第8話「銀灰との出会い」
石畳を踏みしめるたび、朝の街のざわめきが耳に届く、ミオルタの大通りは、すでに眩しい活気に満ちていた。
フィナは周囲を見回しながら歩く。見るものすべてが新鮮で、胸の高鳴りが収まらない。
「今日は忙しいぞ」
隣を歩くオリティスが、軽やかに言葉を投げた。
「図書館で本を借りて魔術の基礎を学ぶ。そのあとは……私の知人の鍛冶屋に行って、お前の武器と装備を整える」
「……ん、忙しい」
オリティスは微笑み、歩調を緩めずに続ける。
「旅を続けるなら、知識も武器も必要になる。今日の忙しいは、これからのための準備だ」
慌ててその背を追いかけながら、フィナの胸の奥には小さな期待が芽生えていた。
街を歩くこと数分。やがて視界の先に、白い大理石でできた大きな建物が姿を現した。
柱には、今にも羽ばたきそうな鳥の彫刻が施されている。
ミオルタ図書館だ。
二人が重厚な扉を押し開けて中に入ると、世界が一変した。
天井は高く、空間全体に魔力を抑える結界が張られているせいか、不思議と音が反響しない。
フィナは圧倒され、息を呑んで周囲を見回した。
「ここが……図書館……」
受付に近づくと、白髪をきちんと撫でつけた老紳士が、細い眼をさらに細めて出迎えた。
背筋は真っ直ぐに伸び、深い皺の刻まれた顔には、長年本と向き合ってきた静かな威厳が漂っている。
濃紺の上衣に銀糸の刺繍、胸元から覗く小さな懐中時計の鎖、眼鏡の奥の瞳は柔らかくも鋭い光を宿していた。
だが、フィナの目はその手に釘付けになる、年老いてなお節くれ立ち、厚い皮膚には無数の古傷が刻まれている。
およそ司書には不釣り合いなその節くれだった手を、フィナは不思議そうに見つめた。
「受付のメイスです。初めてのご利用ですな。貸出ですか?」
オリティスが頷く。
「魔術の基本属性──火、水、地、風。加えて基礎魔力運用の魔術書を借りたい」
「わかりました。では、少々お待ちください」
メイスは眼鏡をくいと上げ、温かな笑みを浮かべて奥へと下がっていった。
メイスが本を取りに行っている間、フィナは書架の間をうろうろと歩き回る。
高くそびえる棚の隙間から、本をめくる音や、ペンがさらさらと走る音が微かに響く。
遠くで木箱が軋む音、誰かの小さな咳払い。そのすべてが、図書館という大きな生き物の呼吸のように静かに重なり合っていた。
見上げれば、天井近くを魔力で浮く梯子がゆっくりと移動し、司書が淡々と本を棚に差し入れている。
窓から差し込む光が、舞い上がる埃の粒子を星屑のように輝かせていた。
(……すごい。全部、本。全部、物語)
「図書館は知識の海だ。同時に力の海でもある」
いつの間にか横に歩み寄っていたオリティスが、書架の森を見上げながら静かに口を開いた。
「魔術、武技、歴史、物語──そのすべてが、この中に眠っている。たとえ架空の物語であっても、その情景は読む者に何かを伝え、気づかせてくれる」
フィナは目を丸くした。言葉にできない感情が胸の奥をじんわりと満たし、ただ力強く頷く。
「ん!」
オリティスが満足げに微笑んだ瞬間、メイスが静かに戻ってきた。
両腕に抱えられた五冊の分厚い魔術書が、机に置かれる。
「ご所望の本です。扱いにはお気をつけを」
オリティスは軽く礼を返し、その重みを確かめるように本を受け取ると、迷いなくフィナへと差し出した。
「お、重い……」
両腕にずしりと食い込む重量に、フィナは思わず顔をしかめる。
しかし、その瞳はどこか誇らしげだった。
「お前の勉強だ。その教材は今はお前の物だ。今のうちに──学べることの重さを理解しろ」
「ん!」
フィナはぐっと唇を結び、力強く頷いた。その声が、静謐な空気に小さく響く。
「じゃあ、このまま鍛冶屋に向かうぞ」
「……ん」
フィナは息を整えながらも、きらきりと目を輝かせた。
朝の光が白い大理石の壁に反射し、通りを柔らかく照らしている。
腕に抱えた重みは、昨日まで知らなかった世界が、今日にはもう自分の道として広がっている確かな実感だった。
オリティスが横目でフィナを見て、ふっと笑う。
「重いか?」
「ん。でも……嫌じゃない」
「そうか。それならいい」
短いやり取りだけで、フィナの胸はまた少し温かくなった。
図書館から少し外れた、入り組んだ路地裏。
石畳は煤で黒ずみ、壁には鉄粉がこびりついている。突き当たりに現れた建物は、他の家々よりも低く、ずんぐりとした影を落としていた。
屋根の煙突からは黒煙がもくもくと立ちのぼり、鉄と油の匂いが風に混じって鼻を刺す。
扉の隙間からは赤々とした火の光が漏れ、金槌の音が遠くまで響いていた。
「ここ……?」
フィナが首を傾げると、オリティスは「ここだ」と微笑んで重い扉を開けた。
むっとした熱気が肌を包み込む。
ただの暑さではない、鉄が焼ける匂い、油の焦げる匂い──何十年も積み重ねられた職人の仕事の重さがそこにはあった。
壁には使い込まれた古い槌や金床が並んでいる。
鉄を打つ音に混じって、奥から豪快な声が飛んできた。
「らっしゃい!買うのか、それとも直接打つか!?」
フィナは声の方へ顔を向け、そこに立つ影を見て、思ったままを口にした。
「……チビ」
金槌の音が止まった。
「……誰がチビじゃああ!」
怒号のような叫びと共に、鉄の槌を肩に担いだ小さな男が飛び出してきた。
燃えるような赤髪に、胸元まで伸びた濃い赤髭。煤で黒ずんだ革の前掛けをつけ、腕は短いが岩のように太い。
火に焼かれた褐色肌が鈍く光り、ぎらつく瞳がまっすぐフィナを指差した。
「てめえもチビじゃねぇか、このちびっこ!」
フィナはむっと口を尖らせる。
「私は子供……お前、大人なのに……チビ」
「おい!もう少し本音を隠せよ嬢ちゃん、傷つくぞ!?」
頭を抱える男に、オリティスが苦笑混じりに声をかけた。
「落ち着け、アスト。フィナはまだ旅を始めたばかりだ。鉄熱族を見たのも初めてなんだ」
「おおっと……オリティスじゃねぇか、久しぶりだな!鉄の隠れ家以来か!」
アストと呼ばれた鍛冶職人は驚いたように目を見開き、鉄槌を地に置いた。
「……ってことは、そのちびっこはおまえさんの弟子か?」
「あぁ、自慢の子だ」
「へぇ、そうかいそうかい。フィナ、だったな?」
フィナは、まだ少しだけ頬を膨らませたまま「ん」と返す。
アストはフィナの顔を覗き込み、笑った。
「世界は……輝いて見えるだろ?」
その問いに、フィナの顔がぱっと明るくなる。
「……ん、輝いてる」
「いい返事だ!」
アストは豪快に笑った。
「覚えておけ、フィナ。俺たち鉄熱族ってのは、鉄と熱の種族だ。地に根を張り、炎を操り、武器を創り出す者たち。小さくても、硬さは誰にも負けねぇ!」
その誇らしげな声に、フィナは純粋な疑問をぶつける。
「鉄と熱……?硬い?だから……チビ?」
「ぐおぉ!」
アストは額に血管を浮かべてオリティスに詰め寄った。
「おい、オリティス!すげぇの拾ってきたな!?本音が剥き出しすぎて逆に清々しいぞ!」
オリティスが肩をすくめて笑うと、アストもつられてもう一度豪快に笑い、頭をポリポリとかいた。
「よし、気に入った。さっそく武器と防具のやる、待っとけ!」
熱気と金属の匂いが入り混じる工房の奥で、フィナの武器選びが始まった。
「動きやすさ重視。軽装で、扱いやすい装備一式だ」
オリティスが手早く告げると、アストは「あいよ!」と奥の棚へと足を向けた。
その間、フィナは店内をふらふらと歩き回る、鈍く輝く刃の列、重厚な盾、変わった形の斧や槍。
どれもが戦うための道具としての凄みを放っている。
ふと、フィナの足が止まった、そこは大剣が置かれている棚だった。
(……これ)
気がつけば、フィナはその大剣たちの前にしゃがみ込んでいた。
手を伸ばすわけでもなく、ただ見つめる。まるでそこから、呼ばれているような気がした。
「おいおいフィナ、大剣か?その体で?長剣のほうが合うと思うがな」
装備を抱えて戻ってきたアストが目を丸くした。
だが、オリティスが口を開くより先に、フィナが言った。
「いや、これがいい」
その声には、一切の迷いがなかった。
オリティスはその様子を見て、ふっと口元を緩める。
「……早速、師匠に似てきたぜ。頑固さといい、選び方といいな」
アストは呆れたように、だがどこか嬉しそうに笑った。
フィナは剣に手を伸ばし、そっと触れる。
手のひらに伝わる冷たさと重さは、確かに責任のようだった。だが、フィナはそれを怖れなかった。
「──なあ、オリティス。適当な素材、くれや」
アストが不意に言った。
「……個人的な依頼を受けないことで有名なアストが、自分から?珍しいな」
「なんか、作ってやりたくなっちまったんだよ。それに、俺達に弟子の武器を依頼するのは、お前の通例だろ?」
「じゃあ、遠慮はしないぞ」
オリティスはさらりと袋を取り出し、中からいくつかの包みを渡した。
アストがそれを受け取り、開いた瞬間──。
「おまっ……!?こんな素材を渡してきやがって!?」
青白く輝く竜骨、純銀のような金属片、濃厚な魔力を帯びた鉱石。明らかに常識外れの素材ばかりだった。
「こんなもん持ってるってバレちまったら、俺、命を狙われるぞ!」
「打てるのか、打てないのか」
オリティスの静かな問いに、アストは拳を握りしめて叫んだ。
「くそっ……強引なとこは相変わらずだな!打てるよ、打つとも!」
アストは一息置いて、不敵にニヤリと笑う。
「……が、今すぐは無理だ。仕上がりまで数週間、下手したら一ヶ月はもらうぜ」
「それで十分だ」
毒づきながらも、アストの顔は喜びを隠せていなかった。
「──じゃあ、その間の繋ぎとして、これでも使ってろ」
アストが裏から持ってきたのは、一振りの大剣だった。
銀灰の刀身は重厚だが美しく、柄の先端には小さな飛龍の飾りが施されている。
「フィナ、受け取れ。今の防具と……そいつは飛龍を丸々一体使った試作品の大剣だ。不安定すぎるからか誰も買わなかったが、お前にやるよ。銘は銀灰。強度は良いが、概念や規格外の代物には及ばねぇから気を付けろよ」
フィナはその剣を両手で受け取った。ズシリと重い。だが、不思議と体の中に馴染む感覚があった。
「ん、ありがと」
銀灰の重みが、腕から肩へ、そして胸の奥へとじんわり伝わってくる。
ただの鉄ではない。自分がこれから歩む道の最初の相棒になるのだと思うと、不思議と心が落ち着いていった。
「フィナ、このまま着替えようか」
「そうだな。工房の奥に小部屋がある、使ってくれ」
「ん!」
アストに促され、フィナは早速と言わんばかりに工房の奥へと向かった。
革の下衣に、深い蒼のコートを羽織る、布地は厚手でありながら軽く、肩から腰にかけて何本もの革紐が走り、金具が小さく鳴った。
腰には実用的なポーチがいくつも取り付けられている、最後に背へと回したのは、大剣を固定するための鞘と背負い革。
鏡に映る自分の姿を見て、フィナは思わず息を呑んだ。
表に戻ると、オリティスとアストが同時に親指を立てた。
「……似合ってるじゃねぇか」
アストが腕を組み、満足げに頷く。
オリティスもまた、静かに目を細めていた。
「で、これからどうするんだ?」
アストの問いに、オリティスが淡々と答える。
「魔術の修行だ」
「ははっ、新しい装備に魔術の修行か。いざ、旅の開始って感じだな!」
アストは鉄槌を肩に担ぎ直し、真っ直ぐにフィナを見据えた。
「頑張れよ、フィナ」
「ん!」
オリティスとフィナは礼を言い、店を後にした。
扉が閉まった瞬間、アストは深くため息をついた。
「……神話級の大剣を作れ、だとよ。こりゃ、暫く店閉めだな……」
そして、机の上に山積みにされた素材を見つめ、静かに、しかし最高に嬉しそうに呟いた。
「──腕が、鳴るぜ!」




