4-1.ヘルネー③
薄暗い路地の一角。
特徴のないアパートが並ぶその辺りは、夜更けともなればひっそりと静まり返っている。
しかし、その店だけは明るい光を放っていた。
『女神の泉』
この辺りでは数少ない酒場の一つだ。
中はがやがやと騒がしく、レコードに合わせて踊る者、肩を組んで歌う男たち、テーブルで酒を傾ける者――皆が思い思いに夜を過ごしていた。
今夜は特に騒がしかった。
そんな様子を、アロイス・テールマンはカウンター席の端で眺めていた。
「アロイス! あんたこんなところにいたのねえ。分からなかったわぁ!」
グラスを片手に寄ってきたのは、ゼルマ。この店のオーナーの娘だ。肩までのウェーブの掛かった赤茶色の髪に、同色の瞳。長身で、目のやり場に困るほどの体つきの女だ。店の視線は、ほとんど彼女に集まっている。今日はやけに胸の空いたワンピースを着ていて、いつも以上に人目を引いていた。
アロイスは、鼻で笑った。
「そら自分みたいなんがおったら、僕なんか間違いなく霞むわ」
「あんたは小さいものねえ」
ゼルマは魅惑的に笑いながら、アロイスの頭をポンポンと叩いた。間延びした喋り方も彼女の特徴だ。
アロイスは確かに小柄だ。人混みに紛れればすぐに見失う。
だが子供扱いはさすがに堪える。童顔のせいで若く見られるが、実際はゼルマより年上だ。束ねたアッシュの髪にも、白いものが混じり始めている。
「それにしても今日は一人なのねえ。相棒はどおしたの?」
「疲れて家で寝とるわ。後で来る言うとったけど、起きるか知らん」
「ええ、何よそれえ。せっかくめでたい日だって言うのに、相変わらず気の利かない」
「めでたい日――なぁ……」
アロイスは店内に飾り付けられた布へ視線を流した。それには『誕生日おめでとう!』と書かれてある。今夜はバースデーパーティが開かれていた。
主役は目の前にいる女性――ゼルマ・ヨアヒムだ。
「これで自分もまた歳食ったというわけや」
「ちょっと、嫌な言い方はよしてよねえ! これでもまだ二十六、まだまだ若いんだから」
「もう二十六、やろ? いい加減ふらふらしとらんで、ちゃんと身を固めぇや」
「うるさいわねえ。そおいうあんたこそ結婚できない売れ残りじゃない」
「僕は別にいいんや。まったく、親父さん心配しとったで。いい歳扱いた娘が独身で、しかも二回も離婚しとるから余計に先が不安やって」
「あたしに見合う男がいないのが悪いのよ」
ゼルマはふんと顎をしゃくった。
アロイスはやれやれと肩を竦めた。
これでは親父さんの苦労も絶えやんな。
「しかし遅いなあ、ティモ」
「本当よねえ。アルテハウスタットでいい酒仕入れてくるって言っていたから楽しみにしていたんだけど、日付変わっちゃうわぁ」
「まさかどこかで事故っとらんやろな……」
ゼルマとアロイスが時計を確認したそのとき――。
「――ゼルマ!」
一人の男の声が店内に響いた。
店内にいた客のほとんどがそちらへ怪訝な目を向ける。声の主はそれには構わず、慌ただしくゼルマとアロイスのところへやって来た。ぼさぼさな長めの黒髪に、黒革のつばのついた黒いキャスケットをかぶった、みすぼらしい風貌の男だ。
「ちょっとやあだ、ヤーツェク。ここに来るのにそんな汚らしい格好しないでえ」
「仕方ねえだろ、金がないんだからさ。それより、ティモが店先で騒いでいるんだ。ちょっと止めてやってくれよ」
「ええ、パパったら帰ってるの? っていうか騒ぎって一体なあに?」ゼルマは形のいい眉をひそめた。
ヤーツェクは目を細めて答えた。「なんかよく知らねえが、ティモが運転していたトラックに男と女の二人組が勝手に乗り込んでいたらしい。しかも男の方は重傷負っているとか」
――重傷を負った男と女の二人組?
アロイスはぴくりと眉を動かした。
「とにかく急いで来てくれ。エミルがマジで困ってるからさ」
「分かったわ、すぐに向かう。もーお、帰って来るなり呆れるわねえ」
ゼルマは盛大にため息を吐きながら、ヤーツェクに案内されるままに店先へと向かう。
アロイスも一緒に様子を見てみることにした。
「勝手に盗んでおいて医者だと!? よくもそんなことを堂々と言えたものだな!」
野次馬の向こうに、軽トラックと四人の姿があった。
一人は腰に手を当て激高する小太りの禿げた中年の男――ティモ・ヨアヒム。この店のオーナーで、ゼルマの父親だ。
彼の横にいるのはエミル。ティモと一緒に酒の仕入れに向かっていたらしい。怒り狂うティモを宥めようとして失敗している。
そして彼らの前には、地面に倒れている男と、その横でティモに向かって深々と頭を下げている女がいた。
見るからに怪しい二人組だが、特筆すべきは、男がオプシルナーヤ軍服に身を包み、女がオプシルナーヤ軍帽を被っていることだろうか。しかし軍関係者にしては、ひどい身なりだ。
アロイスがじっと観察する横で、ゼルマがティモの元へと向かっていく。
「ちょっとパーパ! 店の真ん前でやめてよねえ! 一体何事?」
「こいつらがトラックに忍び込み荷台と毛布を汚すばかりか、せっかく仕入れた酒を勝手に開けやがったんだ! しかも仕入れた中で一番高い酒だったというのに!」
誕生日の娘が現れても、ティモは構わず二人を指差して怒鳴り続けた。こうなると、ゼルマでも手に負えない。野次馬が面白がって煽る。
ティモは「しかも」と、伸ばした指を女の方に向けた。
「この女は医者を呼べって言うんだ! 何て図々しい――」
「お願いします! でないと彼は死んでしまいます!」
頭を深く下げたまま、女が声を張り上げた。
細く震えた声は、若い女のそれでもあった。
女は丁寧な口調で、先を続けた。
「荷台に乗り込んだことも、毛布を汚したことも、大事なお酒を勝手に使ったことも……すべて私が勝手に行ったことです。決して許されないことだと重々承知しています。罰なら何でも受けます。でも――」
女が顔を上げた。
帽子の影に隠れて目元までははっきり見えないが、あちこちにある煤汚れと――右頬に走る赤い痣が、店からこぼれる灯りに浮かび上がった。痣は少なくとも首筋まで伸びている。
あまりに痛々しい容姿に野次馬集団がざわつく中、彼女はまっすぐにティモを見上げて、はっきりと言った。
「このままでは助かりません。どうかお願いします。 彼をお医者さまに――いいえ、せめて病院の場所だけでも……」
女は再び頭を下げた。
地面に額を擦りつけるかの如く平伏した様はとても切実で、尚かつとても危ういくらいにその身体は小さい。地面に付いた手に、ぎゅっと力が込められる。よくよく見れば、その右手にも赤い痣が走っていた。
彼女の様子に、ゼルマもヤーツェクも、野次馬たちも困惑した。信じるべきか、疑うべきか。この辺りでは、怪我人や病人を装う手口も珍しくない
しかし、この子はもしかして……。
未だ怒りに充ち満ちたティモの声が、アロイスの思考を妨げた。
「ええい、知ったことか、この薄汚いこそ泥めが! 警察を呼んでやる!」
「お願いです、どうかそれだけは……!」
女は弾けるように顔を上げて、ティモに食い下がった。手を伸ばして彼のズボンにしがみつき、彼女は必死に懇願する。
「警察に突き出すなら私だけにして下さい。でもどうか彼は……っお願いです、彼を病院に連れて行くと約束して下さい! それか、せめて彼を病院に連れて行くだけの猶予を……。その後なら警察でも処罰でも、私をどうしてくれても構いません。だからお願いです!」
「しつこい! やかあしいわ!!」
ティモは足を振り払い、彼女を蹴飛ばした。細い身体が地面に叩きつけられる。裂けた裾の奥に、痣と煤にまみれた足が覗いた。
まったく、容赦ないな。
そろそろ仲裁に入ろうかとアロイスが一歩出したとき、ティモが冷たく彼女を見下ろして言った。
「ふんっ医者医者と言うが、じゃあその診療代はどうするってんだ? 人のトラックに乗り込み勝手に酒や毛布を使うような奴が、それだけの金を持っているというのか? それとも医者代までふんだくるつもりか!?」
「それは――……」
彼女は僅かに言い淀む。しかしきゅっと唇を引き結ぶと、表情を引き締め、ティモをまっすぐに見据えて答えた。
「それなら私を警察ではなく――オプシルナーヤ軍にお売り下さい。きっと破格の大金がもらえるはずです」
その瞬間――帽子の影から出てきた真剣な深緑色の瞳と、僅かに帽子からはみ出た白い髪を、アロイスは捉えた。彼の青灰色の瞳が、大きく見開かれる。
――へえ、これは面白い。
彼女の発言に、ティモばかりか、それを取り囲んでいた野次馬達も絶句した。隣のヤーツェクが「一体何を……」と動揺していると、一際大きいため息を吐いてゼルマが割り込みに行った。
「あぁあぁもーお、そこまでよ! パパ、こんな女の子に何てことを言わせてるのよ」
「し……しかし、ゼルマ。俺は……」
「もお、酒のことはいいから。一本くらいで店が赤字になったりしないから大丈夫」
あまりに突拍子もない女の発言と仲裁に入った娘に、ティモはみるみる狼狽え始めた。
「それからあんた。女の子がそんなことを言うものじゃあないわ。それに自分のことを過信しすぎ。そんな貧相な身体で血気盛んなオプシルナーヤ軍の人間が満足するわけないじゃなあい」
ゼルマは腰に手を当て諭すように呆れ口調で言う。しかし自分の豊満な胸を見せつけるかのように押し出した姿勢は、その女の子を見下しているようでもある。ゼルマの言葉に野次馬から苦笑が漏れるが、女の子は目を丸くしている。
「で、なあに? とにかくその人を助ければいいわけぇ? というかこの人は一体――」
倒れた男の顔を覗き込んで、ゼルマは目を大きく見開いた。
「ちょっとぉ! ねえ、もしかしてこの人、ヴォルフ・ノールじゃない?」
「ゼルマ……? 知っているのか?」
さっきまでとは打って変わって明らかに困惑した様子で、ティモが娘に尋ねた。
「知ってるも何も、パパ覚えてないの? ほら、ノールさんところの一人息子のヴォルフよ! 昔近所に住んでたじゃなあい!」
「ノールさん……? 確かに覚えちゃいるが、もう十年以上も昔の話だぞ? まさか本当に……?」
「そうよ! ねえ、この人、そうでしょう!?」
ゼルマが興奮した様子で女の子に答えを求めれば、彼女は目を見開いたまま頭を縦に振った。
彼女はすかさずゼルマへ懇願した。
「この人を知っているのなら……彼を助けてくれませんか?」
「そうねえ、ヴォルフを助けるとなったら話は別よ。ねえ? パパ?」
「それは……そうだなあ。しかし医者となると……」
ティモは野次馬に目を向けた。だが、酒場にいた医者はすでに泥酔して寝ているらしい。
冷やかしから一転、協力しようとする者もいたが、この時間に叩き起こせる医者は思い当たらなかった。
すると、その中の一人が「そういえば」と声を上げた。
「アロイス。お前、昔軍医していたんじゃなかったっけ? 何とかしてやれねーか?」
言われてアロイスは片眉をつり上げた。
野次馬達の視線が自分に集中する。
「そおなの? アロイス、ねえお願ぁい」
「僕はもうそういうのはやっとらんのやが――」
上目遣いで強請ってくるゼルマに対しアロイスは眉を顰めて渋るが、身体に刺さる別の強い視線に彼は気が付いた。
オプシルナーヤ軍帽の下で、真摯な、それでいて泣きそうな大きな深緑色の瞳が、まっすぐにアロイスを見つめていた。
彼女はアロイスに向かって深々と頭を下げた。
「どうか、お願いします」
アロイスはやれやれと肩を竦めた。
「しゃーない。分かった。やれるだけはやったろう」
瞬間、周りから安堵の息が漏れた。
野次馬もゼルマたちも、そして激高していたはずのティモまで、心底安心した表情を浮かべている。
「ありがとうございます……!」
件の女の子が、声を震わせて何度も感謝を述べた。
アロイスは「いい、いい」と手を振りながら、隣にいるヤーツェクを振り仰いだ。
「ヤーツェク、あの男運んだってくれ。あの図体は僕じゃよう運べやん」
「ああ、構わないが……本当に良いのか?」
未だ状況について行けていない彼は、大きい身体を屈めて小声でアロイスに聞いてきた。
しかしアロイスはそのままのトーンで、周りの連中に聞こえるように返した。
「ほら、見てみい。あの兄さん、アジェンダ人や。心配いらん。それより、こんなに騒いでオプシルナーヤの兵に見つかるといかんでな、さっさと行くで」
彼がそう言うと、野次馬たちはヤーツェクが向かうよりも先に倒れた男を担ぎ上げた。ヤーツェクは半信半疑でありながらも、野次馬たちを先導しに行く。
「ほら、君も行くで」
「あの……本当にありがとうございます」
彼女は男が運ばれていくのを呆然と眺めながら、何度もアロイスに感謝した。
それはこっちの台詞やけどな。
アロイスは前を歩きながら、口元に薄く笑みを浮かべた。




