1-8.腕の番号
「ヴォルフ君、朝早いね」
洗面所で歯を磨いていると、図書館館長が起きてきた。ヴォルフは館長の家に泊めてもらっている。
館長が歯磨き粉を脇に挟もうとしたので、ヴォルフは歯磨き粉を受け取り、館長の歯ブラシに出した。館長はにっこり笑った。
「昨日はすまなかったね、みっともないところを見せて」館長は歯磨きしながら言った。
ヴォルフは口をゆすぎながら、首を振った。「そういう日もありますよ」口元をタオルで拭う。
「それに、ブランカのこともありがとう」
ヴォルフは鏡越しに館長を見た。
館長は、歯ブラシをくわえたまま、手を止めている。
「あの子、なかなか馴染めなくてね。いい子なんだ。だから君が気に掛けてくれて助かった」
少し腫らした目を細めて、どこかを見ている。
ヴォルフは、昨夜のおかっぱ頭を思い出した。
こんな風に気に掛けてくれる大人がいるのに、なんであんな町の端っこで泣かなきゃならないんだ?
ヴォルフは昨夜のロマンにも疑問だった。ロマンは、昨夜のブランカの状態を知っていて、放置しようとしていた。
あまりロマンらしくない。
あいつは、見て見ぬふりをする人間じゃない。
すると館長が口をゆすぎ出したので、ヴォルフは棚からタオルを取って渡した。
「俺、結構色々得意なんで、何でも言ってください」ヴォルフは思い出したように付け加えた。「フラウジュペイ語は下手ですけど」
館長は声を上げて笑った。
簡単な朝食を作って館長を見送ると、ヴォルフも町に繰り出した。
ダムブルクは小さな町だ。館長の家から五分もしないうちに、もう広場に出る。
広場には、昨日の祭りの飾りが散らばっている。端の方では、酒瓶を抱えたまま眠り込んでいる男もいた。
昨日の熱が、そのまま転がっているようだった。
視界の端に、しゃがみこんで小さく丸まった人影があった。石畳を、雑巾でやけに熱心にこすっている。
ヴォルフは歩み寄った。「おはよう。早いな」
ブランカはびくりと大きく肩を揺らした。
そろりと顔を上げる。
「おはようございます」
消え入るような小さな声。
こちらを見上げるブランカは、一見無表情に見えて、微かに眉毛が下がっている。目も少し腫れていた。
「昨夜遅かったんだから、もう少しゆっくりしてればいいのに」
周りには、片付けをしている人間は誰もいない。
ブランカは目を逸らし、首を横に振った。
「昨日たくさん……気晴らし、しましたし」
あれで、か。
彼女の口から出る『気晴らし』は、妙にぎこちなく響いた。ヴォルフの拙いフラウジュペイ語よりも。
ヴォルフは内心ため息をついた。
また、振り出しか。
ヴォルフは腕まくりした。「雑巾、他にあるか?」
ブランカは深緑色の目を見開いてこちらを見た。またあの既視感が、ヴォルフの脳裏によぎる。
しかし彼女はすぐに目を伏せて首を横に振った。「お構いなく」
ブランカは手を動かした。
さっきから同じところをこすっているが、ほとんど変わっていない。
「……それ、砂かブラシがいるな」
ブランカの手が止まった。
ゆっくりとこちらを見上げて、首を傾げた。
その瞬間、少しだけあどけなく見えた。
「貸して」
ヴォルフはしゃがみこみ、雑巾を取り上げた。
「水でやるなら、こうやって力を掛けるんだ」そう言って、ブランカが磨いていたところを、力を入れてこすった。
ブランカは驚いたように目を丸くしていたが、やがて、ヴォルフの腕の一点をじっと見つめ始めた。
肌の上に刻まれた、数字の並びを。
ヴォルフは、一瞬手を止めた。
「あぁ、よかった! 誰かいた!」
新たな声が割り込んできた。
振り返ると、一人の男性がヴォルフたちの元へ走ってきた。
上等そうなチェック柄のスーツに身を包んだ、こんな片田舎には似つかわしくない洗練された雰囲気の男だ。
「この町の人かな? 車が故障してね、誰かに修理を頼みたいんだけど」
彼はヴォルフを見てから、ブランカへ視線を移した。わずかに目を瞠り、じっと彼女を眺める。
ブランカが身を縮めるのを見て、ヴォルフはそれとなく間に入った。「修理なら、俺がやりますよ」
男性はヴォルフに視線を戻した。「本当? 助かるよ。この辺、初めて来たからさ」
言いながら、またもブランカに視線が向けられた。この男の目に、鋭い光がわずかに走った。
そんなにじろじろ見てやるなよ。
ヴォルフは眉をひそめた。
「お、インテリただれ人形が新たな男侍らせてんぞ」
昨日ブランカに絡んでいた不良たちが、ぞろぞろとやって来た。まったく懲りないやつらだな。
ブランカを見ると、見事に無表情だ。ヴォルフとしては、あまり面白くない。
ヴォルフは車の修理を頼んできた男性と、不良たちを交互に見た。
あ、いいことを思いついた。
「なあお前ら」
ヴォルフは不良たちの前に一歩出た。
不良らは一歩後ずさり、ヴォルフを睨みつける。
「お前ら、暇してんだろ」
ヴォルフは親指を立てた。
「付き合え」
「ブラッドローの兄ちゃんが車いじりしてるんだ! すごいよ!」
男の子が広場を駆けていく。
ロマンとレオナは、興味深そうに彼らの背中を見送った。
「すごいわね、ヴォルフさん。すっかりダムブルクの人気者」
「ああいうところは昔から変わらないな。あの問題児たちも、もう手伝わされている」ロマンは苦笑した。
「本当に見事よね!」レオナは目を輝かせた。「あんたもちょっと好きになったんじゃない?」
レオナは肘でぐいぐいブランカの肩を押してきた。
小さく揺らされながら、ブランカは町の端へ視線を向けた。さっきの子どもが走っていった先だ。
その先で、ヴォルフは車の修理をしている。
さっき少しだけ様子を見てきたら、男たちに囲まれて、何やら手振りを交えて説明していた。いつもブランカに嫌がらせをする不良たちが、意気揚々と手を動かしていた。
なんだか、とてもきらきらして見えた。
「お前、あんなのが良いのかよ。見る目ねぇな」
振り返ると、不良グループのリーダーが、ブランカを睨みつけていた。
ロマンたちと一緒に回収した酒瓶の入った箱を蹴り飛ばす。酒瓶がいくつか割れた。
「ちょっと!」レオナが彼の襟を掴んだ。「あんたも暇なら片付けて」
「あ? うっせぇなぁクソアマ」
「あのねぇ」
二人が言い合う横で、ブランカとロマンは酒瓶を回収する。
ロマンは、そっと尋ねた。「昨日ヴォルフ、優しくしてくれた?」
ブランカは俯いたまま、頷いた。
どう考えたら良いか、分からない。けれど、間違いなく優しかった。
きれいなおかっぱ頭と、生きてきた証。
何でもないようにまっすぐな、薄鳶色の目。昨日からまったく変わっていない。
昨夜はあんなに泣いたのに。
彼は、ブランカの気が落ち着くまで、ただ黙ってそばに座っていた。
ブランカは胸元に手をやった。
花の装飾の付いたゴールドのブローチと、焼けこげの残る薄萌葱色の封筒。
昨日、彼は――。
「なぁブランカ、ちょっと」
近くの喫茶店のマスターが声を掛けてきた。手を振ってブランカを呼んでいる。
そちらへ行くと、今朝、車の修理を頼んできた男性が、ブランカを振り向いた。
「ああ、今朝の子だ」
彼は嬉しそうに笑った。
「この店のメニュー書いたの、君なんだって?」彼は店の壁に掛かっているメニュー表を手で示した。「すごくきれいな字だよね」
「ありがとうございます」ブランカは曖昧に頭を下げた。
「彼は書類を書かなきゃならないらしくて、ブランカ、手伝ってあげて」マスターが言う。
男性のテーブルには、書類が何枚も広げられていた。彼は困ったようにブランカを見上げる。
ブランカは頷いて、彼の向かいに座った。指示されるとおりに、書類を清書する。
男性は、すらすら書くブランカの字を、感心したように眺めた。
「なぁ聞いたか?」店にやって来た町の人が、マスターに話しかける。「あのブラッドローの兄ちゃん、腕に番号入ってたんだって」
「本当か?」マスターは驚いた声を上げる。「それって囚人――」
「分かんねえ。けどあの兄ちゃん、アジェンダだろ? もしかしてさぁ」
ブランカは手を止めて、話してる二人を見た。
今朝見たヴォルフの腕を思い出す。筋肉のついた浅黒い肌に、数字が並んでいた。
アジェンダ人。
腕の、番号――。
背中を、嫌な汗が伝った。




