1-4.白いおかっぱ頭
「お客さんは口出ししないでくれますかね、アジェンダのブラッドロー人さん」
下品な笑い声が聞こえて、ヴォルフは我に返った。
白金まだらのおかっぱ頭の少女が、かすかに目を大きくする。
ヴォルフは男たちを見て言った。
「客だろうが何だろうが、こんなのただの弱いものいじめじゃないか。ほら、彼女を放してあげなさい」
見たところ、男たちはみんな二十歳前かそこそこだろう。服をだらしなく着崩し髪を逆立てて、地元の不良グループといった様子だ。
リーダーらしき男が鼻で笑った。
「弱いものいじめ? はやとちりは良くないなぁ、おにいさん。こいつはうちんところの雇われで、今教育してやってるところなんすよ」
男は片手に持っていたタバコの灰を少女の白いおかっぱ頭に振りかけた。
「何するんだ!」ヴォルフは男の手からタバコを引ったくった。「嫌がってるだろ」
「あんた目見えてる?」男の目が剣呑に光った。「こいつは嫌がりなんかしねえよ。何されても平気なんだ。人形みたいに無反応でここがどっか欠けてんだ」男は自分の頭を指差し薄ら笑った。
「インテリ過ぎて壊れてんだ」他の男が少女の背中を膝で蹴った。
「おい、やめろよ!」
ヴォルフは男たちを払って少女との間に入った。
何されても嫌がらない? こんな目に遭って平気でいられるものか。
しかし彼女の顔には、恐怖や屈辱や怒りなどが、確かに一切感じられなかった。大きな深緑色の瞳をやや瞠りつつ、ただこちらを見ている。何を考えているのか、まるで分からない。
本気で何も感じていないのか?
――いや。
こんな表情を、見たことがある。
ヴォルフは不意にそう思った。
なす術もなく虐げられた者たちが見せる顔。色のないあの灰色の日々が脳裏をよぎる。いつ終わるのだろうと思いながら卑劣な暴行を受ける人たち。
やめろ、記憶に飲まれるな。
ヴォルフは周囲に目を向けた。町の人たちはもちろんこのやりとりを遠巻きに見ているが、誰も彼女に手を差し伸べようとしない。
沸々とヴォルフの中で怒りが這い上がって来る。
いったいこの子が何をしたと言うんだ。
「おにいさん、よその土地で調子乗らない方がいいよ」リーダー格の男が言った。「いくらブラッドローたって、ただのアジェンダなんて大したことない」
「自慢じゃないが、俺は正真正銘軍人だ」ヴォルフは嘲笑うように返した。
とたんに周囲がざわめいた。
「ブラッドローの軍人さん!?」
「ロマンの友達がブラッドロー人ってだけでも驚きなのに、まさか軍人さんだったなんて!」
「まさに英雄じゃないか! なんて今日はめでたいんだ!」
「おいお前たち、散々失礼なことを言っただろう! この人に謝るんだ」近くにいた中年男性が、不良グループの男たちを叱った。
いきり立っていた彼らにも動揺が走る。「俺たちやばいんじゃないか……?」
少しくらい失礼なことを言ったところで、わざわざ軍があんな小物を相手に何かするはずもないが、肩書一つでビビるヤツなどまったく大したことない。ヴォルフは蔑みに満ちた目で彼らを見下ろした。
「ちょっと祭り気分でふざけただけじゃないか、はは」
「ゆっくり楽しんで行ってくれよな!」
不良たちは乾いた笑いを上げながら散っていった。取り残されたリーダー格の男が鼻にしわを寄せて悔しそうにしている。「覚えておけよ」
男はヴォルフの後ろに向けて言い残し、人ごみに紛れていった。
とりあえず一難去ったか。
ヴォルフが一息ついていると、町の人たちが寄ってきた。
「お兄さん、よくやったよ」
「あいつら、いつも悪さばかりしているんだ」
さっきまで見ていただけの連中が、今さら何を言う。ヴォルフは内心毒づくも、愛想笑いを浮かべて相槌を打った。
そして振り返ると――少女は消えていた。
ブランカは縫うように人混みを抜け、足早に児童施設へ向かっていた。
逃げる必要なんてなかったはずなのに。
頭の中の冷静な部分がそうささやく。
あの人はただ、親切に助けてくれただけだ。ブランカがあの不良グループに嫌がらせされるなんて日常茶飯事だが、初めて見たら誰だって止めに入るだろう――もちろん親切な人ならば。
それなのにお礼も言わずに逃げ出すなんて、失礼極まりないし、不自然でしかない。
心臓がドキドキしている。ブラッドローから来たアジェンダ人の軍人。その三つの単語が、思考の奥で引っかかって離れない。
あの人が、ロマンの友人なのだろう。カタコトなフラウジュペイ語ながら、躊躇なく不良グループたちを止めに入ってくれた。ロマンの言う通りの良い人、親切で正義感の強い人だった。
あの燃えるような薄鳶色の瞳。
射抜くような真っ直ぐな瞳には気遣いが表れていた。あの瞳を思い出すと、ブランカは落ち着かなくなった。
ブラッドローから来た軍人。いくらそうだからと言って、ブランカの正体に気が付いたわけではない。むしろこうして逃げてくる方がよっぽど怪しい。
それでいて彼は――。
「待ってくれ!」
さっきの人だわ。
施設に向かう畑道に差し掛かったところで、彼の声が聞こえてきた。返事をするべきなのだろう。けれど今更どう取り繕ったらいいか分からない。
ブランカはそのまま先を急いだ。
しかし、彼の方が速かった。
「待てって」彼はブランカの前に回り込んだ。「まったく、わざわざ逃げなくてもいいのに」
やや呆れたような薄鳶色の瞳と目が合った。
あの落ち着かない感覚が、ブランカの全身を覆った。
何も反応を返せないでいると、彼は自身の頭を指差した。
「髪、さっきの灰が付いてる」
ブランカがでたらめに頭を払っていると、視界の端で彼が手を上げた。
ブランカは反射的に目を瞑った。
——叩かれる。
彼はハッと息を飲むと、ひどく慎重な手つきでブランカの髪についた灰を払った。
「さっきみたいなの、よくあるのか?」
彼は気遣わしげに静かに聞いた。
ブランカは肯定とも否定とも取れない角度に首を傾けた。
苛立たしげな吐息が聞こえた。
「殴られることも?」
ブランカは曖昧に首を傾げたまま目を閉じた。
昔のことだ。そんなこと、わざわざ知られる必要はない。
ブランカは彼をそっと見上げた。
「あなたはロマンのお友達なんですよね?」
彼は眉を上げて問い詰めるような目を向けた。
しかしそれ以上は追及せず、彼は右手を差し出してきた。
「ヴォルフ・ノールだ。ヴォルフと呼んでくれ」
ブランカは彼の右手をまじまじと見た。
こんな風にブランカに握手を求めた人はいつ以来だろう。もう随分昔だ。
「ブランカ……です」
ブランカはおずおずと右手を差し出す――が、ヴォルフに触れる寸前でとっさに指を引っ込めてしまった。右手のただれた火傷の痕が急に恥ずかしくなったのだ。
しかし、かえって余計に気まずい状況になった。
ブランカは、どうしていいか分からず俯く。
すると、乾いた笑いが降ってきた。
「……アジェンダはお断りか」
ブランカは弾けるように顔を上げた。「違います」
そんなこと微塵も思わなかった。それ以前にブランカにそう思う資格はない。
「わたしはただ……」けれど何て返せばいいのかしら。ブランカは左手で右手の火傷を隠した。「……気にしないで下さい」
「そうか」ヴォルフの視線が、ブランカの右手に落ちた。「痛むのか、それ」
ブランカも改めて自分の右手を見た。
火傷は指先から始まり手の甲で赤茶に変色し、表面が荒れ服の下に続いている。グロテスクな見た目はきっと痛々しく見えるだろう。
ブランカは首を横に振った。
「ほとんど痛みはありません」それとも痛覚も麻痺してしまったのかもしれない。
「そうか。――なら問題ないよな」
次の瞬間、ヴォルフはブランカの右手を取り、その手の甲を反対側の手で覆い――両手でブランカの右手と握手した。
「改めてよろしく、ブランカ」
彼は柔らかく目を細めてブランカの瞳をまっすぐ見つめ、ニッと口角を持ち上げた。
手先から彼の熱が浸透してくる。
よどみを感じないまっすぐな言葉に、自分の何かが揺すられる感覚を覚えた。
発音も言葉の並びも整っていないのに……どうして?
「あの……さっきはありがとうございました」
「あぁまぁ、余計なおせっかいだったかもしれないが、ああいうの見過ごせないタチなんだ」ヴォルフはやや気まずそうに身じろぎした。「それに、この髪が汚されるのもなんか気に入らなかったんだ。こんなにきれいな白い髪なのに」
ブランカは、彼が何を言っているのか意味が分からなかった。こんなに――いびつでくすんだ色なのに。
足元が次第におぼつかなくなってきた。
これは……とても危険だわ。
まっすぐな薄鳶色の瞳を見ながら、ブランカはぼんやりと思った。
「ブランカ!」
自分を呼ぶ声にブランカはハッとした。
ヴォルフの手をパッと離す。
「ブランカ、ようやく帰って来た――あら?」レオナが走ってきた。「こちらは?」
「ヴォルフ・ノールです」ヴォルフがカタコトのフラウジュペイ語で自己紹介する。
「ロマンのお友達の方なの」ブランカは補足した。
「あぁ、あなたが! 施設で噂になっていたの」
レオナはヴォルフをまじまじと見た後、ブランカとヴォルフに視線を往復させた。
にっこり笑って手を出した。「あたしはレオナ。よろしく」
ヴォルフは握手を返した。
「それはそうとブランカ」レオナは振り返った。「もうお祭り始まっちゃうじゃない! 早く着替えに行くわよ」レオナはブランカの腕を取った。
「え、でもわたしは別に――」
「ダメよ、今日は来てもらうわよ。あたし、あんたを変身させるって決めてたんだから」レオナの目には強い決意がみなぎっている。「今日くらい可愛くしなきゃ、ねぇヴォルフさん」
「え、まぁお祭りだしな」ヴォルフはブランカを興味深そうに眺めた。「それにどんな風に変わるのか見てみたい」
ブランカは目をつぶり、レオナは小さく息を飲んだ。
「そうと決まったら準備しに行くわよ! ヴォルフさん、また後で!」
「楽しみにしてる」
ヴォルフはニヤリと笑って片手を上げた。
ブランカはレオナに引かれるがまま、彼女の家に向かう。ヴォルフに声が届かないところまで移動すると、レオナが興奮気味に言った。
「めちゃくちゃ素敵な人ね。なんで二人きりでいたの?」
「……ただのなりゆき」
「なりゆき? なりゆきで手を繋ぐの?」
見えていたのね。日が暮れてちょうどよかった。きっと今、顔が赤くなっている。
「自己紹介で握手していただけなの」
「あれが? しかもあんたが?」
レオナはブランカの顔を覗き込むが、ブランカはそれ以上何も言わなかった。
だけどレオナは嬉しそうににんまり笑った。




