6-12.救済のダール二世①
ひんやりした教会の地下。
あまり明るくない蛍光灯の下で、男たちは地図を広げて考え込んでいた。
静まり返る中、一人が電話をかける。
『はい、こちらマルゴ。どちらへお繋ぎしますか?』
「……今、そこに何人いる?」
『……二人ね。一人は誰かと楽しそうにずっと喋ってる。もう一人は……寝てるわね』
「分かった。引き続き頼む」
彼は電話を切った。はす向かいのアロイスに向かって頷いた。
「五分で十分やな。それを合図にするか」アロイスは手元の紙に、記号と数字をメモに書きとる。「それから――」
地図の発電所の場所に、チェックを入れた。ここはもう動いている。あとは軽いテストの結果を待つのみ。鉄道と検問も、同じだ。
少々遅い気もするが。
内心の焦れを押し殺しながらも、アロイスは顔を上げなかった。あいつらならやる。信じて待つしかない。
視線の先では、ヴォルフがブラッドロー兵たちと話し込んでいる。彼はアロイスの仲間に説明した。
「ここには工兵を向かわせている。……あぁ、あいつの腕は確かだ。信用してくれていい」
「なぁ、ここを押さえておかなくていいのか?」ブラッドロー兵の一人が、ブラッドロー語で尋ねる。
ヴォルフは一瞬、地図に視線を落とした。「確かにな……」彼はヘルデンズ語でアロイスの仲間に尋ねた。
それらを眺めながら、アロイスは、これだけでは足りない気がした。
どこかで鶏が鳴いている。
うっすらと空が明るくなってきた。空気が少し冷たい。ひと月前の西ヘルデンズより、だいぶ冷え込むようになった。
ヴォルフは教会の胸壁から足を出し、右手の鉄球を上げ下げしながら、地上の景色を眺めた。
ほとんど刈りつくされた麦畑に、点々とわら束が置かれている。のどかな朝だ。ここが東ヘルデンズであることを疑いたくなる。
「ヴォルフ、こんなところにいたのか」デーニッツが、ズボンのボタンをきちんと閉めないまま現れた。「お前は本当にまじめだな。こんな朝早くから起きて」
「いつも通りだよ。お前こそ」ヴォルフはデーニッツのぼさぼさ頭を見て軽く笑った。「身だしなみ、整えた方がいいぞ」
デーニッツは頭をがしがし搔いた。「まったく。あのヘルデンズの連中みたいなことを言う。あいつら、食器の置き場にうるさいんだ。言葉が分からなくて良かったよ」
ヴォルフは曖昧に微笑んだ。ヴォルフも、そのヘルデンズ気質を受け継いでいるんだが。
デーニッツはヴォルフの隣に座って、同じように胸壁から足を出した。「いい景色だな。こういう状況じゃなければ、ゆっくり堪能したいのに」
「お前はやめておいた方がいいな」デーニッツはブラッドロー語以外、ほぼダメだ。オプシルナーヤ兵に捕まれば、一発で終わりだ。
ヴォルフは鉄球を置いて、伸びをした。
時間の進みが遅い。すぐに動けないのが、もどかしい。
ノイマールまで、あと三百キロなのに。
ヴォルフはジャケットの内ポケットから、ゴールド色のブローチを取り出した。ブランカの花のブローチ。表面の装飾を、ヴォルフは何度も指でなぞった。
「兄さん兄さん」
アロイスが教会の塔からひょっこり顔を出した。デーニッツが少しだけ背筋を伸ばす。アロイスは新聞片手に近付いてきた。
「お前は朝から陽気だな」ヴォルフはアロイスを見上げて言った。
「さっきこれ買いに行くときに面白い話聞いたからな」
アロイスは持っていた新聞を振った。邪魔するで、とブラッドロー語でデーニッツに断って、彼とは反対側の隣に座った。
アロイスは新聞の一面を、ヴォルフに見せる。
ヴォルフは、顔をしかめた。
『救済のダール二世、労働者の手当てをする』
大きな見出しの下に、ブランカが大きく写されていた。
この手の新聞は、東ヘルデンズに戻る前から目を通してきた。ブランカが掲載されるたび、安堵と怒りが、ない交ぜになる。どの新聞に載るブランカも、人間味を感じなかった。
しかし、この写真のブランカは――。
少し伸びた金色の髪を首の後ろで緩く結んだ彼女。子供から葉を受け取りながら――かすかに微笑んでいた。
「なんて書いてあるんだ……?」デーニッツが、横から尋ねてきた。
ヴォルフは記事の中身に目を通す。ああ、言葉が出ない。
代わりにアロイスが、ブラッドロー語で読み上げた。
「オプシルナーヤ当局の管理下にあるダール二世が、がれき撤去現場にて労働者の傷の手当てを自発的に行った。当局の更生プログラムの成果が現れた素晴らしい事例だ。配給現場でも菓子を配るなどの奉仕活動を続け――」
「アロイス、もういい」
ヴォルフは途中で遮った。
重い沈黙が降りた。
デーニッツが、ぽつりと言う。「……なんか、胸糞悪いね」
ヴォルフは膝を立て、手の中のブローチを指先でいじる。
デーニッツは更に聞いた。「ということは……彼女、すっかり向こう側なのかな」
「それは違う」ヴォルフは間を置かずに断言した。
「えらい、はっきり言うんだな……」
当たり前だ。
ブランカは、簡単には笑わない。
あいつは、演技のときほど無表情になる。泣き顔の方が容易に頭に浮かんだ。
そんな彼女が、こんな風に笑えている。少年の目線まで屈み込み、まっすぐ目を見て微笑んでいる。
嫉妬しないと言ったら嘘になる。その場にいて、ブランカの笑顔を直に見たかった。
しかしそれよりも、ブランカが笑えていることに、ヴォルフは安堵した。労働者の手当をするブランカ。いかにも彼女らしい。
だから、こんな風にオプシルナーヤに利用されているのが、腹が立って仕方がない。
「で?」ヴォルフはアロイスを見た。「面白い話って何だ?」
アロイスはにやりと笑った。ヴォルフが睨みつけると、すぐさま両手を上げた。
「そんな怖い顔せんとって。悪い話やないから」
「勿体ぶらないでさっさと言え」
「まったく。この兄さんは全く敬意を払わん」アロイスはデーニッツと顔を見合わせた。デーニッツはつられて首を傾げる。
「アロイス」
「はいはい、話しますよっと」
アロイスは新聞の見出しを指差した。
「救済のダール二世――。そう言ってるのは、オプシルナーヤ側だけちゃうらしい」
ヴォルフは続きを待った。
アロイスは、ゆっくり笑った。
「ノイマール市民の間で俄かに噂になっとるらしい。救済の、火傷の、ダール二世」
そのダール二世は、配給のスープをいつも多めに配る。徴収では多くを取らず、弱った人に親切にしているとか。
「あの子、やっぱり大物やな」
アロイスは感慨深げに言う。
しかしヴォルフは、同じようには思えなかった。
ブランカ……。
どんな風に彼女が一般市民と向き合っているか、容易に想像がつく。つくづくブランカらしい。
しかし――大丈夫なのか?
「兄さん」アロイスは口角を上げた。「この噂、使えるで。みんなで助けに行ける」
きらりと光るアロイスの目を見て、ヴォルフは眉間の皺を深く刻んだ。
「……そうならいいがな」
***
男がまた一人、連れて行かれる――オプシルナーヤ兵士に銃で脅されて。
その兵士たちは、ずかずか家の中に入ってきて、食べ物や食器、金品などをかっさらっていった。残された女や子供たちは、ただ見ているしかなかった。逆らったらどうなるか。町外れの大木がそれを示している。
母親たちは、お互いに顔を見合わせた。
荒れ果てた農地。
去年はようやく実がなったのに、また人手がない。その少ない作物も、ほとんど持って行かれた。
戦争は、五年前に終わったはずなのに。
町には、チラシが何枚か散らばっている。『祖国解放事業への志願者募集――報酬・職務を保障』と書かれたチラシが。
検問所はどこも物々しい。
武装したオプシルナーヤ兵士が、車両を一台ずつ入念に調べている。賄賂を渡して免除してもらおうと企む輩もいるが、ほとんどが通用しない。むしろ積載物をいくつか没収されるか、運転手が連行されることも少なくなかった。
そんな中、とある検問所。
一台のトラックが、大した取り調べもされず、すぅっと東ヘルデンズの国道に向かった。
荷台に載るのは、血抜きされた鹿や猪。野菜の木箱。
高く積まれた木箱の奥に、更にいくつもの箱が隠されていた。過剰なほど厳重に封のされた箱。
側面には、大陸では見ない字が印字されている。
ヤーツェクは物陰から、通りの向こうを睨んだ。
ノイマールのとある街角。数人の男たちが、オプシルナーヤ兵に囲まれている。彼らはみな手を縛られうつむき、たまに兵士に殴られていた。
見覚えのある顔が、その中に混ざっていた。
「俺はあいつをどうにかする。お前とお前はここでヤツらの動きを見ておけ」
ヤーツェクは近くにいた仲間に、指示をした。別の仲間には手で合図を送り、配置に付ける。
「ロマン、悪いな付き合わせて」後ろのロマンに向けて言った。
ロマンは曖昧に口角を上げると、わずかに視線を動かした。護送は六人。前後に兵士が二人ずつ、さらに通りの両側にも巡回がいる。
「三分後に通りを抜ける」ロマンが言う。
「その先は?」
「曲がり角で死角ができる」
突然、通りの奥で鈍い爆音が響いた。
煙が立ち上る。
「<何だ!?>」オプシルナーヤ兵士が、煙の方を向いた。
次の瞬間、荷車が横倒しになった。積まれていた木箱が通りに散乱する。
オプシルナーヤ兵士が何か怒鳴るが、その隙間を縫うように、ヤーツェクが滑り込んだ。
「走れ! 振り返るな!」
ヤーツェクは縛られていた男の腕を引く。この混乱に乗じて、他の男たちも逃げ出した。
遅れてオプシルナーヤ兵たちが追いかける。
「<待て!>」妙に通りのいいオプシルナーヤ語が聞こえてきた。兵士たちは瞬時に足を止める。「<後方確認を優先しろ!>」
しかしどこから声がかかったのか謎だった。
数発の銃声。壁に弾が当たる音。誰かの悲鳴が広がる。
あたりが混乱する中、ヤーツェクは路地へ飛び込んだ。助けた男を仲間たちが引っ張り、物陰へ隠れる。
オプシルナーヤ兵が銃を持って付近にいた人たちを怖がらせる中、ロマンは落ちていた黒革のつばのキャスケットを拾い、カバンにしまった。通りの端で泣いている男の子を見つけて、ポケットから飴玉を取り出した。
「怖かったね」
男の子は飴玉を受け取ると、わーっと泣き出し、駆けて行った。
ロマンは落ち着いた足取りで、いくつか角を曲がったところにある店に入り、そのまま裏手に回る。「まったく、命がいくつあっても足りないね」
「へっ。流石だな」ヤーツェクが壁を背に、座り込んでいた。「お前は相変わらず成りすますのが上手い」
ロマンは目を細めてヤーツェクを見た。「まったく嬉しくないな、それは」ヤーツェクの横に並んで座る。
ややして、仲間たちがやって来た。




