5-2.娘と手紙
ヘルネーに降り注ぐ激しい雨は、東へ二百キロ離れたノイマールにも続いていた。
復旧作業は地方の街より進んでいるはずなのに、首都はまだ廃墟の匂いを残している。崩れた建物、黒ずんだ壁、沈んだ顔で足早に通り過ぎる人々。かつての強国の輝きは、雨に煙る街のどこにも見えなかった。
ノイマール中央の高台では、旧ヘルデンズ国会議事堂――いまはオプシルナーヤ軍西部司令部となった建物が、街を見下ろしている。東ヘルデンズと旧メルジェーク地域の統治を担うその場所は、都市全体を鋭く監視しているかのようだった。
ギュンター・アメルハウザー大佐は、議事堂の南棟から本棟へと部下を数名引き連れて移動していた。
彼の後ろを、一人の男が追い掛ける。
「アメルハウザー大佐! お待ち下さい! どうかお聞き下さい!」
オプシルナーヤ語を下手に発音しながらも、切実に訴える彼は、東ヘルデンズの官僚。オプシルナーヤ軍に飼われている職員だ。
「ただでさえ民間企業の買収の影響で、国内に失業者が増える中、これ以上の増税は何の効果も生まない。ただ国民を苦しめるだけだ。あまりに締め付け過ぎるのは、民衆の怒りを買い、更には国外に流出させることにもなるのですよ?」
「国境警備は強化しているし、今のヘルデンズ人に反乱を起こせるほど気力はない。心配には及ばん。それにヘルデンズ人への救済措置だって提案したはずだ。それをそちらが渋っているから失業者問題が解決しないのだろう」
ギュンターは歩きながら男に答えた。その口ぶりには鬱陶しさと苛立ちが滲み出ている。
しかし男は怯まず食い下がった。
「救済措置ですって? 軍へ入隊すると安定した衣食住を約束するというキャンペーンのことですか? あんなのは西側侵攻に使える兵を増やしたいだけでしょう。いや、他の政策もその計画のためでしょうが、ヘルデンズの現状をよくご覧下さい。人も国も疲弊しきっている。そんな余裕はありません。それに僅かなりとも癒えてきたヘルデンズ人の傷をこれ以上抉れば、この国はもはや立ち上がれなくなる。とにかく今は軍事政策よりも国内の経済復興に力を入れるべきです」
「終戦からそれほど経っていない今だからこそ、使われずに放置されているヘルデンズの男たちを再利用し磨き上げれば強大な兵力となりうる。そして西側侵攻はあくまでヘルデンズ東西統一の第一歩だ。自国の領土が手に戻ってくるならば、多少の負担はつきものであるし、そのために人間が少し減ったところで問題あるまい」
「なんてことを!」
「何度も言ったが、これは司令部上層会議の決定事項だ。撤回することはない。私も忙しいのだ、早々に諦めて帰りたまえ」
「大佐!!」
ギュンターが片手を上げると、その男は近くにいたオプシルナーヤ兵に取り押さえられ離れていく。「全く身の程知らずな人もいるものですね」部下の一人が嘲笑混じりに言う。
「全くだ」面倒臭そうに返しながら、ギュンターは目的の建物へと向かった。
男は尚も叫んだ。
「偽オプシルナーヤ人め! あんたのやっていることはダールと同じだぞ!!」
ヘルデンズ語で訴えたそれに、ギュンターは僅かに眉を動かすが、構わず捨て置いた。
激しい雨音も相まって、男の声はやがて消えていく。
そうして本棟に到着した。
この最上階に、ギュンターの仕事部屋がある。かつてはマクシミリアン・ダールベルクが使っていた部屋だ。
ギュンターが執務机に着いて一息吐く間もなく、ドアが叩かれた。返事をするよりも早く参謀長が入ってきた。
「昨日復帰したばかりだというのに、随分働くな」参謀長はタバコに火をつけた。
「恐縮でございます。国家の繁栄を思えばこその行いです」
「国家……か」参謀長は、ふんと鼻で笑った。
ギュンターは胸に手を当て頭を低くする。
その手に巻かれた包帯は、袖の中まで続いている。それ以外にも、彼の身体はあちこちガーゼと包帯に巻かれていた。全て二週間前の列車爆発テロによって出来た火傷だ。彼はあれ以来病院で療養しながら仕事をし、ようやく昨日職場に復帰したところだった。
参謀長は、ゆったりとソファに腰を下ろした。
「まぁいい。今後の活躍を期待している。ところでお前が手に入れた手紙だが、情報部が解読した土地を漁ってもめぼしい成果がないそうだ」
「存じております。しかしまだ捜索を始めてから間もないとも聞いております。今しばらく待つ必要があるかと」
「その通り。"例のアレ”が出てくれば、お前の手柄は大きい。出てくれば、だが」参謀長はタバコを吸ってから、続けた。「手紙には何もないのではという声も出ている」
参謀長はタバコを軽く弾いた。灰が絨毯に落ちる。
ギュンターは苦い表情を浮かべつつ、内心で舌打ちした。
例のアレというのは、ホフマンの爆弾のことだ。
ギュンターは、ホフマンの証言よりも前に、その可能性に気付いていた。マクシミリアン・ダールベルクとその周辺が、かつて妙に騒いでいたのを思い出したのだ。
もしそれが事実なら――。
あのとき娘を殺した判断は、致命的な失策になる。
同時に娘の生死も気になり始め、早々にその捜索を開始した。
そうしてようやく娘を見つけ出し、マクシミリアン・ダールベルクが渡した手紙を持ち帰ったわけだが――。
まさか違ったというのか?
あのおぞましい爆発テロに遭いながらも、命からがら持ち帰ったというのに。娘の捜索も思うように進んでいない。国境警備隊からの報告はないから、東ヘルデンズ内にいる可能性が高いが……。
「そこでだ」参謀長はタバコを持つ手を振って続けた。「もし手紙がハズレだとすれば、本人を引きずり出すしかない」
参謀長は、ギュンターに鋭い目を向けた。
「クラウディア・ダールベルクに賞金を懸ける」
ギュンターは目を瞠った。
「民衆は金に飢えている。効果はまあまあ期待できるだろう。もちろん素性は伏せる。騒ぎになるのも厄介だし、西側に嗅ぎ付けられるのも困る」
参謀長は、そこでタバコの煙を吐いた。
「問題は、見つかるまでに、どんな扱いを受けるかだ。だから聞いておく」口元が、わずかに歪んだ。「……彼女はお前の娘だったな?」
ギュンターは唾を飲み込んだ。
オプシルナーヤ軍では過去の経歴は伏せているが、ギュンターが元はマクシミリアン・ダールベルクの娘婿だったことを、この男は知っている。
ギュンターは大袈裟に肩を竦めた。「どうぞ、その点はお構いなく。むしろ市井で揉まれて大人しくなってくれた方がありがたいくらいです」
「手厳しい親だな」参謀長は嘲笑うように言った。「しかし娘が無傷で帰ってきた方が、都合がいいはずだ。彼女に興味を示している若手将校は、そこそこいる」
まことしやかに生存が囁かれるクラウディア・ダールベルクがどのようなものなのか、一度見てみたいと言っている声があるらしい。
「分からないものですね。私の娘はとても人様に見せられたものではない。写真をお見せしたでしょう、醜いのです」
「火傷など、瑣末なことだ」参謀長はソファで足を組み替えた。「しかし既に西側に逃れていたら、どうするつもりだ?」
ギュンターは参謀長をまっすぐ見て答えた。
「私に考えがあります」
その一時間後。
参謀長と入れ替わるようにして、新たな人物がギュンターの部屋を訪れた。
「この度は大変お世話になりました。旅券も用意して頂き、誠にありがとうございます」
フラウジュペイ訛りの残るヘルデンズ語を話すのは、フィルマン・ランベールだ。彼はギュンターに向かって恭しく頭を下げる。
ギュンターはつまらなそうに彼を見た。
「君には我が国の厄介事に巻き込んでしまったからな。ほら、約束の金だ。フラウジュペイで換金するといい」
机の上に出された小切手を手に取り、フィルマンはにんまりと瞳を細めた。
二週間の列車爆発テロに巻き込まれた彼は、ノイマール市内にある病院で療養し、今日これから帰国するというところだ。フィルマンもそこそこ怪我を負ったはずなのに、新品のスーツと革靴に身を包み悠然と微笑む様は、この状況を楽しんでいる風だ。
フィルマンは小切手をしまうと、再び大げさに頭を下げた。
「カミーユについてはしばらくご迷惑をお掛けしますが、よろしくお願いします」
「構わん。むしろ無事目を覚ましたのは喜ばしいことじゃないか」
「ええ、全くでございます」
フィルマンの従弟であり彼の補佐役であるカミーユ・マルシャンもまた、先日の爆発列車に乗っていた一人だ。
彼は、生死をずっと彷徨っていた。医師からは絶望的とまで言われていたくらいだ。だが、昨日ようやく意識を取り戻した。しばらく入院は必要だが、そのうち普段通り生活出来るようになるだろう。
「彼の退院が決まったら、その時は無電で君に知らせる」
「ご配慮頂きありがとうございます」
「これくらいどうということはない。君には帰ってからも宜しく頼むよ」
「ええ、勿論ですとも」
二人は目を見合わせ頷いた。
そのやりとりを、フィルマンの後ろに立つギュンターの部下は、表情を変えずに眺めていた。あまり大きくはないオリーブ色の瞳を、顔に巻かれた包帯の間から覗かせながら。
「では、旅路に気をつけて。<セドロフ大尉、君も復帰したばかりで悪いが、あとは任せた>」
「<承知致しました>」
セドロフと呼ばれた彼は、頭に手を当てオプシルナーヤ軍式の礼をした。
するとその時、部屋の電話が鳴り響く。
速やかに応じたギュンターは、電話の内容に眉を顰めた。
「相変わらず不穏な様子で」
ギュンターがうんざりした様子で受話器を置くと、フィルマンはふふっと笑みを深めた。
「今回は大したことじゃないがな。メルジェークだかヘルデンズ人も混ざっているんだか知らないが、ここ最近は我々への悪戯が過ぎるようだ」
「心中お察ししますよ」
「ふん、奴らが調子に乗れるのもじきに終わる。警察隊が反乱組織を炙り出してるからな。尻尾を掴んだらもう終わりだ。ああそうだ、<セドロフ大尉、フィルマンを送った帰りに君に頼みたいことが>」
「<何でしょう?>」
セドロフ大尉は、ギュンターの元へ近づき身を屈める。
ギュンターは、引き出しから一枚の写真を取り出し短く命令した。「<この男を消せ>」
そこに写っているのは東ヘルデンズの官僚――先程ギュンターに詰め寄っていた男だ。
大尉はわずかに眉を顰めるも、事務的にギュンターへ視線を戻した。
彼は続けて言った。「<反逆の疑いがある。早々に摘み取っておけ。任せたぞ>」
「<……承知いたしました>」
セドロフ大尉が素早く返答すると、ギュンターは満足そうに頷いてみせた。
フィルマンとセドロフ大尉は、間もなくして国会議事堂から外に出た。ノイマール中央駅に向かって車を走らせる。
「……反逆組織、か。大変ですね、軍人さんも」
ふとフィルマンが話し掛けた。
彼がヘルデンズ語を使ってきたので、大尉もヘルデンズ語でごく事務的に答えた。
「国家のためですから」
「国家、ね」フィルマンは瞳を細めた。「こういうとき、案外灯台もと暗しになっていたりしますよね。そう思いませんか?」
「……仰りたい意味がよく分かりません」
「あぁ失礼。最近ミステリー小説に嵌っていましてね、スパイものの。しかし現実にそうそうある話ではないですよね」
後ろの男へ、セドロフ大尉はルームミラー越しにオリーブ色の目を向けた。窓の外を見ながら座る彼は、至って愉快そうだ。
「うちの人間で誰か怪しい者でもいましたか?」
淡々と尋ねると、「まさか」とフィルマンは笑い声を上げた。
「例えばの話ですよ。大きい組織にはそういうことも起こり得るみたいですから」
「……そうですね、今一度調査をする必要はあります。ご忠告ありがとうございます」
「いいえ。何もないことを祈っていますよ」
フィルマンは笑みを深めて運転席に座る彼を一瞥すると、再び外の景色へ視線を向けた。
朝から続いていた雨は、より一層雨足を激しくしていた。




