3-6.五年前①
薄暗い森の中を、二人は死にものぐるいで走っていた。
いや、ブランカはヴォルフに引っ張られるままに必死に足を動かしていた。
ここが一体どこで今が一体いつなのか分からないし、この森を抜けたところで彼らの安全が守られる場所などどこにもないのかもしれない。
ただ分かっていることと言えば、彼らが西へ向かっているということと、朝日が昇って間もないということ。
そして彼らが追われているということだ。
追っ手の気配はまだ近くにはないが、オプシルナーヤ軍の一部隊がこの森に入るのを、つい先ほど高台から目撃した。もしかすると先発隊もいるかもしれない。
もはや一刻の猶予も与えられていない。
倒れた木々を飛び越え岩を登り、ぬかるみにはまりながらも二人は無心に走り続ける。
限界などとっくに過ぎていた。
地面から剥き出す木の根を超えようとしたとき、ヴォルフの片手がガクリと下がった。ブランカが足を十分に上げられないまま、地面に倒れ込んでしまっていた。
「ごめん……なさいっ!」
「いいから早く立て! グズグズするな!」
「今すぐに……!」
ヴォルフは腕を引いて無理矢理ブランカを立たせようとする。しかし膝まで浮いたところで彼女の身体は再び崩れ落ちた。地面に突っ張った腕も震えていて、明らかに力が入っていない。息切れも相当ひどい。
ヴォルフは大きく舌打ちをすると、ブランカの身体を右肩に担ぎ上げた。
「えっヴォルフ!? 待っ――」
「騒ぐな。大人しくしていろ」
「でも……っ」
「いいから黙ってろ!」
ヴォルフは再び走り出した。
状況は更に厳しくなったが、ブランカがここまで付いて来られただけでも奇跡と言えよう。
彼女は昨夜の時点で既にひどい有様だった。露出した肌は擦り傷と打撲だらけで、歩くのもやっとだった。
その上、列車から飛び降りた。爆風に煽られ地面を転がった衝撃で、ブランカの手足は、もはや地の色が分からないほど青黒く変わっていた。
まともに走れるわけがなかった――というのは、ブランカに限った話ではないが。
「ヴォルフ! 下ろして! わたし、まだ走れます!」
「うるさい! 怪我人は大人しくしとけ!」
「あなたの方が重傷です!」
尚も抗議の声を上げるブランカに、ヴォルフは「うるさい」と声にならない声で言う。
実際ヴォルフもかなりきつかった。
ブランカを担いでいない左肩から、赤い血が流れていた。列車で撃たれた箇所だ。
一度止血はしたものの、布は既に真っ赤に染まっている。飛び降りた際の傷だけならまだしも、刺すような痛みに意識が揺らいだ。
案の定、ヴォルフの注意は散漫だった。追っ手ばかりを気にし、足元への意識が疎かになっていた。
落ち葉の厚く積もった地に足を下ろした瞬間、足場が崩れた。急な斜面に足を掬われ、ヴォルフはブランカを抱え直しながら滑り落ちる。小石や岩肌が背中を打ちつけた。
やがて前方の大木に叩きつけられ、地面に転がる。その上にブランカが覆いかぶさった。
すぐに立たねばならないのに、積み重なった痛みが二人の動きを鈍らせた。
「……川が近くなった」ヴォルフの上で、身じろぎしながらブランカが言った。
「それがどうした」ヴォルフはさして興味もなさそうに返した。
確かにすぐ近くから、川の流れる音が響いている。それだけのことだ。
ヴォルフは起き上がると、何か言いたげな様子のブランカを再び右肩に担ぎ上げた。怪我をしていない方とはいえ、肩に掛かる比重に左側の痛みが更に増す。ヴォルフは全身の力を奮い立たせながら、再び足を踏み出した。
しかしそのとき。
人の声が聞こえてきた。
よく耳を澄まさないと分からないほど微かな音量で、話している内容も全く聞こえない。まだ十分に遠くにいるようだが、今の状態ではすぐにその距離を詰められてしまうだろう。
どうする?
逡巡しながらヴォルフがもう一歩踏み出したとき、ブランカが彼の肩を叩いた。振り向くと、彼女は川の方を指差していた。
「だから川が何なんだよ。いい加減にしろよ。ふざけてんのか?」
「違う……あそこ」ブランカは自信なさそうに言った。「隠れられないかしら」
ヴォルフはブランカの示す方をじっと見た。わずかに逡巡する。
しかし背後の気配がそれを許さなかった。ヴォルフは考えるよりも先に足を動かした。
数十メートル先の滝の傍で、ヴォルフはブランカを降ろし、慎重かつ急いで岩を下った。中流付近まで降りると、岩の重なりにできた空洞へ身を潜める。人二人が辛うじて動ける広さだった。傾斜の陰に隠れ、草木に覆われているため、注意して見なければ気づきにくい。身を隠すには十分だった。
ブランカを奥に押し込み、少しでも入り口から距離を取る。いよいよ人の話し声が鮮明に聞こえてきた。
「つーか爆発事故の後でこんなところまで逃げて来れるものなのかね?」
「実際難しいと思う。件の女の子も元々怪我人だったらしいし、誘拐したって言うアジェンダ人も銃で撃たれているらしい。何処かで焼け死んでいる可能性だって十分にあり得る」
近づいてきたのはヘルデンズ語を話す二人組だ。
地元の警察か、オプシルナーヤ軍に入れられたヘルデンズ人か? いずれにせよ油断は出来ない。
話し声と足音は、徐々に大きくなってきた。
「アジェンダなんてまだ存在していたんだな。滅んだものだと思っていたよ」
「お前が知らないだけだろ。北の方に行けば結構うじゃうじゃいるぜ」
「マジかよ。本当にゴミみたいな連中だな」
当然のようにアジェンダ人を罵る言葉に、ヴォルフは息を飲む。
こんな風に言われるのは珍しいことではないが、まさかこの時代においてもヘルデンズ人の口からそんな言葉が出てくるとは思いもしなかった。あの恐ろしいアジェンダ狩りを肯定する輩が、今も尚この国には多く残っているのか?
「そんなゴミみたいな奴に、しかもブラッドローなんかにせっかく再会した一人娘を攫われるなんて、アメルハウザー大佐もお気の毒だよな」
ヴォルフはちらりと隣を盗み見た。
泥や煤で汚れているが、ブランカの顔が蒼白になっているのはすぐに見て取れた。小さく縮こませた身体が小刻みに震えていて、今にも物音が立ちそうだった。
「おい、じっとしろ」
ヴォルフが小声で窘めるが、ブランカの震えは一向に止まる気配を見せない。
男達の声がすぐそこまで近づいてきた。
ヴォルフは口の中で小さく舌打ちをすると、彼女の体を引き寄せきつく自身へと押さえ込み、震えを無理矢理抑え付ける。
「あーあ。大佐の娘が一緒じゃなけけりぁ、この森も燃やしてしまえるのにな」
「何だよそれ。大佐がダールベルクの孫を焼き殺したことを言っているのか?」
「ああ、まあな。そのときも、もしかするとこんな感じだったのかなと思ってさ」
軽い調子で二人がケラケラ笑い飛ばすごとに、ブランカはぎゅっと身を固くした。震えが更に大きくなっているのが伝わってくる。
いい気味、なのかもしれない。
こんな風に五年前のことを揶揄され、昔を彷彿とさせるような言葉に恐れおののいて。散々アジェンダ人を虐げ駆逐しようとしたあの男の孫が――復讐したくて堪らなかった仇が、こうして目の前で恐怖の淵に落とされている。
しかし、胸がすくどころか、ざらついた。左肩の傷が、余計に痛む。
「ま、アジェンダ一匹捕らえるために森を燃やすのもバカみたいだけどな」
「ハッハ。言えてる」
二人はそのまま通り過ぎ、更に先の道へと歩いていく。次第に声と足音は遠ざかり、しばらくして二人の声は聞こえなくなった。
他に足音や話し声は聞こえない。
「行ったか……?」
ヴォルフはそっとブランカの身体を離し、慎重に空洞の入り口から外に出た。岩場の陰から辺りの様子を伺うが、人の気配はどこにも感じられなかった。
しかしすぐに動くことは危険だ。他の隊員がまだ近くをうろついている可能性も十分にあるし、二人とも逃げ切る体力は残っていない。
しばらくここで身体を休ませた方が良いだろう。
ヴォルフがそう結論づけて空洞に戻ろうとしたとき、ビリッと布が破れる音がした。
ぎょっとしてそちらへ目を向ければ、ブランカがスカートの裾を引き裂いて、破れた布を片手に白いハンカチを川に浸していた。
「おい、何している。隠れてろよ!」
「でも止血しないと……死んでしまいます」
「死なねえよ! おい、待て!」
一体その身体のどこにそんな力があるのか、ブランカはヴォルフの身体を引っ張り空洞に押し入れると、勢いよく彼の服を剥ぎ取った。
左肩の銃創を映す深緑色の瞳が、悲しげに大きく揺れた。
「ごめんなさい……勝手にハンカチ、借ります」
血で汚れたそこへ、ブランカは濡らしたハンカチを当てた。水の冷たさが傷口にひどく浸みて、ヴォルフは喉の奥で唸った。
「ごめんなさい。浸みますか?」
「いい。気にすんな。続けろ」
ブランカは不安そうにヴォルフを伺いながら、慎重に傷口を拭っていく。その手つきはぎこちなく、正直ヴォルフが自分でやった方が早いのではないかと思えるほどだ。
しかし、彼を気遣うかのような手つきを、ヴォルフは振り払うことが出来なかった。
これが……クラウディア・ダールベルク。
昨夜彼女の正体が明らかになってからというもの、事態があまりに急変しすぎたせいで、落ち着いてその事実を考えている間もなかった。
こいつは今、一体何を考えているんだ?
プラチナブロンドの髪に薄萌葱色の瞳の少女を頭に浮かべながら、ヴォルフはまじまじと目の前の少女を観察する。
彼女は、色素の沈着した深緑色の瞳にヴォルフの銃創を焼き付けながら、ぽつりと言った。
「あの……ありがとうございます。助けていただいて……」
その声があまりにか細く、またヴォルフがあまりに穿った目で彼女を見ていたため、彼女が何を言ったのか、ヴォルフは理解するのに少々時間が掛かってしまった。
ヴォルフはブランカから顔を背けた。「別に。俺もこれが任務だからやっているだけだ」
「任務……」
呆然と復唱する彼女に、よく分からない苛立ちが無性に湧いてくる。
ヴォルフは荒々しくため息を吐きながら、付け加えた。
「昨日言わなかったか? お前はブラッドローにとって重要な人物なんだ。そのために俺たちはフラウジュペイに来てずっと探していた。やっと見つけたっていうのに攫われるから、こうして連れ戻しに来たんだ」
ただそれだけだ。
ヴォルフは一気にまくし立てた。どこか言い訳めいた言い方になって、左肩が余計に痛んだ。
ブランカを見ると、彼女は伏し目がちに傷口を見つめていた。
「あの……その任務の目的は、もしかしてオプシルナーヤも同じですか?」
彼女の声は、僅かに震えていた。状況が状況なだけに、流石に察したか。
ヴォルフが低く頷くと、ブランカは細めた瞳に落胆の色を映した。いや、絶望か? とにかく何の光も映していなかった。
ブランカは一通りヴォルフの傷口を拭い終わると、ちぎったスカートの裾を、ヴォルフの肩に巻き付けた。元々控えめな彼女の手つきは、一層弱々しく感じた。つい先程ヴォルフを空洞に押し込んでいた頼もしさは、今は欠片も見えなかった。
オプシルナーヤのことを聞いて彼女がこんな風に悲しみの色を露わにするのには、ヴォルフは心当たりがあった。
「ギュンター・アメルハウザーは、お前の父親なのか?」
僅かな逡巡の後、ヴォルフは尋ねた。
列車の中でオプシルナーヤ兵がそんなことを話していた。さっき通っていったヘルデンズ人も。
それは彼女がクラウディア・ダールベルクであることを隠すための方便だとヴォルフは考えていたが、どうにも今の様子を見ると、嘘ではない気がしてきた。
ブランカはヴォルフの肩を見つめたまま、小さく頷いた。




