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【新改訂】戦犯の孫  作者: ふたぎ おっと
第一章 ブラッドローから来たアジェンダ人
12/16

1-8.腕の番号

「ヴォルフ君、朝早いね」

 洗面所で歯を磨いていると、図書館館長が起きてきた。ヴォルフは館長の家に泊めてもらっている。

 館長が歯磨き粉を脇に挟もうとしたので、ヴォルフは歯磨き粉を受け取り、館長の歯ブラシに出した。館長はにっこり笑った。

「昨日はすまなかったね、みっともないところを見せて」館長は歯磨きしながら言った。

 ヴォルフは口をゆすぎながら、首を振った。「そういう日もありますよ」口元をタオルで拭う。

「それに、ブランカのこともありがとう」

 ヴォルフは鏡越しに館長を見た。

 館長は、歯ブラシをくわえたまま、手を止めている。 

「あの子、なかなか馴染めなくてね。いい子なんだ。だから君が気に掛けてくれて助かった」

 少し腫らした目を細めて、どこかを見ている。

 ヴォルフは、昨夜のおかっぱ頭を思い出した。

 こんな風に気に掛けてくれる大人がいるのに、なんであんな町の端っこで泣かなきゃならないんだ?

 ヴォルフは昨夜のロマンにも疑問だった。ロマンは、昨夜のブランカの状態を知っていて、放置しようとしていた。

 あまりロマンらしくない。

 あいつは、見て見ぬふりをする人間じゃない。

 すると館長が口をゆすぎ出したので、ヴォルフは棚からタオルを取って渡した。

「俺、結構色々得意なんで、何でも言ってください」ヴォルフは思い出したように付け加えた。「フラウジュペイ語は下手ですけど」

 館長は声を上げて笑った。

 簡単な朝食を作って館長を見送ると、ヴォルフも町に繰り出した。

 ダムブルクは小さな町だ。館長の家から五分もしないうちに、もう広場に出る。

 広場には、昨日の祭りの飾りが散らばっている。端の方では、酒瓶を抱えたまま眠り込んでいる男もいた。

 昨日の熱が、そのまま転がっているようだった。

 視界の端に、しゃがみこんで小さく丸まった人影があった。石畳を、雑巾でやけに熱心にこすっている。

 ヴォルフは歩み寄った。「おはよう。早いな」

 ブランカはびくりと大きく肩を揺らした。

 そろりと顔を上げる。

「おはようございます」

 消え入るような小さな声。

 こちらを見上げるブランカは、一見無表情に見えて、微かに眉毛が下がっている。目も少し腫れていた。

「昨夜遅かったんだから、もう少しゆっくりしてればいいのに」

 周りには、片付けをしている人間は誰もいない。

 ブランカは目を逸らし、首を横に振った。

「昨日たくさん……気晴らし、しましたし」

 あれで、か。

 彼女の口から出る『気晴らし』は、妙にぎこちなく響いた。ヴォルフの拙いフラウジュペイ語よりも。

 ヴォルフは内心ため息をついた。

 また、振り出しか。

 ヴォルフは腕まくりした。「雑巾、他にあるか?」

 ブランカは深緑色の目を見開いてこちらを見た。またあの既視感が、ヴォルフの脳裏によぎる。

 しかし彼女はすぐに目を伏せて首を横に振った。「お構いなく」

 ブランカは手を動かした。

 さっきから同じところをこすっているが、ほとんど変わっていない。

「……それ、砂かブラシがいるな」

 ブランカの手が止まった。

 ゆっくりとこちらを見上げて、首を傾げた。

 その瞬間、少しだけあどけなく見えた。

「貸して」

 ヴォルフはしゃがみこみ、雑巾を取り上げた。

「水でやるなら、こうやって力を掛けるんだ」そう言って、ブランカが磨いていたところを、力を入れてこすった。

 ブランカは驚いたように目を丸くしていたが、やがて、ヴォルフの腕の一点をじっと見つめ始めた。

 肌の上に刻まれた、数字の並びを。

 ヴォルフは、一瞬手を止めた。

「あぁ、よかった! 誰かいた!」

 新たな声が割り込んできた。

 振り返ると、一人の男性がヴォルフたちの元へ走ってきた。

 上等そうなチェック柄のスーツに身を包んだ、こんな片田舎には似つかわしくない洗練された雰囲気の男だ。

「この町の人かな? 車が故障してね、誰かに修理を頼みたいんだけど」

 彼はヴォルフを見てから、ブランカへ視線を移した。わずかに目を瞠り、じっと彼女を眺める。

 ブランカが身を縮めるのを見て、ヴォルフはそれとなく間に入った。「修理なら、俺がやりますよ」

 男性はヴォルフに視線を戻した。「本当? 助かるよ。この辺、初めて来たからさ」

 言いながら、またもブランカに視線が向けられた。この男の目に、鋭い光がわずかに走った。

 そんなにじろじろ見てやるなよ。

 ヴォルフは眉をひそめた。

「お、インテリただれ人形が新たな男侍らせてんぞ」

 昨日ブランカに絡んでいた不良たちが、ぞろぞろとやって来た。まったく懲りないやつらだな。

 ブランカを見ると、見事に無表情だ。ヴォルフとしては、あまり面白くない。

 ヴォルフは車の修理を頼んできた男性と、不良たちを交互に見た。

 あ、いいことを思いついた。

「なあお前ら」

 ヴォルフは不良たちの前に一歩出た。

 不良らは一歩後ずさり、ヴォルフを睨みつける。

「お前ら、暇してんだろ」

 ヴォルフは親指を立てた。

「付き合え」


「ブラッドローの兄ちゃんが車いじりしてるんだ! すごいよ!」

 男の子が広場を駆けていく。

 ロマンとレオナは、興味深そうに彼らの背中を見送った。

「すごいわね、ヴォルフさん。すっかりダムブルクの人気者」

「ああいうところは昔から変わらないな。あの問題児たちも、もう手伝わされている」ロマンは苦笑した。

「本当に見事よね!」レオナは目を輝かせた。「あんたもちょっと好きになったんじゃない?」

 レオナは肘でぐいぐいブランカの肩を押してきた。

 小さく揺らされながら、ブランカは町の端へ視線を向けた。さっきの子どもが走っていった先だ。

 その先で、ヴォルフは車の修理をしている。

 さっき少しだけ様子を見てきたら、男たちに囲まれて、何やら手振りを交えて説明していた。いつもブランカに嫌がらせをする不良たちが、意気揚々と手を動かしていた。

 なんだか、とてもきらきらして見えた。

「お前、あんなのが良いのかよ。見る目ねぇな」

 振り返ると、不良グループのリーダーが、ブランカを睨みつけていた。

 ロマンたちと一緒に回収した酒瓶の入った箱を蹴り飛ばす。酒瓶がいくつか割れた。

「ちょっと!」レオナが彼の襟を掴んだ。「あんたも暇なら片付けて」

「あ? うっせぇなぁクソアマ」

「あのねぇ」

 二人が言い合う横で、ブランカとロマンは酒瓶を回収する。

 ロマンは、そっと尋ねた。「昨日ヴォルフ、優しくしてくれた?」

 ブランカは俯いたまま、頷いた。

 どう考えたら良いか、分からない。けれど、間違いなく優しかった。

 きれいなおかっぱ頭と、生きてきた証。

 何でもないようにまっすぐな、薄鳶色の目。昨日からまったく変わっていない。

 昨夜はあんなに泣いたのに。

 彼は、ブランカの気が落ち着くまで、ただ黙ってそばに座っていた。

 ブランカは胸元に手をやった。

 花の装飾の付いたゴールドのブローチと、焼けこげの残る薄萌葱色の封筒。

 昨日、彼は――。

「なぁブランカ、ちょっと」

 近くの喫茶店のマスターが声を掛けてきた。手を振ってブランカを呼んでいる。

 そちらへ行くと、今朝、車の修理を頼んできた男性が、ブランカを振り向いた。

「ああ、今朝の子だ」

 彼は嬉しそうに笑った。

「この店のメニュー書いたの、君なんだって?」彼は店の壁に掛かっているメニュー表を手で示した。「すごくきれいな字だよね」

「ありがとうございます」ブランカは曖昧に頭を下げた。

「彼は書類を書かなきゃならないらしくて、ブランカ、手伝ってあげて」マスターが言う。

 男性のテーブルには、書類が何枚も広げられていた。彼は困ったようにブランカを見上げる。

 ブランカは頷いて、彼の向かいに座った。指示されるとおりに、書類を清書する。

 男性は、すらすら書くブランカの字を、感心したように眺めた。

「なぁ聞いたか?」店にやって来た町の人が、マスターに話しかける。「あのブラッドローの兄ちゃん、腕に番号入ってたんだって」

「本当か?」マスターは驚いた声を上げる。「それって囚人――」

「分かんねえ。けどあの兄ちゃん、アジェンダだろ? もしかしてさぁ」

 ブランカは手を止めて、話してる二人を見た。

 今朝見たヴォルフの腕を思い出す。筋肉のついた浅黒い肌に、数字が並んでいた。

 アジェンダ人。

 腕の、番号――。

 背中を、嫌な汗が伝った。


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