2-3.母①
お母さん、どこにいるの……?
ブランカはオーベルの毛並みを整えながら、思った。オーベルは、フィルマンが飼っている金色の毛並みの大型犬だ。人懐こくて、ブランカにも懐いてくれる。
ブランカはその温かい体温に寄り添いながら、脇に広げた十日前の新聞に視線を落とした。ジルヴィア・ダールベルクの目撃情報が掲載されている。
母は、五年前に死んだはずだった。
ブランカが森に逃げ込む前、母は首を絞められていた。その現場を見て固まる娘を見て、母は「逃げて」と口を動かした。それが、ブランカが母を見た最後だった。
母は、生きていた。
――いや、違う。
母に似た人が、ロゼで目撃されている。
本当にお母さんなのかしら……。
脳裏に、いつも庭いじりをしている母の姿が蘇る。春にはすみれやチューリップ、夏にはピンクと白の薔薇。母は花が大好きで、一年中庭には色んな花が咲いていた。その花園を、当時飼っていた犬と走り回るのが、ブランカは好きだった。
ブランカは知らずオーベルに抱きつく。
いつも優しく微笑みかけてくれる母。淡い金髪に、柔らかい薄萌葱色の瞳。とても素敵な母は、小さい頃のブランカの憧れだった。
ブランカは胸元の布袋を取り出した。薄萌葱色の封筒と花の装飾のついたゴールドのブローチをじっと見つめる。
お母さん……会いたい。
一目でも、姿を見られるなら。
「おや、すっかりブランカに懐いていますね」
カミーユが部屋に入ってきた。ブランカはオーベルの影で封筒とブローチをしまい、布袋を胸元に戻す。
そうしているうちに、カミーユがテーブルにティーセットを広げた。
「新聞ですか? 気になるニュースでもありましたか?」
「あ、えっと……」
カミーユはカップに紅茶を注ぎながら、ブランカの横に広げた新聞をちらりと見た。
すると、オーベルが新聞の上に座り込む。カミーユはやれやれと大袈裟に肩をすくめた。
「どの新聞も今は『ダール狩り』ばっかりですね、嫌になります」カミーユは他人事のように言った。
しかしその『ダール狩り』の記事を、ブランカは毎日確認していた。少しでも母に関する情報が載っていないか、知りたかった。
『ダール狩り』は、日に日に過激になっている。この十日間で捕まった人の数は、もう数え切れない域に達している。ほとんどが、一般のヘルデンズ人だった。その中には占領時の悪事に加担していない人もいるだろうに。
ブランカは、紅茶に口をつけた。胸の痛みは、紅茶の香りでは流れてくれない。
母の目撃情報も更新されないし。
西地区ワーズ街銀杏通り、というところまでは分かってはいるのだけれど――。
そこまで考えて、ブランカはカミーユを見上げた。
そういえばこの人の家も、西地区と言っていなかったかしら……。
「カミーユさんのお家は、西地区のどちらなんですか?」ブランカは少しだけ逡巡してから聞いてみた。
カミーユは片眉を上げると、すぐに愛想の良い笑みを浮かべた。
「私の住まいはワーズ街ですよ、今話題の。母とそこで住んでいます。帰り道はいつも通行止めに遭って、まぁ大変ですよ」
「そう、なんですね……その辺りは住宅街なんですか?」
「はい、落ち着いていて良いところだったのですがね」カミーユは眉根を寄せて首を横に振った。
ブランカは、オーベルが踏んでいる新聞に目を落とした。
――気になる。
そこに行ったとしても、母を見られるとは限らないけれど。
「行ってみますか?」
「え?」
ブランカは反射的に顔を上げた。
カミーユはくすりと笑った。
「実はうちの母にあなたを会わせてみたかったんです。オーベルの散歩も兼ねて出掛けましょう」
カミーユはオーベルの背中を撫でると、テーブルの上を片付け始めた。
ブランカは展開についていけなかった。
いいの? でも、あんなに『ダール狩り』のデモ隊を煩わしく言っていたのに。
けれどそんなことを言ったら、せっかくの機会が台無しだ。
ブランカは新聞をたたんで、出掛ける準備をした。
カミーユがティーセットを片付けに行っていると、電話が鳴った。
ブランカは少し悩んだ後、唾を飲んで受話器を取ってみた。ダムブルクからかもしれないし。
「はい、ランベールです」
小さい声で答えた。
相手はしばらく黙ったままだった。
何かお作法を間違えたかな。
ブランカが不安に飲まれそうになると、やがて答えが返ってきた。
「あ、えっと、カミーユは今いないんですか?」
聞こえてきたのは男の声だった。声のはりから、フィルマンやカミーユよりは若い印象を抱いた。
「カミーユさんは、今少し離れています……。すぐにお呼びしますね」ブランカはおどおどしながら答えた。
「はい、急ぎでお願いします。ニコラから、と言っていただければ分かるので」
言葉の端々から、少しだけ苛立った様子が伺えた。
受話器を電話台に置いてカミーユの方へ行こうとすると、呼びに行くまでもなく彼がリビングに戻ってきた。
「ご対応ありがとうございます。オーベルの準備、お願い出来ますか?」
カミーユはにっこり笑顔を浮かべて言ったが、なんとなく電話の会話をあまり聞かれたくなさそうな雰囲気でもあった。
ブランカは受話器を彼に渡すと、すぐにリビングを後にした。
十数分続いたカミーユの電話が終わると、二人はカミーユの車に乗って西地区へ向かった。
フィルマンの屋敷から西地区までは、車で十分もかからない。ここまでの道のりは比較的穏やかだ。中心街で何度も見た『ダール狩り』の喧騒も人の混雑も一切無く、ただ静かな住宅や店が並ぶだけだった。
――ワーズ街の銀杏通り。
もうすぐ母が目撃されたところに近付く。
ブランカは隣のオーベルに縋り付いて、窓の外を見た。
「私の実家のあたりは、同じ銀杏通りでも該当箇所からかなり離れているんです。だから、デモ隊の人もそんなにいないので安全ですよ」
しばらくすると、人の喧騒が聞こえ始めた。車道に出る人の数も増えてきて、交通規制されている道がいくつかあった。
ここがワーズ街。
カミーユは人が沢山いるところへは近寄らず、迂回して実家へと車を進ませた。一軒の家の前で、彼の車は停止した。
「ここが実家です。驚きでしょう? 同じ銀杏通りなのに」
カミーユは車の前方を指差した。
米粒ほどに見えるずっと先に、人だまりが出来ていた。何かを掲げているところ見る限り、デモ隊に違いなかった。おそらくそこで母が目撃されたのだろう。
「……彼らはあそこで何をしてるのですか? あそこで張っていても意味がないように思えるのですが……」
「おそらく一軒一軒見て回っているのでしょう。ここには沢山住宅がありますからね」カミーユはさらりと答えた。
こんな何もないようなところに、お母さんが……。
その姿は見えなくとも、ここを母が通っていたと思うと、なんだか感慨深く感じられた。
カミーユが玄関のベルを鳴らすと、老年の女の人が出てきた。「あら、カミーユ。どうしたのいきなり来て」
「彼女をお母さんに会わせたかったんです」
カミーユの母はブランカを見ると、眉を顰めた。ブランカのくすんだ白っぽい髪と右頬の火傷に、明らかに不審を抱いているようだった。
「あぁ、フィルマンのところで預かっている子ですよ」
「ブランカ、と言います」ブランカは俯きがちに挨拶した。
「彼女、とても優秀な子なんです。今日はオーベルの散歩も兼ねて連れてきました」
オーベルは嬉しそうにカミーユの母に飛びつく。
彼女は、まぁと眉を和らげた。
「そう、フィルマンが。あの子は優しいからね。それであなた、その髪と顔はどうしたの?」カミーユの母は、気遣うようにブランカを見た。
「お母さん、その質問は野暮というものですよ。むしろ気になるのでしたら、この火傷と髪が目立たぬようなお化粧を、彼女に施してやってくれませんか?」
「あら、それはいいわね!」彼女は嬉しそうに手を叩いた。「息子ばかりだったから、そういうのしてみたかったのよ!」
ブランカは、またも展開についていけなかった。
カミーユがブランカの方へ向き直った。
「ブランカ。すみませんが、私は一旦会社に仕事道具を取りに行かねばなりません。少し、こちらで待っていただけますか?」
「大丈夫よ! ここなら退屈させないわ。さぁブランカさん、いらっしゃい」
カミーユの母はブランカを引っ張り、リビングに案内した。オーベルが尻尾を振ってブランカについてくる。
カミーユの母は早速化粧道具をリビングのテーブルに広げると、とても嬉しそうにブランカに化粧をした。
どうしてこんなことになったのかしら……。
この状況を振り返ろうとすると、カミーユの母はぽつりと言った。
「でも不思議ね。あなたとどこかで会っているような気がするの」
ブランカは息を飲んだ。
しかし、そのことについていくら追求しようとしても、「覚えていないの」とはぐらかされるばかりだった。
暗く、じめっとした部屋の中。
明かりは天井から吊される、淡いオレンジ色の蛍光灯のみ。
そこに、『オーベル』はいた。
鎖で首を繋がれ、与えられた寝床に座り込んでいるその犬は、名前にふさわしくゴールドの毛と、美しい瞳を持っていた。
しかしその美しい瞳は、同時に虚ろでもあった。
口を半開きにして、ただ餌が来るのを待っていた。
飼い主は、その犬に唾を吐きかけた。
「ここまで来ると流石に興醒めだ。見るのも耐え難い」
「ええ、同感です。従順を通り越して、完全にいかれています。そろそろ潮時でしょう」
部屋にいたもう別の人物がそれに答えた。
犬を眺める二人の視線は、とても冷ややかだ。
すると、更に別の人物が時計を確認しながら言った。「しかしまた逃げ出すといけない。知り合いを呼んだので、早いところ処分してしまいましょう」
「ああ、そうしよう。これ以上ここを汚されても敵わないしな」
飼い主が頷けば、他の二人は部屋から出て別の用事をしに行った。
飼い主も同様に部屋を退室しようとするが、後ろに引っ張られる力に止められる。犬が飼い主の服の裾を掴んでいたのだ。
飼い主はしゃがんで犬の頭を撫でながら、低い声で囁いた。
「お前には十分楽しませてもらったよ」
甘く、そして冷たく吐き捨てると、飼い主はその犬を床に突き飛ばした。飼い主は部屋を立ち去った。
犬は虚ろな目で、弱々しく手を伸ばした。
その先には、忘れな草が枯れて落ちていた。




