2-2.フィルマン
「聖神教歴一〇三五年、アルトロワの事件。マグナストウ支配下のフラウジュペイで、支配への反発が膨れ上がり、ついに商人たちが献上品の絹を川に流した――それがレティヤン五十年戦争の発端です」
「その通り。ではその戦争で、フラウジュペイはどこと手を結び、どこで勝利しました?」
教科書を伏せたまま答えると、家庭教師は両手を広げて感嘆した。
ブランカは肩をすくめた。もう十日も経つけれど、彼の大袈裟な身振りに慣れない。
すると扉をノックする音がした。
「カミーユ、ブランカ、勉強中のところ悪いね。これから外にお茶しに行かないか?」
入ってきたのは、フィルマン・ランベール。先日ブランカを引き取った男性だ。
仕立てのいい紺色のスーツ姿に、目鼻立ちの整った顔立ち。洗練された振る舞いは、首都ロゼの都会に溶け込んでいる。
「それはいい。ちょうどこちらもキリのいいところだったので、是非そうしましょう。ブランカ、行きましょう」
フィルマンの誘いに答えたのは、ブランカの家庭教師を務めるカミーユ・マルシャン。フィルマンのいとこらしく、広告業を経営しているフィルマンの補佐役も務めている。
三人は車に乗って、ロゼの中心部にあるデパートに向かった。
最上階の喫茶店に入ると、フィルマンは椅子を軽く引いて、ブランカを先に座らせた。
「ブランカ、疲れてないかな? 無理はしなくていいからね」注文を済ませて落ち着くと、フィルマンが尋ねてきた。
ブランカは曖昧に頷いた。「ありがとうございます」
ほどなくして、テーブルの上に大粒のフルーツの乗ったタルトが並べられた。この類のケーキを食べるのは、何年ぶりだろう。ダムブルクではあり得なかった。
贅沢への不安と罪悪感が、湧いてくる。
フィルマンはにっこり笑った。「遠慮しなくていいからね」
ブランカは上のフルーツを口に運んだ。口の中に広がる甘酸っぱさに、心がちくちくした。
わたし、何しているんだろう。
フィルマンに連れられてロゼに来たのは、作文の件でヴォルフやロマンたちと顔を合わせられなかったからだ。要するに単なる衝動。
けれどヴォルフはロマンを訪ねてきただけですぐに帰って行くし、ロマンたちにしたって今までと何も変わらない。正体が知られたわけではないのだから。
こうして時間が経ってみると、ものすごく自分勝手なことをしてしまった気がして、落ち着かない。その上、こんな贅沢をしているわけだし……。
でも――……。
目を上げると、興味深そうにこちらを眺めるフィルマンと目が合った。
「このケーキ、気に入らなかったかな?」彼は悲しそうに微笑んだ。
「とても美味しいです」ブランカは首を横に振った。「すみません、まだ慣れなくて……」
「ブランカはいつもこうなんですよ、フィルマン。遠慮しなくていいのに」カミーユが抑揚を付けて言った。
「そこがブランカのいいところだよね」フィルマンは顔を和らげた。「才能もあって作法も完璧なのに、まったく驕らない」
そう表現されると、余計に落ち着かなくなった。
反応に困り、ブランカはタルトを口に運ぶ。やっぱり背徳的な味がした。
「そういえばブランカ、児童施設に電話してみましたか?」カミーユが尋ねた。
ブランカは頷いた。「でも繋がりませんでした」
「また?」フィルマンは眉を上げた。「まったく、どうしようもないね、児童施設って」
ブランカは何も言えなかった。
衝動的にロゼに来てしまったことを、ロマンとレオナに謝りたかった。あの晩、ロマンもレオナもブランカのことを気遣ってくれていた。あの二人はいつもそう。けれど二人の親切を無視するように来てしまったから、せめて何か伝えたかった。……出来ればヴォルフにも。
しかし電話帳に載っている番号にかけても、交換手は繋げられませんの一点張りだった。何回か試したが、だめだった。
「私はときどき思うんだ。児童施設って善意の皮をかぶっただけの薄情な施設だと」
フィルマンはコーヒーカップを見ながら、鼻に皺を寄せた。
「才能のある子を働き潰す。ろくな食事も出さない。挙げ句の果てに弱い子に味方しない。とんでもないよ」
「そんなことは……」
「フィルマンが救って正解でした」カミーユが言葉を挟む。「ブランカは本当に優秀ですから、どこぞの田舎ではもったいない」
ブランカはゆるく首を振る。
二人がこうして児童施設やダムブルクを非難するたび、ブランカは言葉に困った。
そんなにひどいところではないと思うのだけれど……。
ダムブルクが貧しいのは、町のせいではない。ヘルデンズが――祖父マクシミリアン・ダールベルクが招いたことだ。ブランカはその中に図々しく紛れていたのだから、何も言えない。
でも、これで良かったのかもしれない。
クリームを口に入れながら、ブランカはそう思った。
ブランカは確かにダムブルクで浮いていた。児童施設の炊事洗濯も、畑仕事も、まったく役に立てなかった。ロマンとレオナと図書館館長はいつも優しかったけれど、本当は彼らもブランカの扱いに困っていたのかもしれない。
作文のラジオを聞いてから、ブランカは更に後ろ向きになっていた。
口の中のクリームが、味がなくなった。
「あの……」ブランカはフォークを置いて顔を上げた。
「何か手伝えることがあったら……その、私にも出来ることがあれば……」気が付いたら視線が下がっていた。
するとフィルマンがふふっと笑った。
顔を上げると、フィルマンがこちらを見ていた。
「君は本当に健気だね」頬杖をついて、少し考えるように目を細めた。「そうだなぁ、ブランカの字きれいだし」
「だめですよ、まずは勉強しないと」カミーユがいとこをたしなめる。
「そうだった。まぁ、そのうち何か手伝ってもらうかな」
フィルマンは目を細めた。
彼はにっこり笑みを深めて言った。
「そのうちね」
お茶を終え、デパートの下で車を待つ。すると周りから変な視線を向けられた。
ブランカは下を向いた。視界に淡いブルーのスカートが広がる。フィルマンに与えられた上質なワンピースだ。
きっと、わたしには似合わない。
ブランカは右手の赤いやけどを見た。このやけどは、右頬まで続いている。とてもみにくい。
でも……生きてきた証。
ブランカは、ふいにポケットからハンカチを出した。
角にWの刺繍の入った白いハンカチ。
『ブランカ』の白……。
「それ、ずっと持ってるね」フィルマンが声をかけた。「大事なの?」
ブランカはフィルマンを見上げた。彼は興味深そうにハンカチを見ている。
ブランカは曖昧に首を傾けた。
分からない。
けれど、返しそびれたまま、毎日持ち歩いている。
もう会えるわけではないのに――。
「ダールを見つけたぞ!!」
乱暴な声が、耳に飛び込んできた。
瞬間、ブランカは凍りつく。
恐る恐る、声のした方へ視線を向ける。
大きな通りを挟んだ向こう側で、若い男がアパートメントの中から出てきた。その男は、後ろに連れていた中年男性を乱暴に引きずり出し地面に放り出す。中年男性の周りを、表で待機していた若者達が囲い込み、男性に向かって一斉に何かを振り上げた。
ブランカは、身体を震わせた。
胸元をぎゅっと握りしめる。
「ほら、車が来たよ」
目と鼻の先で起きていることに構わず、フィルマンはブランカを車に乗せた。
デパートを出てしばらく経っても、ブランカは身を固くしていた。
「かわいそうに。怖かったね」
フィルマンは、膝でハンカチを握りしめるブランカの手に、そっと触れた。
ブランカは小さく首を振った。
「まったく迷惑なものですよ、ダール狩り」カミーユが運転席から言う。「西地区は特にひどいです」
西地区……?
ブランカは顔を上げた。
気が付いたフィルマンが説明を添えた。「カミーユの家は西地区なんだ」
「本来は閑静な住宅地なんですけどねぇ、ジルヴィア・ダールベルクが目撃されたとかで、マスコミとデモ隊がうようよしています」
カミーユはうんざりしたように言った。
ジルヴィア・ダールベルク。西地区。
急速に口が乾くのを感じた。
切実に運転席を見つめる。
「カミーユの心配をしてくれているのかい? 優しいね」フィルマンはブランカの肩を撫でた。「大丈夫。君のことも、僕が守ってあげるよ」
フィルマンもカミーユも、安心させるような笑顔を向けた。
けれども、わたしのことなんかどうでもいい。罰当たりにも、そう思った。
一番守ってほしい人は、今も行方不明だ。
ブランカは胸元に手を当てた。
ブローチのゴツゴツした感触は、ブランカを不安にさせるばかりだった。




