5-4.ヴォルフの苦悩
――その晩。
すっかり上がった雨は、ヘルネーの街を静寂で包み込んでいたが、ここだけは相も変わらず騒がしい。
『女神の泉』
今日も今日とてそれなりに人が出入りして忙しい。
しかしゼルマはあくびを噛み締めながら接客していた。
「おーい、ゼルマぁ。ちゃんと接客しろよぉ」
「ティモ、従業員のしつけがなってないぞー」
男たちがげらげら野次を飛ばす。
ティモは苦笑いを浮かべて小声で娘をたしなめるが、当のゼルマは、
「うっさいわねぇ。二日酔いなんだから仕方ないじゃなぁい」
この有様だ。
心底つまらなそうに酒を作る娘の様子に、こいつはもう終わったなと、ティモ含め誰もがある種の諦めを感じた時だった。
新たな客の入店に、店の中がざわめいた。
「ありゃ。珍しい客も来たもんだ」
カウンターから首を伸ばして様子を伺ったティモは目を丸くする。そして隣でやる気のない娘と見比べて、「こいつはしめた」と、人の悪い笑みを浮かべた。
「――大丈夫、大丈夫。大抵の客は洒落たカクテルなんか飲まないからさ。ウイスキー、水で薄めて出してくれれば、それで十分だ」
「え……でもお料理はどうすれば……?」
「ああ、そんなのはその辺にあるピクルスとクラッカー出しておけば大丈夫。心配ないさ」
「多少失敗してもブランカちゃんなら誰も文句言わないから安心しなよ――ゼルマと違って」
「いちいちうっさいわねぇ。あたしだってたまには休んだっていいじゃなぁい」
「あぁそういえば今日ブランカちゃん、寝込んでたんだっけ? それなのにこんなところに連れてこられて可哀想に」
カウンターの内側に入り酒の作り方を教わるブランカを、一同は嬉しそうに見守っていた。一方一部の男たちは、カウンターの席に座るヴォルフへ、冷ややかな視線を送った。
結局俺は悪者かよ。
ヴォルフはため息を吐いた。
昼間の話の後、ヴォルフはブランカが落ち着くまで傍にいた。
しかし夕方になると、ブランカは急に家事を始めた。止めても聞かず、黙々と掃除を続ける。
明らかに無理をしていた。
やがて家中を片付け終えると、ソファに座り新聞を広げた。だが視線は紙面を追っておらず、そのまま潰れそうな表情へと戻っていった。
ヴォルフは見ていられなくなり、半ば強引にブランカを『女神の泉』へ連れ出した。
ここなら放っておかれない。案の定、ブランカはすぐにティモの手伝いをさせられている。
だが一方で、事情を知らない連中の視線が、鋭くヴォルフに突き刺さる。
ことヤーツェクの視線はその中でも一番鬱陶しい。
「なぁ、あんたまだブランカに冷たく当たってんじゃないだろうな?」
うるせえな、違えよ。ヴォルフは心の中で悪態吐いた。
ヤーツェクは夕べから帰ってきていないので、今のヴォルフとブランカの様子を全く知らない。
――いない方が、都合は良かったが。
こうして突っかかれると、正直不愉快だ。
とは言え、昨日の今日。ヴォルフがブランカに冷たく当たっていたのは事実だし、その印象が簡単に消えるはずもない。しばらくは、この扱いも仕方ない。
しかし、果たしてこれで良かったのだろうか。
自分に飛ばされる野次を無視して、ヴォルフはブランカを眺めた。彼女は、他のテーブルのオーダーを取りに行っている。人に囲まれている分、昼間よりはましだ。
だが、心ここにあらずだ。
本当は、彼女が抱えている不安を全部ヴォルフが聞いてあげればいいのだろうが――。
「ヴォルフったら本当にあの子のことばっかり。そんなに気になるのぉ?」
いつの間にかヴォルフの隣に座ったゼルマが、だるそうに身を寄せてきた。酒の匂いをさせながら、化粧と洋服だけはしっかり整えている。
「まぁ……そりゃあ心配にもなるさ」ヴォルフは一瞬だけブランカに目をやり、さりげなく肩をずらした。
「なら何でブランカがまたあんな投げやりな感じになってるのか教えてもらいたいもんだよな」ゼルマと反対側に座るヤーツェクが、飽きもせずヴォルフに突っかかった。
ヴォルフは内心唸った。
爆弾の話をしたことを、ヴォルフは後悔していた。
あんなもの、大人でも抱えきれない。十六の少女に背負わせる話ではない。
しかし、今更だ。
自分の立場を考えれば、ブランカとブローチをブラッドローに持ち帰るのが先決だ。少なくとも、今よりは安全になる。
――だが、それで彼女は解放されるのか。
答えは出ない。
ヴォルフは茶を口に運びながら、店内を駆け回るブランカを目で追った。忙しなく動きながらも、ふとした瞬間に胸元へ手をやり、表情を歪ませる。
無理をしている。
何を言えばいいのか分からない。
それに――。
彼女の中にあるものを、全部聞けるかと言われれば、自信がなかった。マクシミリアン・ダールベルクの話を、落ち着いて受け止められるわけでもない。
昨日の今日だ。ヴォルフにも、整理の時間が欲しい。
「けっ。だんまりかよ。クールぶってんのか何なのか知らねーけど、俺ぁやっぱりあんたのこといけ好かねーぜ。ブランカも何だってこんなやつ庇うんだか」
うるせぇよ。
分かってんだよ、自分でも。
ヴォルフは心の中で返事した。
何が彼女を守らねば――だ。肝心なときに、結局自分は何もしてやれてない。
「えらい兄さんも難しい顔してんなぁ。若いうちはよう悩む方がええけど、道は踏み外さんでくれよ」
いつの間にかヤーツェクの隣に座ったアロイスが、言葉尻にたっぷり含みを持たせて割り込んできた。にこやかでいて全く笑っていない青灰色の瞳が、ヴォルフに釘を刺す。
「なんだヴォルフ君。結局ブランカちゃんと上手く和解できていないのか?」
今度はティモが話に混ざってきた。するとすっかりこの話題に飽きたゼルマが、もうやってらんなぁいと言って別のところへ行ってしまった。
娘にため息を漏らしながらも、ティモはカウンターのレジの下を漁りだした。
「俺が思うに、君らはもっと会話が必要だと思うんだよ」ティモは言いながらヴォルフの前に二枚の紙切れを差し出した。「この前客にもらったんだ。たまにはゆっくり遊んできたら良いんじゃないか?」
「遊んできたらって……」
そんな場合ではないんだが――。
ヴォルフはキッチンの奥で作業をしているブランカとその紙切れを見比べた。
「行ってきたらええんちゃう?」
アロイスは再び意味ありげに言った。
同じ頃、ブランカは流しに溜まったグラスを洗っていた。単調作業になると、どうしても爆弾のことを考えてしまう。
悩んでいる時間はない。
それでも、暗号を明かしていいとは思えなかった。
アロイスに渡せば、あの爆弾の運命を彼が握ることになる。アロイス自身は信用できるけれど、この件は別だ。
なら、どうするの。ブラッドローに渡す?
――嫌……。
本当は、知りたくない。
ブローチも、失いたくない。
祖父との――家族との、唯一の繋がり……。
けれど三日後には選ばなければならない。
答えは出ない。
祖父への疑問だけが、何度も何度も押し寄せてくる。
頭が、はち切れそうだ。
いつもは一度嵌ったらなかなか抜けないこの思考。しかし今回はあっけなく解除された。
ゼルマがキッチンの入り口からブランカをじっと見ていたからだ。
「あの……?」
ブランカは膨れ上がった感情を押し込めた。
ゼルマは、だるそうに壁により掛かりながら、無言でブランカを上から下まで眺める。何度か視線を往復した後、盛大にため息を吐いた。
「あんたって本当に冴えないわねぇ。一体こんなののどこが良いのかしら」
「は、はぁ……」
改めて言うことなのかしら。ブランカ自身も、こんな自分は嫌いなのに。
本当は、こんなところで働いている場合ではない。それでもこうして手を動かしているのは――逃げているからだ。
アロイスが苛立つのも分かる。
ヴォルフも、きっと――。
悪い思考は、ひとたび走り出すと止まらない。
だが、それも長くは続かなかった。
「ああもう、やだぁ。辛気くさぁい。せめてもう少し明るくしたらどう?」
「そう、言われましても……」
明るく振る舞うなんてこと、その仕方もとうの昔に忘れてしまった。
ゼルマは何度も残念そうにため息を吐いた。
「本当にイライラするわねぇ。こぉんなのが庇護欲ってのを掻き立てるのかしらぁ。全く理解できないけど、それにしたってあんたは暗すぎよぉ。今はそれで良くても、そんなんじゃあすぐに捨てられちゃうの。分かってるのぉ?」
ゼルマはぐいっとブランカを睨み付け、キッチンの奥へ追いやった。
ブランカはどう反応したらいいか分からなかった。
しかし改めて見ると、気迫こそ凄いものの、間近で見るとやはりゼルマは綺麗だ。外見は元より、一人の女性としての強さがあり、そういう自分に自信を持っている。とても魅力的だ。
こんな強さが、私にもあれば……。
じっとゼルマを見つめるブランカに対し、今度はゼルマが不思議そうに眉を顰めた。
「何なのぉ、じっと見てきてぇ……」
「あぁ、いえ……ごめんなさい。その、どうしたらゼルマさんみたいになれるかなと思って……」
言ってからブランカはハッと口を閉じる。
恐る恐る視線を上げると、ゼルマは目を丸くしていた。
「え……? 何よあんた。あたしのようになりたいのぉ?」
「いえ……そういうことではなくて……」
「じゃあ何?」ゼルマはムッと唇を尖らせた。
ブランカは慌てて言葉を繕った。「その……」ああ、どう言ったらいいんだろう?
「おおい、ゼルマぁ。いきなり消えたかと思ったら、こんなところでブランカちゃんいじめてんなよ」ティモが二人の間に割って入る。
「うるさいわねぇ」ゼルマは嫌そうに顔を歪めた。
「あ、ごめんなさい。グラス、持っていきますね」
ブランカが急いでホールに戻ろうとすると、ティモは彼女の前で人差し指を立てて、それを横に振った。
ティモはなんだか嬉しそうな様子だ。
「ブランカちゃん、明日はゆっくり羽を伸ばしてきなさい」
「え……?」
何の話?
目を丸くするブランカを余所に、ティモはブランカの肩を掴み、ゼルマの方へ向けた。
「――というわけだ、ゼルマ。明日、ブランカちゃんにお洒落してやって」
「はぁあ? 何であたしが――」
盛大に文句を言いかけたゼルマだが、再びブランカをじっと眺めて、そしてティモの方へ視線をやった。
ティモと無言のやりとりをかわした彼女は、やれやれと嫌そうにため息を吐いた。
「わーかったわよぉ。あたしもこんなのに負けたなんて思いたくないしねぇ」
ゼルマは片手でブランカの顎を掴み、上から横から彼女の首を動かす。戸惑うブランカに構わず、ティモは「頼んだぞ」とご機嫌に去っていく。
「あの……ゼルマさん……? よく分からないですけれど、ティモさんの言うことは別に――」気にしなくて良いと思うんです。
そう言いかけたブランカを、ゼルマは尚も遮った。
「なるほどねぇ。いじり甲斐はありそう」
「え……?」
ゼルマはニッと形の良い唇を持ち上げた。
「いいわぁ。あたしに任せなさい」




