すごくきれい」
ヴォルフの指が忙しなくピクピクした。「まぁ、役に立ったならいいんだが……」
「本当に心強いです」どれだけ救われてるか分からない。「ヴォルフがいてくれて良かった……」
するとヴォルフは片手で顔を覆った。もう片方は、ブランカの両手をぎゅっと握る。手がやや熱い。
ヴォルフは咳払いした。
「スケッチは、母さんの影響なんだ。小さい頃、よく虫や植物をスケッチしてた」
ヴォルフは何気なく話すが、懐かしさと悲しさが言葉尻に混じった。
ブランカは思わず顔を伏せそうになるが、代わりにそっと尋ねた。「ヴォルフのお母さんて、どんな人?」
ヴォルフは少し黙った後、話し始めた。
「小さい頃、母さんとよく虫取りしてたんだ」
まだ自由に外を出歩けていたほんの小さい頃はさ、母さんとよく公園や植物園に行ったんだ。母さん虫取るのうまくてさ、近所の子にも取り方教えていたよ。俺たち子供は走り回ってる方が好きだったんだけど、母さんは採ってきた虫をスケッチして、野に放してた。
だから小さい頃はあんまりスケッチも興味なかったんだが、潜伏中に母さんがスケッチしてるのを見て、暇つぶしに俺も描いてたんだ。
「よく、横から口出しされたよ。線が歪んでるとか」
それで喧嘩にもなった。
ヴォルフは時折おどけながら話すが、ブランカはどう反応したら良いか分からなかった。
ヴォルフのお母さん。きっと素敵な人だったんだろう。会ってみたかったという想いがよぎるが、ブランカは即座に否定した。私にそんな資格はない……。
「……ブランカ。そんな顔しなくていい」
ヴォルフはブランカの顔を上げて、そっと言った。優しく気遣う薄鳶色の瞳。本当に気遣われなくてはならないのはヴォルフの方なのに。
ヴォルフは代わりに勇気付けるように笑った。
「俺はお前のも聞きたい。ジルヴィアはどんな母親だった?」
「母は……」
話し始めて、ブランカはヴォルフを見た。こんな話、本当に聞きたいのかしら。
しかしヴォルフはブランカの手を握ったまま頷いた。「話してくれ。お前の母親の話」
ブランカはしばらく逡巡した後、話し始めた。
「母はよく庭いじりをしていました」
母は花が大好きで、庭にはいつも薔薇やすみれ、デイジーやパンジーなど、色んな花が咲いていました。私もたまに母と一緒に花を植えたんですが、当時飼っていた犬がよく邪魔をして、私も気が付いたら犬と走り回っていて、母を困らせていた……。
「想像できないな、その光景」ヴォルフがからかうように言った。
「ごめんなさい、こういう話、贅沢ですよね」
「あ、いや、そういうことじゃなくて、犬と走り回ってた方」
ヴォルフは頬杖をついて、観察するようにブランカを眺めた。
「ブランカは、花が好きなのか?」
ブランカは曖昧に首を傾げた。「分からないです」
「分からないってなんだよ」
「最近はあんまり考えたこともなかったので。昔は好きでしたけど……」
考えてみれば、小さい時はどこでも花を摘んでいた気がする。あれも母の影響なのかな。
「なるほどな」
何に納得したか分からないが、ヴォルフはテーブルに置いていたブローチを手に取った。表面の花の飾りを指でなぞる。
するとふと、ヴォルフは側面の十個の文字を書き出した。
「ヴォルフ? どうしたの?」
「俺も試そうかと思ってさ。クロスワードとか一時期ハマってたからさ」
それに闇雲に地図漁ってもな、と言ってヴォルフは十個の文字と睨めっこした。
あまりに真剣な様子に、ブランカは改めて後ろめたくなった。
「ヴォルフ……本当は嫌じゃない?」
お母さんから教わったスケッチを、ブローチの秘密――祖父の秘密を明かすのに活用してくれて。今もこうして向き合ってくれている。心強いけど、ヴォルフに甘えすぎてる気がする。
「……まぁ、元々やらなきゃいけない任務でもあるし」
ヴォルフは言い訳のように言いかけて、いや違うな、とため息ついてブランカと向き合った。
「確かに、あいつ絡みのことは思うところは沢山ある。だけど、俺はお前の力になりたい」
言っただろ、とことん付き合うって。ヴォルフは言いながら、十個の文字に目を落とした。
ああ、やっぱり好きだな。
ブランカはしみじみ思った。
数日前にヴォルフと仲直りしてから、素直にそう思えるようになってきた。ヴォルフがまっすぐブランカと向き合い勇気付けてくれるから、そのたびに少しだけ心が軽くなる。
「お前も、今日は流石に疲れたんじゃないか? その、ブローチも衝撃だっただろうし」
ブランカは首を横に振った。「ううん、私ももう少しやる」甘えてばかりではいけない。
ブランカはブローチを手に取った。
花の装飾のついたゴールドのブローチ。ブランカはベッカーから借りた針工具を、花と葉の隙間に挿した。
二層目の女性の横顔。何度見ても素敵な人。
みんなはやたらと似てると言ったけれど、こんな装飾は別に珍しくない。当時の政府関係者なら、手に入れるのも難しくなかったはずだ。ブランカとしては、祖父がなぜこの面を花の装飾で隠したのかが疑問だった。
ブランカは女性の面を開け、最下層の板座を眺めた。薄く刻まれた彫りと光を当てて浮かぶ線。
いまだに驚きが収まらない。この五年間、何度も手の中で確かめ見てきたのに、まさか三層構造になっているなんて思いもしなかった。
だけどこれが、お祖父様の秘密。ホフマンの爆弾に関する情報――。
ブランカはヴォルフのスケッチを改めて手に取って見た。
等高線と地形図のような二枚。
落ち着いて眺めていると、どこかで見たことがある気がしてきた。
あれは……いつだったか。
確か、ブランカが十一歳になる数ヶ月前……。
***
「また来たのか、お前は」
執務室を覗くと、祖父は困ったように言った。
ブランカの――クラウディアの大好きな遊び場だ。
「お前ももうすぐ十一歳なんだから、少しはお淑やかにならないと」
クラウディアはえへへと言って、執務室のテーブルにアカデミーの課題を広げた。クラウディアの日課だった。
ふとクラウディアは祖父のデスクに広げられた地図が気になった。
「……また、この前みたいなことするの?」
数ヶ月前に見に行った『人種の美化活動』。あの光景が、やっぱり分からなかった。
だけど祖父はいつも通りだし、アカデミーの友達の反応も普通だった。クラウディアだけが普通じゃない。
クラウディアの質問を理解したかは分からないけど、祖父は首を横に振った。
「ここは――いや、分からない」
「分からない?」
クラウディアは祖父が手をついたところを見た。
左右に伸びる山の線。そこに交差する線が、左上から右下に向かって逆のS字を描きながら流れている。
地図の右下には、小さな四角がいくつも並んでいた。
その地図の枠外には――。
***
ブランカはヴォルフのスケッチを裏返して、天井にかざした。
いや、違う。似てるけどこれではない。
ブランカはスケッチをくるくる回した。
するとベッカーがアロイスに連れられてやって来た。
「兄さん、こいつに謝ったって。あのガラクタ壊されたん、相当腹立ってるらしいわ」
ベッカーは目を腫らして、ガラクタじゃない!と叫ぶ。ヴォルフはやれやれとため息ついた。
「悪かった。でもギア元に戻しただろ?」
「そういう問題じゃない」ベッカーはメガネに手を置いた。「君がゼルマの愛人の暴力男だろ? 噂通りだ!」
「何だその噂は……」でたらめと噂の尾鰭がひどすぎる。「それで、俺に抗議しに来たのか?」
ベッカーはふんっとヴォルフを無視すると、眼鏡を拭いてブランカを見た。
「頼まれていた文字列解読、僕なりにやってきたんだ。こうだと思う」
ベッカーはメモをブランカに差し出した。横目でヴォルフが文字列解読をやっていたのを見て、「ふん、粗暴男には無理だ」とこぼす。
ヴォルフとベッカーが睨み合うのをよそに、ブランカとアロイスはメモを読んだ。
『N4CLK1RM△3』
N4:ブロック
CLK1:区画
RM:セクション
△3:?
「△3、クエスチョンマーク付いてるやん」
「それが悩みどころで、僕は改訂版じゃないかと思うんだよね。それか特別区。昔こういうのよく見たよね?」
ベッカーはアロイスに同意を求めた。アロイスは首をひねって唸った。
「とりあえずこれを元に地図を探すか」
ブランカとヴォルフとアロイスは、ベッカーのメモを元に地図を探した。三人が調べものを始めたとたん、ベッカーはそそくさと帰っていった。
三人は黙々と地図のページをめくり、N4のブロックの中にCLK1区を探す。時々ヴォルフのスケッチと見比べながら、頭をひねって次のページへ行く。
二時間ほど続けて、アロイスがため息ついた。
「僕の持ってる地図もアテになるんかな」
なかなかそれらしい箇所が見当たらない。ヘルデンズは東側だけでも広い。ヴォルフと二人で漁っていた時よりは焦点を絞ってはいるが、それでも手探りなのは変わりない。
「少し休憩するか?」ヴォルフは目の間を揉み込むと、コーヒーを淹れに席を立った。
「ほんまや。もうだいぶ遅い時間や」アロイスが時計を見て言う。「ブランカちゃん、飯食べに行かへん?」
ブランカは首を横に振った。「もう少し粘ります」
無理しやんようにな、と言ってアロイスも部屋を出て行った。
ブランカは軽く伸びをして、改めてブローチとヴォルフのスケッチを見比べた。さっき、何か思い出せそうだったんだけど……。
アロイスが広げたままにした地図の上に、ブランカは何気なくスケッチを置いた。
「あれ……?」
そのままの向きで、地図とスケッチを見比べる。
地図は、アロイスが見ていた向きのまま、中途半端な角度で置かれている。スケッチはブランカのいる方を向いている。上から覗き込むと、山の位置や、川の曲線が、鏡で映したようにそっくりだった。
ブランカはそのままの向きでスケッチを反転して光にかざす。
似てる……。
ブランカは地図を正しい向きにして、該当の箇所をよく見た。
東西に走る山に、北西から南東に向かって伸びる逆のS字の川。南東部には住宅を表す小さな四角。
これ……昔見た地図だ……。
「ブランカ、茶でも飲むか?」
「ヴォルフ、これ見て」
ブランカはヴォルフを引っ張り、彼のスケッチの裏を天井にかざした。
しかしブランカの身長では無理があった。
ヴォルフは怪訝な顔をする。「どうすればいいんだ?」
「スケッチの裏をこの向きでよく見て」
ヴォルフはじっと見る。「それで?」
「これ見て」ブランカは先ほどの地図を見せた。
ヴォルフは地図を見ると、もう一度スケッチの裏側を眺め、また地図を見た。
「……エンゲル地方?」
驚いた表情でブランカを見た。
ブランカは頷いた。




