5-5.戦争の爪痕①
翌朝。
ヴォルフは『女神の泉』の前で固まっていた。
彼の薄鳶色の瞳が自分の姿をまじまじと見ているのが分かって、ブランカは恥ずかしくて堪らない。だけど逃げたくても後ろから肩を掴まれていて動けない。
あまりに居たたまれなくなって、ブランカは両手で顔を隠す。しかしそれもまた、出来なくなってしまった。
後ろのゼルマが、ブランカの両手を掴んで手を広げさせたからだ。
「ほらぁ! せっかく綺麗にしたのを台無しにする気ぃ?」
「す……みません……」
「ねぇヴォルフ、どーお? あたしの腕はぁ」
ゼルマは自慢げに鼻を鳴らした。遮るものが一切なくなったブランカは、一層逃げたくなった。
白地にピンクのバラを散らしたレースのワンピースに、真っ赤なリボン。足元も同じ色の靴で揃えられている。ブランカが絶対に選ばない雰囲気のそれらだというのに、膝が出るほど丈が短く、心許ない。胸元がそれほど空いていなくて七分袖なのがせめてもの救いだ。
服装がそういう状況なら、首から上も同じだ。ブランカの真っ黒なおかっぱ頭はパーマをかけたように綺麗にウェーブし、前髪も大きく巻いている。そうして露わになった顔は、右頬の赤い火傷を誤魔化す程度の化粧しか施されていないが、唇にはきっちりと真っ赤な紅が引かれていた。
鏡で自分の姿を見たときは、確かに別人のようだと思った。
「あの……やっぱり、変、ですか……?」ブランカはそっとヴォルフを見上げる。
彼は、ふわふわカールしているブランカの髪に手を伸ばし、ニッと頬を緩めた。
「いや、良いと思う。よく似合ってる」
柔らかく細めるヴォルフの瞳。そこにはいつもの彼らしい優しさと、別の種類の何かが感じられた。
妙に身体中が熱くなった。
「あぁもう、朝っぱらからむかつくわねぇ。出掛けるならさっさと行ったらどぉ?」
ゼルマが鬱陶しそうに手を払いのけた。
ヴォルフは悪いなとゼルマには挑発的に笑い、彼女からスクーターの鍵を受け取った。
「じゃあゼルマ、今日一日使わせてもらうな」
「はいはい。ごゆっくりぃ」
「あの、ゼルマさん。朝からありがとうございました」
「もう分かったから、さっさと行きなさいってばぁ!」
そうして二人は『女神の泉』を出発した。
スクーターは朝の市街地を走る。
ブランカはこの状況を不思議に思えてならなかった。
ヴォルフとこんな格好で……。
しかも、ヴォルフの背中にしがみつく形で――。
「今日一応行こうと思っている場所はあるんだが、どこか行きたいところあったら言ってくれ――つっても、俺もヘルネーはよく知らないから迷うかもしれないが」
「あの……っ! こんな遊びに出かけるようなことしていて、いいんですか……?」
言いながら胸の奥がざわつく。
アロイスから与えられた猶予は三日だ。なのに昨日は結局逃げただけだ。
それなのに――。
「嫌か?」
「え……?」
「俺と遊びに出かけるの、嫌か?」ヴォルフは二度も聞いてきた。
どうしてそういう話になるのだろう。そういう意図で聞いたのではないと、ヴォルフなら絶対分かっているはずなのに。
背中を丸めて無機質に言う口調に、ブランカは困った。「そうじゃなくて……でも……」
「でも嫌?」
三度目。
今度は声の端々に苦笑が混ざっていた。
大きく息を飲むブランカへ、彼はニッと流し目を寄越す。「悪い、冗談が過ぎたな」
言いながら、ヴォルフはブランカの腕をぐいっと引いた。よりヴォルフに密着した状態になり、ブランカは顔を赤くする。
ヴォルフは構わず言った。「あんまり家に籠もって悩んでたって、後ろ向きになるばかりだろ?」
「そう……ですけど」
「だったらそういうときはいっそ開き直って気分転換した方がいい。それで見える物もあるしな」
「でも、そうは言ったって……」
「ほら、楽しもうぜ。せっかくいつもと違う格好してきたくらいなんだしさ」
「それはゼルマさんが――」
「――良いと思う」
ブランカの言葉を遮って、ヴォルフは真っ直ぐなトーンで言った。
「欲を言えば、白金の髪の時でその格好を見てみたい」
つまりは、ブランカの本来の姿でということだ。
ブランカは何も言えなくなる。
本当にこの人は……。
こういうことを、当たり前に真っ直ぐ言ってくれる。出会ったときからそうだった。元のくすんだ白金髪も右頬の赤い火傷も、ヴォルフは肯定してくれる。本当に敵わない。
「こういうの、ダムブルク以来だな」
ヴォルフはしみじみと言った。
そっと彼の横顔を伺うが、ヴォルフがどういう顔を浮かべているかまでは分からない。ブランカは、ダムブルクで初めて彼と出会ったときを思い出した。
不良に絡まれているところを助けられ、お祭りで一緒に食事した。泣きじゃくるブランカに、彼は黙って寄り添ってくれた。
ブランカはヴォルフに捕まる腕を、無意識に強くする。
あの日、初めて出会った日から再会するまで、彼はどんな日々を過ごしてきたのだろう。ブランカの方は、あの日から色んなことがありすぎた。
ダムブルクでのヴォルフの言葉に、ブランカは初めて救われた。
けれどもブランカはダムブルクにいられなくなった。
目の前で母を亡くした。
そうしてヴォルフと再会し正体を暴かれたと思ったら、父に連れていかれ、列車から命からがら逃げてきて、気が付いたらヘルデンズで数週間を過ごしている。
こんなふうにまた、こうしていられるなんて。
ダムブルクのときのように穏やかとはとても言いづらい。けれど、あのとき思いを馳せたヘルデンズに――もう二度と足を踏み入れることも出来ないと思っていた故郷の地に、ヴォルフとこうして一緒にいる。
とても奇妙で、ブランカにしてみれば、とても罪深いことだ。
それでもこの時間がずっと続けばいいのに。
どんな状況にあっても、ヴォルフといる時間は心が安らげる。とても――幸せだ。
叶うなら、自分の立場も過去も、祖父が残したらしい爆弾のことも、全て忘れてしまえればと思ってしまう。
そんなこと、絶対に叶わないのに。
そう思うブランカを責めるように、残酷な現実が視界に入ってくる。
表通りの綺麗なビルの後ろに見える真っ暗な世界。そこに建ち並ぶ建物は、多くが天井から抉られていて、残っている壁にはあちこち穴が空いている。中には『ヘルデンズは地獄へ堕ちろ』と書かれた壁もある。
そんな建物が、真っ黒焦げのまま、足場のないがれきの山の上に沢山残されていた。
息が詰まりそうな光景だった。
「……つらかったら、目を瞑ってるといい」
ブランカの緊張が伝わったのか、ヴォルフは落ち着いた口調で言ってくれた。こんな終戦直後に巻き戻ったかのような光景を、ブランカは見ていたくなかった。
町工場とアロイスの家の間にだってそういうのはいくつかあった。それに倒壊したビルが東ヘルデンズで多く残されていることは、フラウジュペイでも度々噂で聞いていた。
ブランカは祖父への言いようのない怒りと、深い罪悪感が込み上げてくる。
「ごめんなさい……少しだけ……」
ブランカはヴォルフの背中に顔を押し付けて目を瞑った。甘えだと分かっているけれど、彼の体温で、どうかこの罪悪感を薄めたかった。
しかし、込み上げてきた罪悪感は、簡単には去っていかなかった。
――いずれお前に最高の楽園をプレゼントするよ。
――わたしのおじいちゃんはヘルデンズ帝国の一番えらい人で――。
――お前のために俺は全てを奪われた。
――あんたのために父さんと兄さんは死んだ。
――今も昔もマクシミリアン・ダールベルクとその孫のせい。
――あんなガキのために……っ。
幾度となく浴びせられた無数の怒りの声が、耳の中で再生される。それに混じる作文の内容と祖父の言葉が、より一層ブランカを責め立てた。
身勝手なことを考えてしまったからだ。まるで目の前の廃墟が、ブランカに逃げることを許さないとでも言っているかのようだ。
――自分がその立場で罪悪感と責任を感じてきたなら、とるべき行動があるはずや。
ふとアロイスの言葉が頭の中で再生される。
ブランカはぎゅっと瞑っていた目を開いた。恐る恐る廃墟の街へ視線を戻す。
どれだけ走っても、凄惨な光景は変わらない。むしろ、郊外に向かうにつれて、その規模は広がっていく。込み上げる罪悪感は、むしろ膨らむばかりだ。
だけどこれが今のヘルデンズ……。
ブランカの生まれ育った国。
ヴォルフが思い焦がれた故郷の今の姿。
私は――目に焼き付けなければならない……。
何故だか分からないが、ブランカは急にそう思った。
「ブランカ、無理するな」
ヴォルフはちらりとブランカの方を伺い、そう言った。
ブランカは、首を横に振った。
「ありがとう。でも大丈夫」
「大丈夫ってお前……」
「この景色をちゃんと覚えておきたいの」
ヴォルフは息を飲んだ。
ブランカにしても、どうして自分が急にそう思ったのか分からない。けれどもヘルデンズの今の本当の姿から、目を背けてはいけないと思ってしまったのだ。
終戦からもう五年が経った。世界は既に復興に向けて動き出している。
それなのにこの街は、五年前で時が止まったまま、ずっとフィンベリー大陸戦争の傷と罪を突き付けられてきた。
だからかしら。
目を瞑りたくなる光景なのに、目が離せないのは。
走れど走れど広がる廃墟の景色。
その壊れた建物の中で、今も生活している人がちらほら見えた。
一応今では仮設住宅への移住が推奨されている。それでもそこに住まう人たちは――もしかすると別の事情があるのかもしれないが――何故かブランカの目には自分達の家を守っているように見えた。
屋根もなく壁もない吹き晒しのそこで、彼らは一体何を思っているのだろう。
ブランカはぎゅっとヴォルフにしがみつき、胸元の中の固い感触を強く確かめた。




