4-2.アロイス②
それから二日。
ブランカは付きっきりで看病していたが、ヴォルフはまだ目を覚まさない。容態はようやく落ち着いてきたものの、何度か熱の上がり下がりを繰り返し、呼吸もまだ苦しそうだった。
ヴォルフ……。
彼の額に滲む汗をそっと拭いながら、こみ上げてきたあくびを噛みしめる。
この二日、ブランカはまともに寝ていなかった。
ヴォルフの様子が気になって仕方がない。アロイスは大丈夫だと言っていたが、苦しそうに顔を顰めるのを見るたび、不安が消えず、眠れなかった。
でも、それだけではなかった。
「ちょっとやめとくれよ! 誰か! 誰かーっ!」
表通りから女性の悲鳴が聞こえてきた。
そっと窓から窺うと、数軒離れたところにあるパン屋のショーウィンドウが割れているのが見えた。騒ぎを聞きつけた近所の人たちが駆け付けるが、中の人――オプシルナーヤ兵士は、何かをまくし立てながら暴れ回っている。
「なんてこと……もう店どころじゃないじゃないか」
近くにいた主婦たちが、呆然と顔を見合わせた。
暴れていたオプシルナーヤ兵は、近所の男たちに引きずられていく。店の中は外からでも分かるほど荒れ果て、店先ではパン屋の女が泣き崩れていた。
本当に、ひどい……。
オプシルナーヤ兵の暴力を、ブランカは既に数回目撃していた。全てアロイスの家から見える範囲でだ。こんなのは日常茶飯事だとヤーツェクは言っていたが、彼らは当たり前のように街を歩き、住民に絡んでは嫌がらせをしていた。
でも、問題はそれだけではない。
地元の企業は次々と潰れ、人々はオプシルナーヤ系の会社に低賃金で雇われる。税は増え、物価も上がる。フィンベリー大陸戦争の損害賠償の件も相まって、東ヘルデンズのものは、ほとんどがオプシルナーヤへ吸い上げられていた。
噂には聞いていたけれど、生まれ育った祖国の有様に、ブランカの胸は締め付けられた。祖父が戦争を引き起こさなければ、こんな経済破綻もなかったのに。
それに――。
ブランカは傍らに置いていた今朝の新聞を、改めて広げた。
『ヴァルツハーゲン列車爆発 犯行グループ八人の死刑執行』
一面には、大きな見出しが走っている。ブランカたちが乗っていた列車のことだ。
記事によると、あの爆発は東ヘルデンズのメルジェーク人グループによるもので、狙いは――ギュンター・アメルハウザーの暗殺だったとされている。紙面には移民への非難が並んでいた。
ブランカにとっても、あの爆発で命を落としかけた以上、心境は複雑だ。だが今の東ヘルデンズで強硬な政策を進めているのも父である以上、こうした事件が起きるのも無理はないのかもしれない。関連の襲撃は、以前から相次いでいたという。
それでも――父の狂気と執念は、まるで衰えていなかった。
父は、記事の中でこう語っている。
『今回の事件で、私は命よりも大切なものを失った。未だ行方は知れない。だが、諦めるつもりはない。必ず見つけ出す。盗んだ者が誰であろうと――アジェンダでも、メルジェークでも、ヘルデンズでも――決して許さない』
記事には明記されていないが、その「大切な物」が何であるか、考えなくても分かる。
父は、ブランカを連れ戻すためなら何でもするだろう。それこそこの辺一帯を火の海にすることだって厭わない。父はそんな人だ。
一刻も早く、ここを離れなければ……。
いつ父がここを嗅ぎつけるか分からない以上、ブランカはここに長居できない。ヴォルフだけでなく、ヤーツェクやアロイスたちまで危険に晒すことになる。
でも、ヴォルフをこのままにしておけない。
膝の上のハンカチに、ふと視線が落ちる。角のWの刺繍のすぐ横に、洗っても落ちない血の跡が残っていた。
自分がここを離れる前に、せめてヴォルフの安全だけでも保証してもらわなくてはいけない。それこそ彼が無事に西へ逃れるものでなければ。
でも、どうしたらいいの?
良い案が全く思いつかない。頭が十分に働かない。気持ちは焦る一方だ。
そういうわけで、ブランカはろくに寝られないでいた。
それもそろそろ限界が近い。
頭を冷やすべく、ブランカは洗面所に向かった。
「なかなか今のヘルデンズ人を動かすことは難しい」
顔を洗ってヴォルフの寝室へ戻ろうとしたとき、アロイスの仕事部屋からそんな話し声が聞こえてきた。
ブランカは立ち止まった。
アロイスは現在保険会社を営んでいるらしい。この二日間で知ったことだ。ちなみにヤーツェクは近くの町工場で働いているとかで、この時間は勤務中だ。
いずれにせよ今の発言が気になって、ブランカはそっと扉の前で耳をそばだてた。
「どの街に行ってもアジェンダ人やメルジェーク人や、その他の東フィンベリーから来た人たちからの支持は得られるが、肝心のヘルデンズ人が弱腰だ。それどころか彼らは現状を受け入れつつある。それもダール政権と同じになっていると理解した上でだ」
さっきと同じ人の声だった。丁寧なヘルデンズ語を話す、低いおじさんの声。
「ふん、昔も今も、相変わらずヘルデンズ人は上の言いなりになるばっかりですな。私の方でも自国の市民は協力的ですが、ヘルデンズ人がこれではいつまで経っても西の協力は得られませんよ」
また別の声。彼の喋るヘルデンズ語に違和感がある。外国の人だろうか。
「西の協力」という言葉に引っかかる。
「この辺でも若い子はまだマシなんですがね、大人はみんな過去の罪悪感に囚われとる。何か大きな一手がない限り、難しやろなぁ……」
独特の訛りがあるのはアロイスだ。重々しい空気が、扉の向こう側から伝わってきた。
ブランカはますます違和感を覚えた。
どう考えてもビジネスの話には聞こえないし、政治の議論をしているだけとも思えなかった。
「アロイス、今後の動きについて、コンラートから何か聞いていますか?」
「聞いとります。まずアメルハウザーについては……」
一体どこから仕入れたのだろう。
アロイスは、父を始めとする幹部の名前と、今後の動きをいくつも並べていく。
ブランカは寒気を覚えた。
「――と、ざっとこんなもんです。そやけどしばらくの間は警備体制が強化されるらしいし、移動中じゃないときも沿線上に厳重体制が敷かれるみたいなんで、当分は様子見が必要やとは思います」
「致し方ない。この前の件も影響しているだろうしな」
三人は低い声で唸り合った。
しばらくの沈黙が続くと、丁寧な喋りの中年の男が切り出した。
「とにかく私は一度西へ向かおうと思う。決して多くはないが、集めた署名にはヘルデンズ人の名前もちゃんとある。改めて西から訴えかければ、消極的なヘルデンズ人にも火を付けることが出来るかもしれない」
「ついでに向こうの軍事力も借りられたらいいですがね。では、私の方は――」
何やら話が一気に収束に向かい始める。
あまり聞き過ぎてはいけないような気がして、ブランカは静かにその場を離れた。
一体どういうこと……?
ヴォルフの寝室に戻り、頭の中を整理する。
弱腰のヘルデンズ人に、協力体制のアジェンダ人とメルジェーク人。オプシルナーヤ軍の予定に、西の軍事力。
どれもただ事とは思えなかった。しかも何か企てているようだった。
反オプシルナーヤ――。
そんな雰囲気だった。オプシルナーヤの横暴を考えれば、ありえない話ではない。
でも、本当に?
けれどもさっきの会話には大きなヒントが隠されていた。
あの人……西へ向かうと言っていた。
つまり、ヘルデンズを東西に分ける境界を超えるということだ。さっきの人はその方法を知っている。
ブランカは急いで廊下に引き返した。
しかし、アロイスが客二人を見送っているところだった。
追い掛けようかと逡巡していると、彼の童顔がこちらへ向けられる。
「盗み聞きは感心しやんけど、何か言いたそうな顔やな。何?」アロイスは仕事部屋まで戻り、扉を開けて顎をしゃくった。
ブランカは唾を飲む。
どきどきする胸元を押さえて、彼の仕事部屋に入った。
勧められるままソファに座ると、ブランカは尋ねた。「……今の人たちは?」
「自分が察しとる通りやと思うよ」
アロイスはあまり長くはない足を組み、頬杖をついてこちらを眺めている。鋭い青灰色の瞳は、こちらの出方を待っていた。
ブランカはゆっくり深呼吸をした。
「アロイスさんは……西ヘルデンズへの行き方を知っているんですか?」
まっすぐにアロイスを見据えると、彼は表情を変えずに聞き返した。
「知っとるけど、それが何?」
「お願いがあります」
ブランカは間髪入れずに切り出した。
「私は、すぐにここを離れなければなりません。ここにいたら、皆さんを巻き込んでしまうから……。だから――ヴォルフを、アロイスさんに預かってほしいんです」
そこまで一気にまくし立てると、アロイスは僅かに目を見開いた。
ブランカは構わず先を続けた。
「彼はブラッドロー人です。国で、彼を待っている人もいます。だから――無茶を承知でお願いします。目を覚ましたら、西ヘルデンズへ逃がしてほしいんです。どうか……力を貸してください」
残りを一気に言い切って、ブランカは頭を下げた。
無理なことを言っているのは分かっている。出会ったばかりの人にお願いすることでもない。アロイスのことだってよく知らないのに。
でも、今のブランカに頼れる人は他にいない。それにここの人たちは、アジェンダ人にも好意的だ。ヴォルフの幼馴染みもいる。
少なくとも……匿ってはくれるかもしれない。
ブランカはぎゅっと目を閉じて、アロイスの言葉を待った。
しばしの沈黙の後、再び質問を返してきた。
「ずっと気になっとったんやけど、あの兄さんは君の恋人?」
「まさか! 違います!」ブランカは反射的に顔を上げた。
「じゃあ何でそんなに必死なん? 一昨日の晩もめっちゃ必死にティモに食い下がっとったけど」
「それは……」
大切だから――。
頭に浮かんだその一言を、ブランカは咄嗟に口に出せなかった。
分からない。うまく言葉が続かない。
ブランカは、口をつぐんだ。
じっと眺めていたアロイスが、「なるほどね」と小さく呟く。
「それで、それほど必死に看病しとった兄さん僕らに預けて、自分はどっかに消えるってわけ?」
「本当に身勝手なんですが――」
「身勝手すぎるわ。そんな願い、よう聞けやん」
突然アロイスは声を低くして一刀両断した。
彼は高慢に鼻で笑うと、大げさに面倒臭そうなため息を吐いた。
「確かに自分ら二人の面倒はみたっとるけど、自分は出て行くので兄さんのこと頼んます、ついでに西に逃がしてやって下さいなんて、僕にそこまでしたる義理はないわ」
「それはそうなんですけど……」
「僕はそんな危険なことしたないし、そんなに大事な兄さんを預かるなんて責任も取れやんしね。君が消えるって言うんやったら、問答無用であの兄さん追い出すわ」
「そんな……!」
まずい方向へ走り出していく。ブランカの頭の中は一気に真っ白になった。
無茶な頼みだということも、失礼だということも分かっている。断られることも、覚悟していた。
それでも――ここまできっぱりと言われてしまうと、言葉が出てこない。下手なことを言えば、ヴォルフも一緒に追い出されてしまうかもしれない。
アロイスは、ブランカの浅はかさを笑い飛ばすかのように続けた。
「大体、自分はどっかに消えてどうすんの? さっきの話を軍部に持っていくとか?」
「まさか……! そんなことしません!」
「それをどうやって証明するん?」
「それは……っ」
ブランカは首を横に振った。
二日前に現れたばかりの自分の言葉など、信用されるはずがない。真実を隠したままでは、なおさらだ。
全部話したとしても、それでアロイスに利があるわけでもない。どう説明しても、無理がある。
けれど、このまま引き下がれない。父の脅威は確実に迫ってきている。ヴォルフだけでなく、アロイスたちにも危険が及ぶのだ。
どう説明すればいいの?
思うように動かない頭を、無理矢理回転させる。
アロイスはやれやれと、ソファの背もたれに肘をかけた。
「本当にどうしてもって言うんなら、考えたらんこともないけど。それ相応の対価を払ってもらわんとな」
「対価?」
「そうや。だってそんな責任と危険を押し付けられるわけやろ? そんなんタダで引き受けられるほど、ボランティア精神に溢れとるわけちゃうし」
嘲笑気味に言うアロイスの青灰色の瞳を、ブランカはじっと眺める。
それはつまり、お金……?
ブランカは胸元をぎゅっと握った。手にごつごつした感触が返ってくる。
いや、こんなものよりも、もっと金になるものならある。けれど……そういうことなの?
アロイスは、察したかのように笑い飛ばした。
「ああ、自分の身柄をオプシルナーヤ軍に売れってやつは却下や。君にどんだけの大金が付くんか知らんけど、そんなん興味ないからな」
「……でもそれ以外、私に払えるものは――」
「――いいや、ある」
やけに確信めいた口調でアロイスは言い放った。青灰色の瞳が妖しく光る。
ブランカはソファの上で後退った。
アロイスは前屈みになって続けた。
「さっきの話、聞いとったんやったら分かるやろ? 僕らが今何を望んでいるのか」
「アロイスさんたちの、望み……?」
それは、オプシルナーヤからの解放……?
本当に?
「そんな僕らが欲しがっているものが何なのか、君は分かっとるはずや」
「欲しがっている、もの……?」
前の考えが合っているなら、それはオプシルナーヤ軍の撤退を有利にするということになる。そして――アロイスはそれをブランカに求めている。まるで、当たり前に叶えられると分かっているかのように。
分からない。
ブランカには、この身以外何もない。何も出来るはずがない。
それとも――。
わたし自身のこと……?
あれほどオプシルナーヤ軍の内情を知っているのだ。ブランカがギュンター・アメルハウザーの娘だと気付いていても不思議ではない。
そのための……人質としての役目を、求めているのだとすれば――。
「その反応は、まさかとぼけとるんちゃうよな?」
「え?」
ブランカはいつの間にか下がっていた目線をアロイスに戻した。
彼は眉をひそめて、じっとブランカの目を観察している。彼の表情は、徐々に怪訝なものへと変わっていく。
「まあええわ。とにかくそういうことやから、ほんまにあの兄さん託したいんやったら、ちゃんと頭働かせて出直してき」
アロイスは入り口の方に向かい、扉を開けてブランカの退室を促した。
だめだった……。
これ以上食い下がっても、アロイスは取り合ってくれないだろう。
ブランカは肩を落として扉へ向かった。
入り口をくぐると、アロイスは「そうそう」と言い出した。
「自分、ちょっと自惚れ過ぎや。君如きの子どもでどうにかなるほど、みんなヤワちゃうからな」
アロイスは扉を閉めた。
ブランカは情けない気持ちで、ヴォルフの部屋へと戻った。




