4-2.アロイス①
「そこのベッドに寝かしたって。僕は器材用意してくるから、手の空いとるやつ、その兄さんの身体綺麗にしたって」
「アロイス、何か必要なものがあったら言ってくれ」
「じゃあ着替え頼めるか? 僕のじゃ絶対入らんし、ヤーツェクの数少ない服奪って逆にこいつ風邪引かすわけにいかん」
『女神の泉』から五分ほどにあるそれほど大きくない一軒家へ移動すると、アロイスは男たちにてきぱきと指示を出した。さっきまで野次を飛ばしていた連中も、今は素直に動いている。
その中で自分が黙って見ているわけにはいかない。
「あの、私は何をすればいいですか?」
ブランカはアロイスを捕まえて尋ねた。
アロイスは青灰色の瞳を見開き、わずかに見下ろす位置から、彼女の姿を上から下まで確かめるように見た。
瞬間、ブランカはまずいと思った。
自分たちは今ヘルデンズにいる。どの国よりもクラウディア・ダールベルクについて明るい土地だ。いくら昔と容姿が変わり果てたとは言え、流石に彼らの目を誤魔化すのは難しいのではないか?
けれど、そんな気配はなかった。
「君はまずシャワー浴びて来や」
アロイスはニッと口角を持ち上げて言った。
ブランカは目を丸くする。
「自分、めっちゃ酷い格好やんか。この兄さんの世話したいんやったら、まずは清潔にしやんと。ヤーツェク、この子を浴室に案内したって」
アロイスよりも頭一つ分背の高い男性が、ブランカの前にやってきた。よれたシャツに黒いキャスケットをかぶった無造作な黒髪の、野生的な風貌の男だ。彼こそ三週間前にダムブルクに現れたロマンの友人ヤーツェク・ルトワフスキだが、当然ブランカはそんなことは知らない。
「それは構わないが、この子の着替えもどうする? ゼルマに頼んでくるか?」
「ああ、それなら俺が行ってくるよ。娘かゼルマのを借りてくる」別の男性が二人の会話に割り込んでそう言った。
誰も、ブランカの素性を気にする様子はない。ブランカは内心息をついた。
「じゃあこっちは諸々の説明だな。嬢ちゃんこっちだ」ヤーツェクがブランカを促した。
そのとき。
「<貴様ら! こんな時間に何を騒いでいる!>」
表の通りから、大きな恫喝が聞こえてきた。
聞こえてきたのは乱暴なオプシルナーヤ語。
ブランカはそっと窓の外へ視線を向けた。
夜の闇に紛れるようにして現れた紺色は、先ほどまでヴォルフが着ていた服と同じもの――オプシルナーヤ兵だ。
嘘……。
もう見つかってしまうの?
「<俺らの目を忍んで集会か!? バカ共めが! 一体何を企んでいる!>」
着替えを取りに行った男達に銃を向けて、荒々しく脅かしている。彼らは「私たちは知りません、知りません(イェイスナウ、イェイスナウ)」と言うが、身を小さくしてすっかり怯えきっていた。
「やっぱり来てもうたか、見回り兵。まぁ、ティモがあれだけ騒いどったからなぁ」
ブランカを隠すようにして、アロイスが窓と彼女の間に立った。部屋にいた人たちは、みな張り詰めた表情で表のやりとりを眺めている。
兵士はひたすら頭を下げる男たちを鼻で笑うと、そのうちの一人の腹を蹴り飛ばした。
「<メルジェークとアジェンダのゴミが、調子に乗りやがって。誰のお陰で生きていられると思っている。ヘルデンズ人みたく、大人しくしていることだな。おおっと、人殺しのヘルデンズ人にデカイ面が出来るわけもなかったなあ!>」
兵士は倒れた男性の腹にもう一つ勢いよく蹴りを入れると、高らかに笑いながらその場を去っていった。
「くそっ何なんだよ、あいつら! 調子に乗ってんのはどっちだよ!」
ヤーツェクが、苛立ちを顕わに歯を軋らせた。他の男性たちも悔しげに顔を歪めている。
ブランカにしてみればひとまず難を逃れられたのだが、今の兵士の言葉が頭に引っかかっていた。
――メルジェークと、アジェンダと、ヘルデンズ人……?
アジェンダ人というのは、おそらくヴォルフのことではない。彼を運んでくれた男たちの中に、何人か混ざっていた。先ほどのゼルマやティモもそう。
それなら、メルジェーク人とは――。
「これでは下手にここに出入りするわけにはいかなくなったな。まだ他にも見回りがいるかもしれない。重体の人間がいると知ったら、奴ら嬉々として殴り込みに来るぞ」
部屋にいた男性が悩ましげにため息を吐いた。
他の者も同意の色を示している。
「こればかりはしゃーない。この場は解散や。外の奴らにも言うといて」
「ああ分かった」一人がブランカの肩を叩いた。「兄ちゃん、助かるといいな」
彼らは外の様子を窺いながら出て行った。外にいた男たちも、すぐさま夜の闇へと紛れていった。
「さ、僕はこっちの兄さんやるから、ヤーツェクはその子よろしく」部屋の空気を変えるように、アロイスがパンと手を叩いた。
「ああ、嬢ちゃん、こっちだ」
「え――は、はい」
ブランカはヤーツェクに付いていった。
「あれ? まだそんなの被ってんのか?」
シャワーを浴びて出ると、リビングからヤーツェクが顔を覗かせた。
助けてもらっているとは言え、このくすんだ白っぽい髪を晒すのは、まだ抵抗がある。ブランカは未だにオプシルナーヤ帽を被っていた。
「まぁいい。こっち来な。あんたも手当てが必要だろ?」
「え、でも……」
ブランカは躊躇した。
奥の部屋へ目を向ける。扉は閉ざされ、中は見えない。任せるしかないと分かっているけれど、やっぱり不安は消えない。
ブランカは、洗ったばかりのヴォルフのハンカチを握りしめた。
「アロイスなら大丈夫だよ」ヤーツェクが安心させるように言った。「あいつ、あんな見た目だけど実は割と歳食っててさ、それなりに実戦経験も豊富らしいし。たまにああして怪我人の治療してるところ見たことあるけど、あいつの腕は保証するよ」
ニッと笑みを浮かべてアロイスのことを語るヤーツェクは、誇らしげだ。他の男性たちも、みんなアロイスに一目置いているようだった。
過去に軍医をしていたらしいアロイス。ブランカよりも少し高いだけの身長と童顔。けれど見た目の割に大人びた落ち着きが、ブランカは気になった。
彼は、一体どういう人なんだろう。
それにここにいる人たちも――。
「みなさんは、メルジェーク人なんですか?」
リビングで救急箱を準備するヤーツェクに、ブランカは思い切って尋ねてみた。
ヤーツェクは目を丸くした。
「何で? メルジェーク人は嫌いか?」
「いえ……そういうわけではなく、さっきの人がそう言っていたので……」
「ああ、あのオプシルナーヤな」ヤーツェクは鼻に皺を寄せた。「そうだ。俺はメルジェーク人だし、さっきここにいた奴らもそう。だが全員ってわけじゃないぞ。アロイスなんかは生粋のヘルデンズ人だし、さっきのゼルマやティモもそうだ。まぁ、あいつらはアジェンダ人でもあるんだが……とにかく色々混ざってるんだ」
「そう……なんですね」
曖昧に相鎚を返しながら、ブランカは正直驚いていた。
――メルジェーク人と、アジェンダ人と、ヘルデンズ人。
さっきのオプシルナーヤ兵は、三つの固有名詞を口にしていた。まさか混在しているとは思いもしなかった。
アジェンダ人もメルジェーク人も、かつてヘルデンズに虐げられていた。元凶は祖父マクシミリアン・ダールベルクだが、実行したのはヘルデンズ人。その恨みが、この五年で消えるはずもない。フラウジュペイのダール狩りが、その証だ。
それなのに彼らはヘルデンズ人と普通に親しくしている。しかもそのうちのアロイスは、過去に軍にいたというのに。
これが、ここでは当たり前なのか。
「――にしても本当にむかつくよな、あいつら。何様だってんだよ」
ヤーツェクが苛立ちを顕わに吐き捨てた。ブランカの腕を巻く包帯に力が込められる。
さっきのオプシルナーヤ兵のことだろう。あの人の発言は、正直ブランカにも堪えた。
メルジェーク人やアジェンダ人には恩着せがましく、ヘルデンズ人には弱みにつけ込むような物言い。聞くだけで胸が抉られた。
「ああいうのは、よくあることなんですか?」
「よくあるっつーか、日常茶飯事だろ? あんたのところではないのか?」
「え……っ」
ブランカは思わず身体を揺らした。
迂闊だった。
オプシルナーヤに支配されている国がどんな扱いを受けているのかなど、少し考えてみれば分かることだ。
ヤーツェクは包帯を巻く手を止めて、じっとブランカを観察してきた。野生的な瞳が、みるみる鋭いものへと変わっていく。
「今更だけどあんた、一体どこから来たんだ?」
ブランカは答えられなかった。
「こんな帽子を被って、あんな怪我人連れてやって来てさ」言いながら、ブランカの頭のオプシルナーヤ軍帽を指で弾く。「一般人なら今の質問はありえない。あんたは何者だ?」
ブランカは唾を飲み込んだ。
こちらのことを知られるのは時間の問題かもしれない。けれど今はヴォルフの命が掛かっている。
でも、なんて答えたらいいの……?
「なあ、何か企んでいるのか?」
「何も企んでなんか――……」
ブランカはソファの上で後退る。
ヤーツェクは彼女の両側に手をついた。
どうしよう……。
このままではヴォルフが――……。
ブランカはぎゅっと目を閉じた。
「はいはい。そこまでそこまで」
場の空気に似合わない高い声が、二人の間に割り込んだ。
リビングの入り口にアロイスが寄りかかっていた。
「ヤーツェク、いきなりそんな年下いじめるのは感心しやんな」
「いじめてねえよ! 見るからに怪しいのをあんたが引き込むから、代わりに尋問してやってんだろ?」
「はいはい、頼んでないけどありがとありがと。けどよく見てみぃ。その子、泣きそうやんか。そういうのは紳士らしいとは言われやんな」
アロイスは呆れるようなからかうような口調で嗜めた。 ヤーツェクは顔を歪めて小さく息を吐いた。
「悪かったな」
軽くブランカの肩を叩き、ヤーツェクは拗ねた様子でリビングから出て行った。
ブランカは困惑したまま、アロイスを見た。「あの、すみません……」
アロイスは呆れたように肩を竦めた。「かまわんかまわん。あいつには僕からも言うておくわ。それよりも――」
アロイスは親指を立て、それを自分の後ろへと向けた。
しばしその意味を考え、ブランカは反射的にリビングを飛び出した。
廊下を駆け、奥の扉を開け放つ――。
消毒液の匂いが残る部屋のベッドに、ヴォルフはきつく目を閉じて寝ていた。
未だに額が汗ばんでいる。呼吸もまだ安定はしていない。まだひどくつらそうだ。
けれど彼の左肩に、白い包帯が綺麗に巻かれてあった。止めどなく流れていた血も、もう滲んではいない。
「とりあえず銃弾除いて、傷口縫合した。朝になったら点滴もらってきたるけど、今僕に出来るのはここまでや。しばらくはうなされるやろけど、最終的にこの人の体力次第。ま、見た感じ大丈夫そうや」
アロイスは洗面器に浸した布を絞り、それをブランカに差し出した。視線を上げると、アロイスはニッと笑みを浮かべた。
目頭が熱くなるのを感じながら、ブランカは頭を下げた。「本当にありがとうございます……!」
ヴォルフのかたわらに跪き、彼の右手をぎゅっと握りしめた。
ヴォルフ……あと少しだから。
どうか頑張って。
ブランカは、汗ばんだ彼の額や首筋を拭った。
「看病するのも良いけど――」アロイスは残っていた器材を片付けながら言う。「自分も顔色ひどいからな。隣の部屋用意しといたから、ほどほどに寝ぇや」
「すみません、何から何まで……」
「ええよ。その兄さんがゼルマの幼馴染みで助かったな――それから」
アロイスは自分のポケットから取り出した物をブランカに放り投げた。
咄嗟に受け取ったそれは、ヴォルフが着けていたはずの腕時計と、ブラッドロー軍の紋章が刻まれた茶色の軍手帳――。
ブランカは弾けるようにアロイスを見上げた。
「そういうの、あんまり見られやん方がいい。兄さん起きるまでちゃんと隠し持っとき」
アロイスは先程と変わらぬ笑みのまま言った。なんとなく、含みを感じた。
ブランカが言葉を失っていると、「ああそれから」と彼は付け足した。
「さっき言うの忘れてたけど、シャワールームの棚に黒染めがある。万一必要やったら、好きに使って」
それだけ言い残し、アロイスは器材を持って部屋を退室していった。
ブランカは未だオプシルナーヤ軍帽を被ったままの自身の頭へ片手を伸ばし、もう片方の手にあるヴォルフの軍手帳へ目を落とした。
もしかして……こちらの事情に気が付いているの?
ブランカはどきどきしてきた。
少なくともヴォルフの素性は知られてしまった。本当に迂闊だった。
でも――彼はブランカたちを匿ってくれるような口ぶりだった。
彼は――彼らは一体何者なのか。
助けられたことに感謝しつつも、この状況をどう受け止めていいのか分からなかった。




