1-1.ヴォルフ
大通りを行き交う色とりどりの車に無遠慮なクラクション。歩道を我が物顔で歩く沢山の人たち。洒落た身なりの人もいれば、身体に合わないコートを着た者、そのポケットから財布を抜き取る子供たち。色々いるが、少なくとも彼らの多くは恐怖に怯えてはいない。今日みたいな春の天気と同じく、穏やかで平和な日常だ。
ヴォルフ・ノールは八階建てビルの屋上から、街の様子を眺めていた。
「おお、こんなところにいたのか」ブロンソン少佐がやって来た。「合同演習ご苦労だったな。どうだった?」
ヴォルフは口角を持ち上げる。「上々だったと思いますよ」
「ふん、お前の隊はよくまとまってたって聞いているぞ」ブロンソン少佐は胸ポケットからタバコを出し、火をつけた。「とりあえずは遠征第一弾は終了だな」
少佐は新たに一本タバコをヴォルフに勧めた。ヴォルフはもらったタバコをゆっくり吸って景色を堪能した。
ここはフラウジュペイ共和国。首都のこの街には、川が街の中央を流れ、橋がいくつも架かっている。遠くには尖塔の影が空に伸びていた。
「この景色は本当に最高だな。毎日見ているが全く飽きない」ブロンソン少佐はタバコの煙と一緒にため息をついた。
俺も同じように素直に感動できればいいんだが、とヴォルフは思う。
この街には、壊された跡がない。
それだけで、胸の奥に鈍いものが残る。
「本当に、こういう街が失われなくて良かったよ」
――戦争で。
少佐の言葉に、ヴォルフは心の中で付け足した。
「やけに思いつめた顔をしているな」少佐が笑う。「地元が気になるんだろう?」
ヴォルフは煙を吐いた。
「気にはなりますよ。けど、あの国はもう俺の故郷じゃない」
「意地張るなよ。五年前も同じことを言っていたぞ」
五年前。海の向こうへ渡ってから、すべてが変わった。
ヴォルフは肩をすくめる。
「そのうち慣れます」
「ヴォルフ!」背後から声が飛んだ。デーニッツだ。「飲みに行こうぜ。もちろん少佐のおごりで」
ブロンソン少佐は目をぐるりと回した。「仕方ないな」
三人はさっそく繁華街に繰り出し、雰囲気のいい店に入った。下手なフラウジュペイ語を話す連中に、店主も他の客も一瞬怪訝な顔を向けるが、彼らの着ている軍服を確認すると、あからさまに態度を軟化させた。
「個人的には軍服のままでこういう場所には来たくないが、ここではその方が面倒臭くないんだよな」とブロンソン少佐。
「案外軍服も悪くないですよ。ほら、あそこの女の子たちがちらちら見てる」デーニッツが鼻息を荒くした。
「おい、ブラッドローじゃ女に相手にされないからって、調子乗んなよ」ヴォルフはぐるりと目を回した。
店の中ほどのテーブルに着くと、周囲の視線が自然と集まってきた。
好奇心と、値踏みと、わずかな敬意。
軍服がそれらをまとめて引き寄せているのが、嫌でも分かる。
「皆さん、フラウジュペイの美味しいワインはお上がりになった?」
離れた席にいたフラウジュペイ女性の一人がヴォルフたちの隣の席に着き、話しかけてきた。
ブロンソン少佐はデーニッツに答えさせようとするが、悲しいかな、デーニッツはブラッドロー語以外の言語はてんで使い物にならない。
代わりにヴォルフが下手くそなフラウジュペイ語で答えた。「俺たち、まだ来たばかりで」
「せっかくですもの。お近付きの印にあたしたちがご馳走様しますわ」
女性は席を寄せて店の上等品らしいワインをヴォルフたちに振る舞った。デーニッツがポカンと口を開けて見惚れるので、ヴォルフはテーブルの下で彼の脛を蹴った。
「美人なお嬢さんに同席してもらえて俺たちは運がいい」ブロンソン少佐がグラスを傾けてカタコトのフラウジュペイ語で言う。
「あら、あたしも同じですわ。皆さん素敵ですもの。でも本音を言うと、ブラッドローの方々とお近付きになりたかったんです」彼女は茶目っけ溢れる目でヴォルフたちへ目配せした。「こちらにはいつまでいらっしゃるんです?」
「まぁ……しばらく」ヴォルフは、さりげなく距離を離して答えた。「こいつに観光案内してやってくれませんか?」そう言ってデーニッツの肩を叩いた。
女性はデーニッツを見て、にっこり微笑んだ。
デーニッツは意味を分かっていないながら、両手を合わせてヴォルフに感謝した。
デーニッツが手洗いに席を立ち、少佐が一服しに外に行くと、女性はヴォルフに身を寄せてきた。上目遣いで見上げてくる。
「あなたもどうですか? 私はあなたの方がタイプ」
「タイプ?」
その言葉がヴォルフの中で引っかかった。思わず返した反応に皮肉が滲み出てしまったので、ヴォルフは表情を作り直した。「本当に思ってます?」
こういうことはブラッドローでは珍しくない。
しかし――。
鳶色の髪と薄鳶色の瞳、彫りの深い目鼻立ち。ヴォルフの見た目は、このあたりの国では意味が変わる。
実際にフラウジュペイ軍との軍事演習の際には奇妙な目で見られたし、酒場に来るまでも同様だった。
ヴォルフの戸惑いを察したらしい。女性は妖艶な笑みを浮かべた。
「ええ、本当にタイプ」女性は顔を寄せて続けた。「それにあなた、ブラッドロー人なんでしょう? あたしは元々そんなの気にしないけど、尚更問題ないわ」
ブラッドロー人だから問題ない?
そんな理屈なのか?
むくむくと違和感が込み上げる。
「ヴォルフ、何の話をしてるんだ?」
手洗いからデーニッツが帰ってきた。なんとなく空気が張り詰めていることに、ぽかんとしている。
ヴォルフは思わずブロンソン少佐を見た。タバコを吸い終えて帰ってきた少佐は、事情を察しているらしい。
少佐はにこやかな笑顔を作った。「しかしお前はどこに行ってもモテるなぁ。デーニッツ、お前も――」
「おい、ここにヘルデンズがいる!」
突然店の端から声が上がった。
店内の全員がそちらを向いた。声を上げた人の前に、椅子から投げ出された男性がいた。
叫んだ人が、男性が座っていた席から手帳を取り上げ他の人に見えるように振り回した。「これ見ろよ、ヘルデンズ語だ!」
「やだ、何でヘルデンズがいるの?」他の客が囁く。
「あんなやつがいたなんて、メシが不味くなる」
「ここから出ていけよ」
ある人は鼻をつまみ、ある人は男性を憎悪の眼差しで睨みつける。中には物を投げたくてうずうずしている人もいた。店内が一気に憎悪に包まれた。
「ヘルデンズ語で読み書きするくらい良いじゃないか」
男性は床から立ち上がり、綺麗なフラウジュペイ語で抗議した。白髪混じりの男性は、害あるようには見えない。彼は手帳を奪い返すが、それに腹を立てた男が彼を殴った。
ヴォルフは思わず席を立ちかけたが、横から強い力で止められた。ブロンソン少佐だ。彼は首を横に振った。
やがて男性は店主に連れ出され、勘定を払って店を出ていった。代わりに険悪な空気が店に残った。
「ヘルデンズですって。何でフラウジュペイにいるのかしら」
「ほんと不愉快。さっさとお国に戻って欲しいわよね」
ヴォルフらの席にいた女性が、汚いものを見たような顔で愚痴をこぼした。状況を理解したデーニッツも、言葉を失っていた。
ヘルデンズ――と聞いて顔色を変えない者は、ここではほとんどいない。
あの戦争を広げた国だ。
踏み躙られた側にとっては、今もなお許しがたい存在だ。
「ああいうこと、今でもよくあるんですか?」少佐が女性に尋ねる。
「フラウジュペイが解放された直後はあったけれど、ここ数年はあんまりなかったですね」女性は鼻に皺を寄せた。「見たくもないわ、ヘルデンズなんて」
すると、先ほどヘルデンズ人と思しき男性が座っていたあたりが再びざわついた。
「おい、これクラウディア・ダールベルクじゃないか?」
ヴォルフとブロンソン少佐とデーニッツは、互いに目を見合わせた。
少佐とヴォルフは騒ぎの中心に向かった。
「なんで今更こんなの見なきゃならないんだ」近くにいた客が目を塞いだ。
「こいつ、俺らが苦しんでるときに、こんなへらへら笑ってたのか」
「さっきのヤツだろ、これ持ってたの。いくらヘルデンズでもこんなの持ってるとか、余計怪しいだろ」
先ほどの男性が座っていたあたりの床に、一枚の写真が落ちていた。
まだ世の中的に珍しいカラー式写真に写るのは、淡いピンクや黄色の花に囲まれて座るひとりの幼い少女。
花冠を乗せた清らかなプラチナブロンドの髪に、子供ならではの丸みを帯びた艶やかな白い肌。頬は上気してほんのり赤くなっている。カメラではない別の一点に向かって朗らかに笑う姿は、まるで無垢で清廉潔白な花の妖精のようだ。
印象深い神秘的な薄萌葱色の瞳から、ヴォルフは目を外せなかった。灰色の空の絶望が、脳裏によみがえる――。
「こんなの早く処分しろよ!」苛立った客が声を荒げた。
「あぁ、待ってください」ブロンソン少佐が割って入った。「処分するならこの写真、私がもらって良いですか?」
「何言ってるんですか?」近くにいた人がびっくりして目を剥いた。「クラウディア・ダールベルクですよ? いくらブラッドローの軍人さんだからってそんな……」
「私の知り合いが、先の戦争の記録をまとめていてね」少佐はカタコトながら簡単なフラウジュペイ語で声量を大きくして言った。「皆さんが忘れたいのも分かるが、負の歴史は後世に伝えなきゃならない」少佐は床から写真を拾い、上着の内ポケットに入れた。「悪の歴史もね」
さっきまで好意的だった店の客が、奇妙な目でブロンソン少佐を見つめる。モノ好きなブラッドロー人と見たらいいのか、どう判断したらいいのか分からない様子で、居心地の悪い空気が満ちている。
ブロンソン少佐はやれやれと肩をすくめた。
「さて、タバコが切れてしまったから、俺はこのままホテルに戻るよ」少佐は席に戻り、いくらか金を置いて残りの面々にお辞儀した。「じゃあ、あとは若いの同士でゆっくり楽しめよ」少佐は店を出て行った。
それでも変な空気が漂う中、デーニッツが軽い調子で手を叩いた。
「ボスが帰ってくれて、ようやくくつろげる。で、何の話してたっけ」デーニッツはヴォルフに尋ねる。
「悪いが俺もそろそろ帰るよ」ヴォルフは席を立った。ブラッドロー語でデーニッツに向けて言った後、フラウジュペイ語で女性にも言った。「明日、旧友に会いに田舎に行くので、朝早いんです」
春先のひんやりした夜気で頭を冷やしたかったが、飲み屋街を通っている間はそうもいかないらしい。
すれ違う人たちは皆、ヴォルフの鳶色の髪と彫りの深い顔立ちを見て顔をしかめるか、憐れみの表情を浮かべ、首から下を見て好意的な笑顔を作った。果たして軍服を着ていなかったらどんな反応を見せられることか。
店で覚えた違和感が、自分の中で膨らむ。ヴォルフは目を閉じて気を落ち着けようとした。
しかし瞼の裏に見えるのは、どこかも分からない何もない辺鄙な土地に現れた少女。驚愕に満ちた薄萌葱色の瞳を大きく見開き、こちらを指差している――。
「なんだ、お前も引き上げてきたのか?」
いつの間にか宿舎まで帰ってきていたようだ。建屋の前でタバコを吸っているブロンソン少佐が声をかけてきた。
「明日早いんでね」
「ああ、郊外の方へ行くんだっけか」少佐は新しいタバコをヴォルフに差し出した。「お前も吸うか?」
ヴォルフはタバコを受け取り、並んで吸った。
「まったく、刺激の多い夜だったな」
「別の刺激だったら良かったんですがね」ヴォルフは肩をすくめた。
「だったらあのままあの子と楽しめば良かったのに」少佐は呆れたように笑った。「お前が彼女を好かなかったのは分かるが」
まったく。ブロンソン少佐には何もかもお見通しのようだ。ヴォルフはため息と共に煙を吐いた。
「しかしおかげで収穫もあった」少佐は自分の胸元をトントンと叩いた。そこにはさっきの写真が入っている。
ヴォルフは眉間に皺がよるのを抑えられなかった。
クラウディア・ダールベルク。
フィンベリー大陸戦争を引き起こしたヘルデンズの統治者の孫――要するに大戦犯の孫だ。
「しかし年端もいかない少女相手に、想像以上に手荒い反応だったな。巷で言われる評判は本当なのかね?」少佐は胸ポケットの写真を取り出し、しげしげと眺めた。「この写真からは想像できないな」
無理もない。戦争が終わったとき、クラウディア・ダールベルクは十歳か十一歳の子供だった。ましてやあの妖精のような見た目だ。
「俺はこの目で見ました」あの妖精が悪魔になった瞬間を。
ヴォルフは写真から目を逸らし、それ以上は何も言わなかった。皆まで言わずとも、少佐なら理解してくれる。
案の定、ブロンソン少佐は励ますようにヴォルフの背中を叩いた。
「しかし、これだけ悪評叩かれてる中、フラウジュペイで見つかるもんかねぇ」
「まさか本当に生きてると思いますか?」
「なんだお前、疑っていたのか?」
「だって五年前にアメルハウザーが森で焼き殺したんでしょう? それで生き残ってどこかで生活しているなんて――しぶとくて図太いことだ」声に憎しみが乗ってしまうのは止めようもない。
「だが任務だ。やるしかない」少佐は上官らしくヴォルフを厳しい目で見た。「万が一見つけたときは、頼むから冷静でいてくれよ」
部下のことをよく知る少佐は、ヴォルフが任務の対象にどんな感情を抱いているかもよく知っている。
感情に流されやすいのは軍人として失格だ。そう見られていることに、ヴォルフは深々と自分自身に嘆息した。
「善処しますよ」
しかし、いざというときに自分がどうなるかは全く予想できなかった。




