1-11.八歳の作文
「ヴォルフさんて、いい人だね」
レオナがアイロンを掛けながら言う。
アイロン台の横には、ヴォルフの服が畳んで置いてある。車の修理で汚れたシャツを、お礼代わりに洗うと言って受け取ってきたのだ。
……結局うまくできなくて、レオナに頼ったのだけれど。
「はい、これ。できたよ」
レオナがハンカチを渡した。
角にWの刺繍が入った白いハンカチ。
しみはきれいに取れて、しわもない。
『ブランカ』の白――。
「いいね、あんた」レオナが身を寄せてきた。「すっごくいい顔してる」
レオナはブランカの右頬を指先でつついた。
そのくすぐったさが、なんだか心地良かった。
「ヴォルフさんのこと、気になるんでしょ」
ブランカは曖昧に頷いた。「……うん」
レオナは嬉しそうにブランカごと身体を揺らした。
実際、ブランカはふわふわした気分だった。
あんなひと、はじめてで……。
当たり前にブランカに触れて接してくれる人。このくすんだ白混じりの金髪を、何度も褒めてくれた。
ブランカは右手に視線を落とす。
生きてきた証……。
昨日も今日も何でもないようにやってきて、まっすぐな言葉をくれる。そのまっすぐさで、ブランカがヘルデンズ人であることも気にしないで、ブローチを探してくれた。
本当にあんなひと、はじめて。
ふと隣を見ると、レオナがにこにこしていた。
ブランカはなんだか恥ずかしくなって、俯いた。
レオナは盛大に笑った。
「あんたのそんな顔が見られるなんて」そう言って、目尻をぬぐう。
レオナはアイロン台の横からヴォルフの服を取ると、ブランカの手に持たせた。
「ほら、届けに行くんでしょ。行っておいで」
ブランカはレオナを見上げて、ぎゅっとヴォルフの服を抱き抱えた。
ラジオから、ゆったりとしたフラウジュペイ歌謡曲が流れている。スローテンポのジャズピアノに合わせたそれは、聴くものを心地良くさせた。
歌のリズムに合わせて、ヴォルフはグラスの中の氷を転がした。
「二日間、あっという間だったね。どうだった?」
向かいで、ロマンが自分のグラスに氷とウイスキーを注ぐ。
二人は館長の家で、くつろいでいた。館長は近所に飲みに行っている。
ヴォルフはテーブルに散らばったままの燻製肉に手を伸ばした。
「楽しかった。最初はアジェンダだのブラッドローだのめんどくさかったけど、いい町だな」
「そう言ってもらえてよかった。みんな、君のこと好きになったはずだから」
「大袈裟だな」ヴォルフはグラスに口を付けた。
「そうでもないよ。あの問題児らもそうだし、あの子も――」
ロマンは自分のグラスを見ながら言った。
ヴォルフは肩をすくめてとぼけようと思ったが、聞きたいことがあってやめた。
「なぁお前、何でブランカのことほっとくんだ?」
ロマンは顔を上げてヴォルフを見る。
ヴォルフは眉を顰めた。
「この二日で色々巻き込まれてるの見たぞ。お前、ああいうほっとかないだろ?」
確かにブランカには人に言えない事情があるし、それで彼女自身が距離を取ってるのも分かる。
だとしても、放っておく理由にはならない。
ロマンは眉根を寄せた。
「放っているつもりはないんだけど、そっか。また絡まれてたのか……」
ロマンの口ぶりは、どこか言い訳めいていた。
やっぱりロマンらしくない。
ヴォルフがじっと見ていると、ロマンはグラスを見て力無く笑った。
「正直、君が来てくれて良かったよ。なかなかあの子、本心を見せないから」
聞きながら、ヴォルフは白いおかっぱ頭を思い出した。
ヴォルフが見たブランカは、必死に無表情を取り繕おうとしている、健気な泣き虫だった。泣き虫なのは仕方ないか、彼女の事情なら。
それでも汚れたシャツを洗うと言って聞かなかった様子を思い出すと、何か身体がむずむずした。あんなに距離を取ろうとしてたのに。
煙たがられるような悪い子には全く思えないんだが――。
「ブランカのこと、気になるの?」
ロマンがずばり聞いてきた。
ヴォルフはウイスキーを吹いた。
「何言ってんだよ。まだ十六の子供だろ?」ロマンを横目に睨む。
「まぁね」ロマンは肩をすくめた。「十六の、年頃の、女の子」
「本気かよ……」
ヴォルフはグラスで顔を隠した。
ブランカのことが気になるのは確かだが。
「君になら、あの子は心を許すと思うんだ。君も深く理解してやれると思うし。大人しいけど、ものすごくいい子だよ」
そう言うロマンを、ヴォルフはグラス越しに観察した。ここまで分かっていながら、何でこいつではダメなんだろう。感慨深そう歪めるロマンの横顔に、ヴォルフは首を傾げた。
「まぁ、また来てよ。きっとブランカも喜ぶ」
ロマンは柔和な顔で、全てを隠した。
ヴォルフもそれ以上は追及しなかった。
小さく息を吐いて、ウイスキーを口に含む。沈黙が二人の間に落ちた。
すると、ラジオの歌謡曲番組が終わり、ニュースが流れ始める。
『――先日、ヘルデンズの中部にあるダールベルク元総統の別荘が新たに発見された件において、オプシルナーヤ軍の調査委員会は別荘内の物品を数点、公開しました』
早速提起されたトピックに、ヴォルフはため息を吐いた。そんな情報、明日の朝刊で遅くない。わざわざ雰囲気をぶち壊すようなラジオ放送に、ヴォルフは立ち上がった。局を変えようとする。
しかし、ニュースが告げた次の一言に、ヴォルフの手が止まった。
『公開した物品の中には、ダールベルク元総統の孫、クラウディア・ダールベルクが八歳の時に書いたと思われる作文がありました。その内容を、一部始終ご紹介いたします』
ラジオの向こう側のアナウンサーは、淡々と原稿を読み上げる。
『わたしのおじいちゃんはヘルデンズ帝国の一番えらい人で、世界を今よりももっとよくするために、毎日一生けんめいはたらいています』
最初の一文に、虫唾が走った。
嫌な悪寒が背中を駆け抜ける。
まだこれは、始まりに過ぎない。
『おじいちゃんがいつも言っていることがあります。それは、わたしたちヘルデンズ人が、世界で一番とうとい民族だということです。めずらしい発明品を作るのも、新しい発見をするのも、いつもヘルデンズ人です。だから、世界のリーダーになるべきなのは、このヘルデンズ国です。おじいちゃんはそれを世界中に認めさせるのが夢だそうです』
戦争が始まる前、世界をリードしていたのはヘルデンズだった。ヘルデンズの並外れた技術革命は、世界に明るい希望をもたらしていたのは確かだ。
いつしかそれを驕った政治家たちは、「ヘルデンズは英雄なのだ」と、至るところで街頭演説を行っていた。
裏では残酷な計画を起こしながら――。
『でも、それを証明するためには、世界をきれいにする必要があるそうです。世界には存在してはいけない民族が沢山住んでいて、そういう人たちがいつもヘルデンズ国を悪く言うみたいです。それどころか、その人たちがいるせいで、世界では戦争がなくならないのだと、おじいちゃんはいつも言っています。
だから、そういう人たちを一人のこらずたいじし、世界を平和にして、ヘルデンズ国のすばらしさを世界中の人々に教えるために――』
気が付いたら、ラジオの電源を切っていた。
肩が大きく上下し、握りしめた拳が、震えている。これが自宅のラジオだったら叩き壊していたかもしれない。
それほどの怒りに、ヴォルフはラジオを睨み付けていた。
「……八歳の作文だ」
椅子に座ったまま、ロマンが静かに言う。
ヴォルフは反射的に彼を振り返った。
「あぁそうだよ。例え八歳でも、これがあのマクシミリアン・ダールベルクの孫の作文、血は争えないってわけだ!」
ヴォルフはテーブルを怒りのままに勢いよくバンと叩く。
「よくこんな内容書けたものだ。てめぇのジジィが全ての元凶だってのによ! 何が世界の平和だ。一体誰のために人が死んでいったことか!」
「ものの分別もつかない子供の作文だ。洗脳されていたっておかしくない」
「洗脳? いや違うな。自分のためにジジィが国をキレイにしていると思ってんだ?」
「落ち着けよ、もう亡くなっているかもしれない相手に」ロマンがため息混じりに言う。
「あぁそうだな。もしどこかで見つけたら、あの地獄を必ず味わわせてやる!」
怒りのままにヴォルフは目の前のウイスキーを瓶ごと一気に煽った。これが他人の家でなかったら、間違いなく瓶を割っていただろう。
すっかり頭に血が上ってしまっているヴォルフに、ロマンは水を差し出した。
「何も知らずに書いた子供に怒っても、どうしようもない」
「だが、あいつは実際にアジェンダ狩りを見ている。あいつのせいで、俺の親父は殺された。あいつのせいで、俺の仲間はみんな殺されたんだ!」
忘れもしない、あの日のことを。
収容所まで歩かされていた途中に、あの独裁者が現れた。奴は、たった少しよろけただけの父を銃で撃ち、唾を吐いた。
忘れもしない、あの日々を。
ろくな食事ももらえず、炎天下の中、極寒の下、一日中働かされたことを。明日の望みもなく、理由もないのに鞭打たれる理不尽さ。仲間が殺されるのを、黙って見守ることしか出来なかった。
全てはあの少女のために――。
「……もし今も生きているなら、これを書いたことをひどく後悔していると僕は思う」
ロマンは静かに言った。
それが、ヴォルフの怒りを更に煽った。
「さっきからえらく庇うじゃないか。大体お前はどうしてそんなに落ち着いていられるんだ! お前だって俺と同じ側だろう!?」
ヴォルフはロマンを睨み付けた。
ロマンは小さくため息を吐き、目を閉じる。
僅かに刻まれた眉間の皺は、当時の光景を嘆いているに違いない。ヴォルフは一方的にそう思う。
ロマンは薄く瞳を開くと、抑えた声で言った。
「過ぎたことを怒っても仕方のない話だよ。死人は蘇らないのだから」
この話は終わりとばかりに、ロマンは館長のレコード棚に向かった。求めていた言葉を避けたロマンを、ヴォルフは気に入らなかった。
怒りのあまり、ヴォルフは気が付かなかった。
ロマンの手が、僅かに震えていたことに。
なんて馬鹿だったんだろう……!
ブランカは全速力で町を駆ける。
館長の家に行ったら聞こえてきたラジオ。
静かに嘆くロマン。
悲痛な叫びを上げたヴォルフ。
――許されるわけがない。
ただのヘルデンズ人の子供じゃない。
ただ孫として生まれただけでもない。
自分は立派に『総統の孫』だったのだ。
『英雄の孫』であることを誇っていた。
祖父の所業を『正義』と信じて、あんな作文を書いた。
そんなわたしが、許されるわけがない。
胸元をぎゅっと押さえる。彼はこのブローチを取り戻してくれた。
生きてきた証。『ブランカ』の白……。
何度も触れた大きな手。
ヘルデンズ人であることさえ気にしない。
だけど――。
「おい」
町角を曲がるところで、腕を取られた。
いつも絡んでくる不良のリーダーだった。
今は放っておいて欲しいのに。
ブランカは腕を振り払おうとするが、彼はブランカの腕を掴む手に力を入れた。
「……放して」
「お前、また泣いてんのか?」
「どうでもいいでしょ。放して」
ブランカは腕を引っ張るが、彼はブランカの胸ぐらを掴んだ。
ブランカを引き寄せて睨み付ける。
「お前、昨日から生意気なんだよ。ちゃんと分からせねえとなぁ」
そう言って、ブランカを地面に倒した。




