第7話「選んだ物語」
蒼閃支部冒険者協会の上層──他とは明らかに異なる、静けさと威厳に満ちた空間。
オリティスが執務室の前に行くと、扉の前にいた人が扉を開けた。
重厚な木の机と書架、地図と魔法器具に囲まれた蒼閃長の執務室だった。
中にいたのは、一人の女性。
薄い紫色の巻き髪と知的な眼差し。年齢は三十代後半に見えるが、その瞳に宿る光はとても老練で、若さとは別の“力”を感じさせた。
貴族の様な服を着ていたが、装飾は少なく、どちらかと言うと動きやすさを重視した服装。
「ようこそ、オリティスさん、わざわざ来ていただいて、恐縮ですわ」
にこやかに微笑みながら、椅子に座ったまま言う。
「私はメイランテ・ヴァローナ、蒼閃冒険者協会の蒼閃長を務めております」
オリティスは表情ひとつ変えず、ふらりと椅子に腰を下ろした。
脚を組み、背筋を伸ばしたまま、瞳だけで相手を見ていた。
「それで、用はなんだ?蒼閃長がわざわざ個別に呼ぶ理由は?……それも登録したばかりの私を」
メイランテは、微笑みを崩さないまま、机の上の書類をゆっくりと手元に寄せた。
「……失礼ながら、貴女について気になる点がいくつかありまして。試験の記録、それから過去の記録が全くない……正直、謎が多すぎますわ」
オリティスの口元が、かすかに緩んだ。
「秘密主義は、魅力的だろ?」
「ええ、確かに。ただ、あまりに“存在しなさすぎる”と、管理者の立場からは少々……困るのです」
メイランテは指先で机をトントンと軽く叩き、続けた。
「貴女自身の記録はおろか、魔力量、戦闘分類のすべてが、一般の規格から大きく逸脱しています」
「……驚くほどのことではないと思うが?今どき計測不能なんて、そこらに転がっている」
メイランテの視線が鋭くなる。
だが、オリティスの態度は終始変わらない。
メイランテが更にオリティスに言う。
「それに──フィナという少女、彼女の記録もまた一切存在しません。貴方の様な超人的な存在ではなく、ただの子供がですよ」
オリティスは、そこでようやく反応を示した。
ほんの少しだけ眉を動かし、メイランテの目を見て、前に少しのめり込み、言う。
「何か、問題でも?」
「……私の勘ですが、貴方もあの子も、ただ者とは思えません、貴方の戦闘能力の高さ、そして、フィナの神秘性を除いたとしてもです……警戒しない方が、おかしいと思いませんか?」
メイランテの声には、確かな圧力がこもっていた。
だが──その重圧に、オリティスはかすかに微笑むだけだった。
「いいや、思わない、なぜなら──私達は、お前達の敵じゃないからな」
その言葉には、何の虚勢もなかった。
まるで天気がいいわねとでも言うかのように、自然で。
メイランテはしばらく沈黙した。
やがて、深く息を吐き、少しだけ笑みを和らげ言う。
「……そう、敵意はない。理解しました、しかし、このミオルタの安全の為にも、疑わないといけない立場なのを理解していただきたい」
オリティスは満足そうな顔をして微笑む。
「あぁ。フィナにも、私にも。今のところは」
「……今のところ?」
オリティスは、微笑んだまま立ち上がり言う。
「ふふ、だって、心変わりは人間の方が多いだろ?」
オリティスの目線が、窓の外に向き、声のトーンが、わずかに変わる。
「ひとつ、いいか?」
空気のわずかな淀み──風の流れに逆らう“気配”が、わずかに混じっていた。
オリティスは何とも言えない顔を浮かべる。
「……さっきから、部屋の外で懐かしい気配がする、フィナに手向けたお前の部下か何かか?」
「……?いいえ」
「……お前の差し金じゃないのか」
オリティスはくるりと踵を返した。
「話はここまでだ。あとは、好きに調べろ。嘘はついてない」
メイランテの目を見て、オリティスが目を細める。
「私という“何か”が、ミオルタ、延いては世界にとって害でないことくらい、きっとすぐ分かる」
その言葉を最後に、オリティスは執務室を後にした。
扉が閉じられるまで、メイランテは椅子から立たず、目を細めていた。
「……フィナ。そして、オリティス」
「あなたたちは──どんな問題を起こすんでしょうか、個人としては楽しみですよ」
フィナは喪失獣に壁へ追い込められていた。
逃げ道はない、いや、カエルの言葉に逃げ道はあるかもしれない。
「僕はね、物語を描かんとする下等人種が嫌いなんだ」
静かに、言葉が刺さる。
「与えられた選択肢で生きて、そこに収まって、誰かの手のひらの上で自由だって思ってるの、バカバカしいでしょ?」
言葉の刃に、フィナは息を呑む。
「この人たちは物語を追い失敗した者さ」
カエルが静かに言う。
「物語を持ちえないのに、主人公になろうとした連中。身の程知らずの夢を追って、こうなった。哀れだと思わないかい?」
その言葉に、フィナの中で何かがきしんだ。
怒り──それが何に向けられたものか、自分でもはっきりとは分からなかった。
「……この人たちは、自分で物語を描こうとしただけ。自分で選んだ結果じゃない……」
か細くも、確かな声だった。
「はは、そうかもね。でも、結局彼らは描けなかった。旅の途中で失敗し、もう何も描けなくなった。無い可能性を信じた馬鹿だ、フィナ、君もそうなるかもしれないよ?」
囁きは優しい。だがその優しさは、まるで毒のようだった。
「オリティスは人に物語を与える。優しそうな顔をして、結局は彼女の掌の上。君は選ばれただけ。君が自由に物語を描いてると錯覚させてるだけさ」
その言葉が、脳内で反響する。
「君は、誰かに描かれる人生で満足なのか?」
そう言って、カエルは喪失獣とフィナの間に割り込み、フィナに手を差し出した。
「フィナ、僕は君を救いたい。偽善者のオリティスから、ね。僕が君の物語を描いてあげる。もっと、君にふさわしい、決まった道を歩く、強くて、美しくて、“僕達の“素晴らしい物語を」
その手は、確かに温かそうだった。
だが──。
(その手を取ったら、私は……誰かが描いた物語の主人公になる)
(そんなのは、“私の意思”じゃない)
「……違う」
私が描くものではない。
描かれ、引き摺られるだけの物語。
オリティスが言っていた、“君の意思“で描くものだ──その言葉が、今になって重く響く。
カエルの言葉は魅力的だった。守ってくれるという。導いてくれるという。
今唯一ある、生存への道、いや、逃げ道。
誰かの意思と共に描くか、自分だけの意思で描くかの違い。
その違いが凄く大きく感じられた、オリティスと同じ、共に描くと言う言葉のはずなのに。
けれど、そのカエルが言う道の先にある物語の中に“私”の場所は──ない。
(本当にそれで、いいの……?)
フィナの指先が震えていた。
恐怖ではない。
迷いでもない。
ただ──胸の奥で、何かが必死に叫んでいた。
(この手を取ったら……私は、私でいさせてもらえなくなる、それこそ、誰かに描かれる物語)
喉が焼けるように乾く。
心臓が痛いほど脈打つ。
それでも、フィナは目を逸らさなかった。
(私は……“誰かの物語”になりたくない)
その瞬間、身体が勝手に動いた。
だが──その中に、確かに小さな光が宿った。
その光こそが、彼女が持つ、唯一の“意思”。
選択に迷いはなかった。
反射的に、フィナの手が動いた。
カエルが差し伸べていたその手を──勢いよく、叩き落とす。
「私は……私の意思で!私の物語を!“私だけの”物語を描く!!」
声が、こだました。
目の前の相手が、どれだけ強いか分かっている。
殺されるかもしれない。
それでも、口をついて出た言葉は本心だった。
「……お前の言う物語に、私はいない。そこにいるのは、ただの傀儡──私の形をした操り人形!」
フィナの声が震えた。
けれど、目は揺らがなかった。
「オリティスは違う……あの人は、私の意思って言った。私に選ばせた、選ばせてくれた、それが物語だって言ってくれた」
それが、どれほど救いだったか。
「私は、オリティスと描く、私の世界を歩く物語を……!」
カエルの表情が、曇った。
「……そうか。君はもう、救えないのか。残念だよ」
その声に、もう少年の面影はなかった。
冷たく、乾ききった音。
「ならば、せめて──愚かな物語の序章で死ね」
彼の手に、赤黒い光が集まっていく。魔力だ。それも、桁違いの。
同時にその場の全ての喪失獣がフィナに向かって走る。
フィナは目を見開いた。体が硬直する。叫びが、こぼれる。
「……助けて、オリティス!!」
その言葉が響いた刹那、轟音と黒炎が場を支配し、喪失獣の身体が爆ぜ吹き飛ぶ、悲鳴も抵抗もなく、消滅していく。
黒炎の中心に、影が立っていた。
「──助けよう」
その声は、静かだった。
だが、教会の闇よりも深く、喪失獣の唸りよりも強かった。
オリティスだった。
彼女の足元に、黒炎が渦を巻く。
その炎はただ燃えているのではない。
喪失獣の残滓を、音もなく飲み込み、喰らっている。
その隣──黒い翼のような影を広げ、アジスイデアが浮かんでいた。
『邪魔だ!塵ども!』
その声と同時に、黒炎が一斉に広がる。
喪失獣たちが反応する間もなく、跡形もなく消滅していく。
黒炎が静かに収束し、オリティスの髪がふわりと揺れる。
その視線は、カエルへ向けられていた。
空間を一瞬で支配した黒炎の中、オリティスは静かに口を開いた。
「久しぶりだな、ルシフェル、私は未だお前に家出の理由を聞いてないぞ」
『久しぶりだな!墜ちた輝きよ!此度こそ噛み砕いてやる!』
オリティスの声は柔らかかった。だが、その眼差しは氷のように鋭かった。
その瞬間、カエル──否、ルシフェルの顔が怒りに染まった。
「黙れッ……また、僕を見下ろす気か!全てを知っていながら、分からぬふりをし、お前は僕を泳がす、お前の言葉は僕の脳に害なんだよ!!」
怒鳴り声が木霊する。込められた憎しみは、空気の張り詰めを突き破る。
だが、オリティスは揺れなかった。
『ギャーギャー煩い塵だ、喰い殺していいだろう?オリティス!』
「どうせ無駄だ、馬鹿でも私の弟子だ、せいぜい意志の断片──堕魂だ。本体は遥か遠く。次元さえ違う可能性もある」
フィナは目を見開いた。
「堕魂……? 本体……?あれは……偽物?」
驚きに息を飲むフィナ。その隣で、ルシフェルは鼻で笑った。
「はっ!オリティスのいる場所に、本体で来るほど僕は馬鹿じゃないさ」
「オリティス!僕はいつか、貴様を殺す。その時こそ……僕は……俺だけの物語を描く」
最後の言葉には、狂気と、そして確かな“悲哀”が滲んでいた。
次の瞬間──その姿はふっと、空間から掻き消える。
まるで、最初から存在していなかったかのように。
ルシフェルが消えた瞬間まで満ちていた、あの圧迫感──喉を掴まれるような重さは、ゆっくりと溶けていく。
黒炎に焼かれた喪失獣の残滓が、細かな灰となって舞い上がり、崩れた石柱の隙間から漏れる風に乗って散っていく。
空間の歪みが、少しずつ元に戻っていく。
壁のひび割れが音もなく閉じるわけではない。
ただ、あの“世界が軋むような気配”が消えていく。
フィナの肩から力が抜けた。
膝が震え、思わずその場に座り込みそうになる。
(……終わった……?)
まだ心臓は早鐘のように打っている。
喉は乾き、手は汗で湿っていた。
けれど──確かに、空気が変わっていた。
アジスイデアの黒炎が静かに収束し影がふわりと揺れる。
炎が、この空間に“生”を取り戻していくようだった。
フィナはゆっくりと息を吸った。
肺に入る空気が、さっきまでとはまるで違う。
重くない。
痛くない。
ただ、静かだった。
その静けさが、ようやくフィナの心に追いついてくる。
フィナは固まったまま、その余韻を呑み込んでいた。
すると、背を向けていたオリティスが、ふと振り返る。
「……帰るか」
その表情に怒りはなかった。
けれど、ほんの一瞬だけ、寂しげな影が揺れていた。
フィナは何も言わず、ただその背中を追った。
互いに言葉はなかった。それが自然だった。
崩れた神殿を離れるにつれ、空気が変わっていくのが分かった。
アケホラ通りに満ちていた、あの重く淀んだ匂い──鉄と土が腐ったような、喪失の残滓が鼻にまとわりつく匂いは、一歩ごとに薄れていく。
代わりに、風が流れ始めた。
湿った空気が乾き、胸の奥に張り付いていた重さが、少しずつ剥がれ落ちていく。
匂いも変わった。
喪失の匂いが消え、代わりに草の匂いが混じり始める。
土の匂い、風に運ばれた花の匂い。
フィナは思わず深く息を吸った。
(……空気が、軽い……)
やがて──視界が開ける。
たどり着いたのは、街外れの小高い丘。その中心に立つ一本の大木。
悠然と、まるで時の流れすら受け止めるように枝を広げていた。
その大木は、ただ“古い”だけではなかった。
幹は三人がかりでも抱えきれないほど太く、表面には深い皺が幾重にも刻まれている。
だが、その皺は枯れたものではない。
幹の色は、普通の木の茶色ではない。
陽の光を受けると、どこか金属のような鈍い光沢を帯び、影に入ると、墨のように黒く沈む。
枝は空へ向かって大きく広がり、一本一本が太く、しなやかで、風が吹くたびにゆっくりと揺れる。
葉は濃い緑で、縁がわずかに青く光っている。
光を受けると、葉脈が透けて見え、その一本一本が脈動しているように感じられた。
根は地面を割って広がり、丘全体を抱きしめるように張り巡らされている。
その根の間からは、小さな花が咲き、草が柔らかく揺れていた。
葉がさらさらと鳴り、その音は、どこか懐かしい子守歌のようだった。
オリティスはその根元に腰を下ろすと、草を撫でるように手をついた。フィナも隣に座る。
アジスイデアはふわふわと浮き、少し離れ、景色を見ていた。
風が吹き、木の葉がさらさらと心を撫でるように鳴った。
「……ルシフェルから、いろいろ聞いたな」
ぽつりと、オリティスが言った。
「物語を描くということは、それだけで重い。誰かの理想になり、期待され、自分自身に嘘をつき……全部、乗り越えなければならない、乗り越えなければ、残酷な運命が待ち受ける」
言葉は静かだった。だが、その静けさに力があった。
「逃げていい、やらなくていい。普通の人生を望むなら、それもお前の意思で、1つの正解だ」
オリティスの瞳が、まっすぐにフィナを見つめる。
「私は……フィナの選択に任せる」
その言葉に、フィナの胸が熱くなった。
押しつけではない。導くのでもない。ただ、尊重してくれる。
それが、なによりも心地よかった。
虚大穴のとき、自分が“生きたい”と思ったあの感覚。
あの瞬間から、答えは決まっていたのだと気づく。
私は、生きる。
生きるなら、物語を持って生きる。
そして、その物語は──自分で選ぶ。
「自分の、自分だけの物語を描きたい」
「だから、私は……オリティスと旅がしたい」
「この世界の終着点の先まで、一緒に」
大木の葉が、ゆっくりと揺れた。
「終着点の先って……何?」
そう問いかけたフィナに、オリティスは少しだけ間を置き答えた。
「終着点の先、それは、今の不完全な世界の綻びを解いた先に在る、最果ての世界。今この世界は停滞している、糸が絡まったように。この世界が進化し、進まない限り、最果ての世界の入り口もできない」
淡々とした口調、だが話はフィナの想像を超える壮大さがあった。
「……綻びの解除には、ある存在が必要だった。それが何かは不明だった。でも、私にはわかる──君だと。世界が見つけ、救いたいと願い、選んだ“最後の主人公”」
風が止まり、時が凍ったようだった。
フィナは言葉が出ない。頭が、疑問でいっぱいになる。
「要は世界を旅して、世界を見て、悪者を見つけ倒す。そして世界を救った後に、自由な世界を旅するということ」
オリティスが、ふっと笑った。
「今は考えなくていい。主人公として、これから成長していけばいい」
「私はその歩みを、誰よりも近くで支える。信じてくれるか?」
そう言って、差し出されたその手。
迷いはなかった。
フィナは力強くその手を握った。
温かかった。
どこまでも、優しくて、強かった。
この手と共に歩いていく。
自分の物語を――この世界の物語を、描くために。
そして、フィナの世界がやっと動き始める。




