5-7.古城の決意
大きな教会から響く聖歌隊の歌声が、古城の町を包み込んでいる。
道行く人たちは無気力に悲愴感を露わにしていたのに、その歌声が聞こえてくると引き寄せられるようにして教会へ行き、もしくはその場で両手を握りしめて、祈るような表情でその歌声を聴いていた。聞こえてくる歌声には力強さがあり、切実に平和と自由を願う言葉を、パイプオルガンが奏でる重厚で神聖なメロディに乗せて歌っていた。
それをブランカとヴォルフは古城の塔から眺めていた。
ブランカは深々とため息を吐く。
「本当にごめんなさい。せっかくここまで連れてきて頂いたのに、空気を盛り下げることばかり。ましてや思い出すのもつらいようなことまで聞いてしまって……」
言いながら、塔の塀に項垂れる。
せっかくヴォルフが気分転換にと気を遣ってくれたのに、祖父だの爆弾だの空襲だの不穏な話ばかりして。挙げ句の果てにはヴォルフの昔の話までさせるなんて、無神経にもほどがある。
ブランカにつられるようにヴォルフもため息を吐いた。
「気に病むな。お前の今の状況を考えたら素で楽しむなんて難しいだろうし、むしろ却って余計に辛い思いをさせたな……さっきの壁とか」
ブランカは首を横に振った。「あれはヴォルフも知らなかったことだし、私もああいうのを知れて良かったです」
「良かったって……」
ヴォルフは眉をひそめてブランカの方を見る。ブランカはちらりとヴォルフへ視線向けるが、それをすぐに教会の方へ戻した。射抜くような薄鳶色の視線が、ブランカの考えていることを見透かしているようで気まずくなったのだ。
居心地悪くブランカが身を竦めていると、ややしてヴォルフが教会へ視線を戻した。
「あのさ、お前が本当に戦時中の俺らの暮らしとかを知りたいと思うなら、俺はいくらでも話してやるよ。収容所にいたときの話もな。だが、一昨日アロイスに言われたことを気にしてそうしているなら、無理して聞かなくて良い。俺がこう言うのも変な話だが、聞きたくなったら聞けば良いんだ」
ヴォルフは声量を落として先を続ける。
「爆弾のこともそうだ。何度も言うが、お前が抱えるにはあまりに重すぎる。普通の大人だってそんなの無理だ。俺だってそう。……それにお前の場合、別の問題がある。大事な形なんだろ。とにかく答えなんかそんな急いで出るものではない。アロイスの条件なんて気にしなくて良いんだ、無理する必要ない」
彼は一気に言い切った。それがどこか不自然で、ブランカはもう一度をヴォルフを見上げた。ブランカのことを庇うには、その口調が言い訳じみていて、やけに性急に感じた。
アロイスのことを気にするなと言われても、明後日には暗号を明かすことは既に約束してしまっている。ブランカの本意ではそうなったわけではないけれど、従わなかったら奪い取るとまで言っていたくらいなのだ。どうしたって気にしてしまうのは仕方がない。
じっとヴォルフの方を見て先の言葉を待っていると、彼は言いづらそうに顔をしかめて切り出した。
「このまま――逃げてしまってもいいんだ」
ブランカは息を飲む。「逃げる……?」
彼はゆっくり頷いた。
「アロイスたちの言い分は分かるが、どう考えても無謀過ぎる。いくら爆弾の情報を持っていようと、たかが反乱分子に過ぎないあいつらではブラッドローは動かせない。せいぜいダシに取られて終わるか、最悪途中でオプシルナーヤに奪われておしまいだ」
前者だったら試すだけ試してみてもいいかもしれないが、とヴォルフは付け足した。
ヴォルフは一端言葉を切ると、「だが」とブランカを見た。
「だがブランカ、これはまずお前の問題だ。お前がそんな不確かなものに付き合う必要はないし、そのために結論を急ぐ必要もない。でも今の環境では無理だ。元々俺たちは西を目指していた。だったら今からでも遅くはない」
「それは……でも……」
「経路ならいくつか考えてある。お前が働きに出ている間、何度かヘルネーは探索していたんだ」
一層声を低くして言う彼の瞳を、ブランカはじっと見つめる。打診のような形で切り出してはいるが、ヴォルフの薄鳶色の瞳は、今からでもブランカを連れて行きそうな仄暗い意志を感じさせた。
西へ、逃げる……。
たった数日前までの自分は、ヴォルフを西へ逃すためにあれこれ模索していた。ブランカも一緒に向かうつもりでいたわけではないが、父の手から逃れなければと考えていた。
オプシルナーヤの狙いは明らかになった。そしてオプシルナーヤへ無謀な反乱を企てるアロイスたちも、本来は油断できる相手ではない。ブランカは、父の手もオプシルナーヤの手も、そしてアロイスたちの手も、確実に届かないところへ逃げなければならない。
それこそ今すぐにでも、西へ――。
「そうしたら結局爆弾はどうなるの……?」
爆弾の末路を選べず、そもそもブローチの暗号を解き明かしたくないからこそ、自分に迫る手から逃げ出したくて仕方なかった。だからこそ今こうしてヴォルフが逃げる選択肢を提示してくれている。
それなのに、いざその選択肢が現れると、躊躇いの文字がはっきりと頭に浮かぶ。
「このまま西へ逃げて、それでブラッドローに託せばいいんですか?」
「違う、そういうことを言ってるんじゃない。とにかくゆっくり考えられる時間と場所が必要だと言いたいんだ。そもそも爆弾が東ヘルデンズにあるとも限らないし」
「でもそうでなかったら? 今このまま西へ行ってしまったら、どれだけ悩む時間があっても出来ることは限られてくる」
つまりは、ブラッドローかその他の西側諸国に託すことになるだろう。爆弾の在処がどこであろうと、その状況は確実にやって来る。もしくは、今までみたいに身を隠してブローチを守り、どこにも爆弾の情報を渡さないという手もなくはない。
しかし、ブランカの状況は東ヘルデンズへ来る前から大きく変わった。少なくともブラッドローはブランカの存在を知った。西ヘルデンズでもフラウジュペイでも、一部では既にブランカの情報が知れ渡っているだろう。前みたいに完全に正体を隠して生活するなんておそらく不可能だし、ゆっくり考える時間を与えられても、最終的に圧を掛けられてブローチを寄越せと迫られる。あるいはまたオプシルナーヤが出てくるのかも知れない――フラウジュペイからブランカを連れ去った時と同じように。
そう。多少時間的猶予が変わったところで、結局ブランカの置かれる状況は変わらない。どこへ行こうと同じだ。
「確かにヴォルフの言うとおり、アロイスさんたちの計画は、私も厳しいと思います。きっと思い通りにならない。オプシルナーヤ側に見つかってしまったら、アロイスさんたちだけじゃない。ヘルネーのあの下町も――もしかすると街ごと粛正される危険がある。あるいは今度こそアジェンダ人やメルジェーク人は根絶やしにされるかもしれない。とにかくそんな危険なことに背中を押すようなことを、私はしたくないです」
静かな声で淀みなく自分の胸の内を話すブランカに、今度はヴォルフが息を飲んだ。ブランカ自身、自分が何かに取り憑かれたかのように感じた。
ブランカは先を続ける。
「けれど、ブラッドローとかフラウジュペイとか、西側の国に託すのも違うと思う。こんなこと、ヴォルフに言うべきではないかも知れないけれど」
「別に構わない。今更お前の意見や気持ちを無視して軍の任務を果たそうなんて考えてないさ。だが、いつかは手放さざるを得ないときが来る。お前にしてみれば複雑だろうが……そのブローチをいつまでも守り続けていられるわけではない」
ヴォルフは言いづらそうにブランカから視線を外した。申し訳なさそうにため息を吐くのを聞きながら、ブランカはきゅっと唇を噛んだ。
「そうなったとき、西側の中でもブラッドローに託すのが一番妥当なんだとは思うんです。けれど……」
塔の手すりに掛けていた両手を握りしめ、ブランカは言葉を探した。
今も地上からは聖歌隊の歌声が響いている。教会の中で彼らがどういう顔をして平和を願う歌を歌っているのか分からない。だけどその切実さだけは、教会の外まで風に乗って伝わってくる。教会の前で聴き入っていた人は、いつの間にか大きく肩を揺らして泣いていた。
「例えば、ブラッドローはホフマンさんの爆弾を本当に牽制力としてしか使わないかも知れない。それにそんな爆弾なんてなくても、戦争はまたいつか起きるんだと思う。けれど本当に戦争が起きたときにその爆弾があったら、大国が保持したまま使わないでいられるとも限らない。こんな町、今度こそ一瞬にしてなくなってしまう」
あるいは、戦争で使われることがなくとも、より脅威の爆弾を作るための研究材料にはなるだろう。ホフマンの爆弾は、いつだって戦争の脅威と成り代われるのだ。
そんな爆弾が当たり前の世の中になったら、どうなるのだろう。ヘルネーの町は更にひどくなる。戦火を免れたこの古城の町も、今度は無事では終わらない。それどころか戦火は再び広がって、ダムブルクの田舎町までも平穏では済まない。
いずれも『もしも』の話に過ぎないが、想定されることはどれも恐ろしい。そのような脅威が野放しになっていることがブランカには何より恐ろしく、そして無責任のように感じた。
「祖父もホフマンさんも、ヘルデンズが負けると分かっていて、一体どうしてそんなものを残そうと思ったのかしら……」
ヘルデンズの惨状を知っていながら、そんな爆弾がヘルデンズの未来を明るくすると、本気で祖父とホフマンは信じていたのだろうか。
「さあな」少しの沈黙のあと、ヴォルフは力無く相槌した。
今更言ったって仕方のない疑問だ。
ブランカは手紙の文章をもう一度頭に並べた。
お前がこの国を明るくするのだ。
どうかお前には健やかに長生きして欲しい。
ヘルデンズの運命は、お前の手に。
そう書き綴って「お前だけは味方でいてほしい」と弱々しく言った祖父が、脅威の爆弾で戦後のヘルデンズを明るく出来ると本当に思っていたのだろうか。やっぱり祖父が分からない。
でもこのままでは何も進まない。
「確かめなければ始まらない……」
ブランカはぽつりと言った。
ヴォルフは息を飲む。「ブランカ?」
ブランカは顔を上げて教会を見た。
「ブローチの情報を明かすのは、やっぱり怖い。本当に爆弾だったら怖いし、祖父の真意を知るのも怖い。でも――」
さっき見た祈りの壁の文字が脳裏によぎった。ヴォルフから聞いた昔の話も。
聖歌隊の歌声が、古城の町に充満していく。
「爆弾はただ戦争の原因にしかならない。みんなはただ平和に暮らしたいだけなのに。祖父が本当に爆弾を残したのなら、私はそれを放置できない」
長引く戦争で傷つくのは、名もない市民たち。今も暗い影を落としている。ヘルデンズだろうがフラウジュペイだろうが、どこであろうと変わらない。
繰り返してはいけないのだ。
「お前は……爆弾を無くしたいのか?」
呆けたような声で、ヴォルフが言った。
ブランカは反射的にヴォルフを見上げる。「無くす?」
爆弾を、無くす……。
教会からの歌声が、ブランカの中にこだました。
祈りの壁が、今朝通ってきた廃墟の町が、これまでブランカを責め続けてきた数多の景色や人の顔が、走馬灯のように瞼の裏によみがえる。それら一つ一つが、今のヴォルフの言葉と結び付き、ブランカの中で複雑に絡み合った糸を、するすると解いていく。
この立場だからこそ、思うこと……。
「でも無くせるものなのかしら?」
「分からない」ヴォルフは首を横に振った。「俺はその手のことは詳しくないからな。ただこれまでホフマンの爆弾について分かっているのは、『爆弾に関する情報』をお前が握っているということくらいで、実際にそれがどんなものかまでは分かっていない」
つまり、ただの論文や文献という可能性もある。研究施設そのものだとしても、簡単ではないがやりようはある。爆弾そのものだとしたら、困難な道だ。
きっとこんなの夢物語。
でも、人々が安心して平和に暮らすために必要なことなら、それこそがブランカがこの立場でやらなければいけないことだ。
「もう歴史を繰り返させない。ブローチを解き明かさないと」
ブランカは胸元のブローチをぎゅっと握りしめた。
隣からふっと呆れたような声が降ってきた。
「まさかそんな言葉を聞けるとはな」
ヴォルフは塔の手すりに肘をついて、何とも言えない笑みを浮かべた。
ブランカはそういえばと思い直す。
「ごめんなさい。私勝手に……ヴォルフも任務があるのに」
「いいよ、気にするな。俺はむしろ、お前のそういう気持ちを聞けて良かった」
ヴォルフはブランカの方を向いて、ニッと笑みを広げた。
「俺もとことん付き合う。お前の気の済むまで」
そう言って、手すりに置いたブランカの手に手を重ねた。芯のある薄鳶色の瞳は、さっき見た仄暗さをもう宿してはいなかった。
ヴォルフは一度表情を固くして言う。
「この先は楽じゃない。思い通りにことが運ぶとも限らない。あまりにも手に負えなさそうなら、俺はお前に構わずブラッドローへ情報を流す」
それがヴォルフの仕事だ。最終的にそんな局面に陥ってしまったら、やはりそうするのが妥当だとブランカも思う。
「だが、ブランカ。お前が望むなら、そして可能性が少しでもあるなら、俺は全力で協力するよ」
ヴォルフは澱みなく言った。
改めてこう言われると、なんだか場違いな大それたことをしているような気がする。ましてや私はクラウディア・ダールベルクなのに。
ブランカの内心の不安を読み取ったかのように、ヴォルフが意地悪な笑みを浮かべた。
「お前は悪用するつもりなのか?」
「しないわ、絶対!」
「あぁ、しないな。お前は絶対しない」
反射的に返すブランカにヴォルフは喉の奥でクッと笑い、ブランカの手をぎゅっと握りしめる。
ブランカはヴォルフを見て、頷いた。
胸元からブローチを取り出す。輝きの失ったゴールドの表面を模る花の装飾。それと同時に思い起こされるのは、このブローチと一緒に渡された薄萌木色の手紙の一文。
『ヘルデンズの運命は、お前の手に』
お祖父様。私はあなたの秘密を暴きます。
その結果何が出てこようと、もう迷わない。だけど――。
ブランカはぎゅっとブローチを握りしめた。
「あと少し、あと一日だけでいいから時間を下さい。意気地無しで情けないですが……」
このゴールドのブローチに、紛れもなく祖父の愛情が込められているという感傷に浸らせて欲しい。そうしたら、真実を確かめる覚悟も、ブローチを手放す覚悟もきっと出来るから。
ヴォルフはブランカの頭をくしゃくしゃかき混ぜた。
「その時間は、お前に必要な時間だ。ゆっくり頭を整理させるといい。どんな結論が出たとしても、俺はお前の味方だ」
言葉の強さを証明するような彼の真剣な瞳。嘘のない、芯のある言葉。
じわじわと広がる心強さを感じつつ、ブランカは噛み締めた。ヴォルフをまっすぐ見据えて頷いた。
「さ、どうする? せっかく来たんだし、何か食ってくか?」
「そうですね。でもその前に、あの教会に行ってみてもいいですか?」
ヴォルフはニッと笑って、「行きたいところあるなら他にも言えよ」と、ブランカの手を引いた。
教会からの歌声は、ブランカたちがこの街を出るまでずっと響き渡っていた。




