5-3.アロイスの期限
「愛する私の天使。誕生日、おめでとう。今年でお前はいくつになっただろう? 私の記憶では十一歳だったはずだが、実際はもう少し大きくなっているかもしれないね……」
ベッドに横たわったまま、ブランカは声に出していた。
「この手紙を開いているということは、もう既に戦争が終わったということだろうか。世の中は一体どうなっているだろうか。我らがヘルデンズは、変わらず世界を導いているだろうか? もしそうであったならば、お前は今きっと幸せに暮らしていることだろう」
部屋にいるのはブランカだけだ。ヴォルフもアロイスも別室に下がっている。
今日初めて知らされたあまりの重大事に目眩を起こし、朝から具合が悪かったのもあって、しばらく一人で休ませてもらっていた。アロイスに処方してもらった風邪薬で幾分寝られて頭はだいぶすっきりしたが、肝心の問題は何一つ整理できていない。
ブランカは胸元から出したゴールドのブローチを天井にかざしながら、続きの言葉を呟いた。
「輝かしい王国を送るという約束を、私は守れない。その代わりに、世界中から迫害され、虐げられ、憎まれるという未来を、私はお前に残してしまうだろう。そのくせ、私はお前を守ってやれない。何故なら……何故ならそのときには私は既にこの世にいないのだから」
まるで他人事のように、淡々と書かれている。
視界の中のブローチがぐにゃりと歪みかけて、ブランカは眉間に力を入れて堪えた。
何でなの……。
頭の中に、いくつもの疑問が浮かび上がる。
しかしそのどれにも答えは返ってこない。
いつも難題ばかり押しつけて、手は差し伸べない。
それどころか、何度も裏切られてきた。
何があっても味方であって欲しい――などと約束しておきながら。
「……こんな私を、お前は恨むだろうか。誠に勝手な願いだが……どうか、この老いぼれを……恨まないで欲しい……」
ふざけないで。
本当にそう望んでいるのなら、嘘だと言って欲しい。
ブローチの側面を眺めながら、切に願う。
そこには、十個のアルファベットと数字と記号が、小さな字で刻まれている。
絶望的な気持ちだった。
「ブランカ、入っていいか?」
控えめなノック音と共に、ヴォルフの声が聞こえてきた。ブランカは急いで目を拭って返事をする。
ヴォルフは、上体を起こしてヘッドボードにもたれ掛かるブランカを見て、少し目を大きく見開いた。
「無理して起き上がらなくてもいいんだが、気分はどうだ?」
「寝たら良くなりました。もう平気です」
「……本当かよ」
ヴォルフは胡乱な目つきをこちらに向けながら、ブランカの額に手を伸ばした。しばしの間の後、「確かに熱は引いたな」とどこか渋った声で言い、流れるような手つきでブランカの目尻を拭った。
「流石にまだ混乱しているよな」
「それは……」
ブランカは言い淀む。
頬を包むヴォルフの手からは、彼らしい温かみが伝わってくる。けれども戸惑いも感じられた。
ヴォルフは躊躇いながら聞いてきた。
「部屋に入る直前、お前が何か呟いていたのが聞こえてきた。あれはもしかして……」
「……手紙の内容です」
「覚えているんだな」
ブランカは小さく頷いた。
十一歳の誕生日に祖父からもらった手紙。焼け焦げた痕の残るそれは父に取り上げられてしまったが、書かれていた文章は一語一句、改行の位置まで覚えている。
紙も文字も、色褪せるほど何度も読み返したのだから。
だけどあの手紙は……。
このブローチは――。
手の中のゴールド色を握りしめて、ブランカは眉根を寄せて笑った。
「呆れますよね、あんな人の言葉を未練がましく覚えていたりして」
「ブランカ……」
「それとも今に限って言えば好都合だったのかも。私が紙に書き起こせば、欲しい情報が手に入る。あくまで文章からしか得られない情報だから、もう手遅れで意味がないかもしれないけれど」
「おい、落ち着けよ。何も言ってないだろ」
「だって……」
堪らずブランカは俯いた。
この場から逃げ出したくて堪らない。
けれど手の中のブローチは、執拗に現実を突き付けてくる。
「側面に、文字が並んでいました……」
ブローチを目の高さにかざす。
ヴォルフは目を凝らしてその部分を観察する。その間、ブランカは彼の服の袖をぎゅっと掴んでいた。何かに縋っていないと、自分を保っていられなくなりそうだった。
「……本当だな。ぱっと見ただけじゃ分からなかったが」
「これが爆弾に繋がるのかどうか分からないけれど……調べる必要があるんですよね」
「それはそうだが、ブランカ……」
ヴォルフは小さくため息を吐いた。彼はブランカの手に再びブローチを握らせると、彼女の肩をそっと自分の方へと寄せた。
「今はお前が大事に持っておけ」
しかしブランカは首を横に振った。「オプシルナーヤ軍が正確な場所を突き止める前に動かないと」
「だからと言ってまだ焦る段階でもない。もう二週間だぞ。優秀な暗号解読部隊がいれば、今頃もう突き止めてる。奴らも手詰まりなんだよ」
ヴォルフは、ブランカに言い聞かせるように、大きな手を彼女の背中で上下に動かした。
彼は、躊躇いながら聞いてきた。
「怖いんだろ? 真実を確かめるのが」
ブランカは咄嗟に首を横に振るが、身体の震えは誤魔化せない。
怖い。
本当に怖い。
街を丸ごと破壊するほどの威力を持つ爆弾。一国を揺るがせる圧倒的な力。
そんなものを持たされて――自分はどうなってしまうの。
もしそれが本当にあるのだとしたら。
もし、本当にそれを確かめてしまったら。
一体、どうすればいい?
オプシルナーヤには渡せない。それだけは、はっきり分かる。
でも――それ以外は?
ブラッドローなら、まだましなのかもしれない。フィンベリー大陸戦争を終わらせた英雄だ。戦後五年経った今でもフィンベリー大陸西側への手厚い支援を続けてくれている。
けれど、本当にそれでいいの?
その先は? もし間違っていたら?
頭の中に浮かぶのは、最悪な光景ばかりだ。どこに渡しても、誰に委ねても、結局どこかで誰かがめちゃくちゃにする。
そんな未来しか、思い浮かばない。
考えれば考えるほど、息が詰まる。こんなもの、決められるはずがない。
いっそ――誰かに決めてほしい。
いや、それよりも。
最初から何もなかったことにしたい。全部嘘だと言って、逃げてしまいたい。
でも……その先に何が起きるのか。
どの選択も、逃げ道にならない。
あらゆる可能性が、絡みつくようにブランカを縛りつける。
立ち止まっている場合ではないのに……。
「そうそう、こちらの要件を伝えやんとな」
ノックもそこそこに、アロイスが部屋へ入ってきた。
重たい空気を気にする様子もなく、口元にはいつもの笑みを浮かべている。
ヴォルフが露骨に嫌そうなため息を吐いた。
「兄さん、ブラッドローはホフマンの爆弾を手に入れたとして、東フィンベリーの支配問題をどうするつもりなん? 牽制するだけか? それとも実際に使うつもりか?」
ヴォルフはブランカとアロイスを見比べてから、低く答えた。
「……朝話した通りだ。抑止力として使う」
「ほな、その抑止でオプシルナーヤが東ヘルデンズから引くのは何年先や? 五年以内に現実的に動くんか? ブラッドローはそこまで東に力を割けるん?」
「それは……」
ヴォルフは言葉に詰まった。
いくらブラッドローが強大であろうと、オプシルナーヤ占領地域から軍を撤退させるとなると話が変わってくる。
「僕らはな、ブランカちゃん」
アロイスはブランカに向き直って言う。
「ホフマンの爆弾を、交渉材料に使うつもりなんや」
「交渉……?」ブランカは反射的に聞き返す。
「そう。オプシルナーヤ軍を東ヘルデンズから確実に撤退させるだけの軍事力を、西側に要請する」
言いながら、アロイスはちらりとヴォルフへ視線を流した。
「知っての通り、僕らは反乱の準備をしとる。やけど圧倒的に戦力が足りやん。もっと強大な戦力が欲しい。しかし西側に戦力を頼るにも、交渉に足る十分な条件が何一つ無かった」
向こうにしちゃ敵領にわざわざ軍を送り込むわけやし、とアロイスは肩を竦めた。
「やけどホフマンの爆弾は別や。街を一気に吹き飛ばす破壊兵器――噂がほんまか分からんけど、そんなものを東ヘルデンズの人間が拾ったって知ったら、流石に西側の反応も変わる。僕らはそれを利用したい」
言いながら、アロイスの言葉には熱が籠もっていった。固い決意と同時に、切実な響きを帯びている。
「だが……」ヴォルフが言葉を挟んだ。「仮に爆弾があったとしても、今のお前らでは、結局西側の軍事力を動かすに至らないんじゃないのか?」
「そうかもな。逆に西側に上手く丸め込まれる可能性もある。やけど……」
アロイスは瞳を細め、ぐっと奥歯を噛み締めた。
「それでも僕らには他に方法がない。分かってほしい、ホフマンの爆弾は僕らにとっては大きなチャンスなんや」
アロイスの主張は、もはや懇願だった。
それが、オプシルナーヤ軍に日々苦しめられている東ヘルデンズ人やメルジェーク人たちの思いなのだろう。故郷の人たちを助けられるなら、ブランカだって協力したい。
でも――……。
「まぁそんな話も、ほんまにその爆弾があればの話やけどな」
アロイスは鋭い視線をブランカに送った。苛立ちの混ざった青灰色の瞳は、ブランカと彼女の手の中にあるブローチを交互に見る。
「そんなに余裕はない。暗号が当たりかハズレかだけでも分かっときたい状況やってこと、ブランカちゃん分かってる?」
「分かってます。けど……」
「けど何? 気持ちの整理が必要? まぁそらブランカちゃんにしてみれば複雑なことやわな。やけどそれはいつまで? オプシルナーヤがいつ正解に辿り着くか分からんこの少ない期間に、ブランカちゃんのその気持ちの整理とやらは片付くもんなん?」
アロイスは次から次へと質問を繰り出した。ブランカのはっきりしない様子に、更に苛立ちを増したようだ。
ブランカは何一つ答えられない。
隣から伸びてきた手が、ブランカの頭をぐいっと自分の方へ引き寄せた。
「やめろよアロイス。ブランカがこの件知ったのは今朝なんだぞ? 未だに混乱してるんだ。今急かしたって余計に混乱するだけだろ」
ヴォルフはブランカを落ち着かせるように、彼女の背中で片手を叩いた。
「……それに、暗号を調べるとなったら、こいつをバラすことになるんだ。焦る気持ちは分かるが、少しだけ待ってやらないか」
ヴォルフは、もう片方の手をブランカの両手の上に載せて、躊躇い気味に言った。
ブランカはハッとヴォルフを見上げる。ブローチを握る手に、力が入った。
ブローチを……壊すことになる……。
当然だ。何が隠されているか分からない手がかり。解体して中まで調べるのは当然のこと。
場合によっては、元の状態に戻せないほどに壊すことだって――。
その光景を思い描こうとして、途端に頭の中が真っ暗になった。息が詰まって上手く呼吸が出来ない。両方の手足がもぎ取られるかのような恐怖が、全身を駆け抜けた。
こんなことを嘆いている場合では無いのに――。
「はぁ? ちょっと待って。まさかそんなことで僕ら待った掛けられてんの? そんな状況ちゃうやん。確かに大事な形見かも知らんけど、そもそもそれは一体誰が寄越したもんやと――」
「アロイス、やめてやれ」
ヴォルフの制止に、アロイスはすぐに応じた。
彼の腕の中のブランカが、先程にも増して悲痛な表情で震えているのを見て、「分かった」とアロイスはふてぶてしくため息を吐いた。
「――三日や」
吐き捨てるようにアロイスは言った。
「三日で自分の問題を片付けてくれ。それ以降は泣こうが喚こうが兄さんが邪魔しようが、無理矢理奪って調べるからな」
「ええな?」と念を押して、彼は頭を掻きむしりながら扉の方へ向かっていった。
ヴォルフはふぅと息を吐き、ブランカを安心させるように彼女の背中で手を上下させる。
ブランカの震えは止まらない。あらゆる恐怖と不安が頭の中をぐるぐる駆け巡っている。
アロイスは扉の前で立ち止まり、「ブランカちゃん」と言葉を付け足した。
「ブランカちゃんがどういう決断しようと、僕らはそれを非難したりはしやんけど、夕べ僕が言うたことをもう一度考えてみて。この五年間、自分がその立場でひどい罪悪感と責任感を感じて生きてきたなら、君にはとるべき行動があるはずや。それが何なんか僕は知らんけど、君にちゃんとそれを見据えて欲しい」
それだけ言い残して、アロイスは今度こそ部屋を出て行った。
部屋に静寂が戻る。しかし緊迫した冷たい空気は残ったままだった。
ヴォルフがため息を吐いた。
「あいつ……余計に怖がらせただけじゃねえか。ブランカ、大丈夫か?」
彼はブランカの身体を揺すりながら様子を伺う。
ブランカは、今にも壊れそうな状態だった。
ヴォルフはもう一度息を吐くと、ぎゅっとブランカの身体を抱き締めた。
「ブランカ。一つ言っておくが、爆弾の件で何があったとしても、お前がそれに対して責任を感じる必要なんか無いんだからな」
自分の胸へブランカの頭を押し付けて、彼はゆっくり言い聞かせた。ドク、ドクと落ち着いたリズムで響くヴォルフの心臓の音に、少しだけブランカの身体から力が抜けた。
「そんなもの、お前が背負えるものなんかじゃない。第一、そんなもの一つで国の運命が決まるわけでもないんだ。確かに今の状況は怖いだろうし、勿論慎重になる必要はあるが、お前が重く気負う必要はないんだ」
「だからそんなに怯えなくていい」と、ヴォルフはブランカを抱く腕に一層力を込めた。まるでブランカを守ろうとしてくれているような、そんな力強さをブランカは彼の腕から感じた。
実際に、ヴォルフの言う通りかもしれない。こんなこと、ブランカ如きが気に病むことではないのだろう。だからさっさとブローチの暗号を見せて、この問題から脱却してしまった方がいい。
だけど――。
――君には取るべき行動があるはずや。
二度もアロイスに言われてしまった言葉。昨日のそれも、ホフマンの爆弾――このブローチのことだったのだろう。
しかし一体ブランカにどうしろと?




