第6話「選択する意思」
回響市の喧騒が、徐々に遠ざかっていく。
人々のざわめきが、背後で消えていく中、フィナの足元は、知らぬ間に土の感触へと変わっていた。
「こっちだよ、君にしか見せたくないものがあるんだ」
そう言いながらフィナの手を引く少年──名をまだ名乗らないその少年の手は、小さくて、やけに温かい。
けれど、その温もりは妙に不自然だった。
(……空気、変)
気づけば周囲には、人の気配がなくなっていた。
さっきまであれほど賑わっていたのに、今は草と土と、湿った風の音だけ。
風に混じる、錆びついた鉄の匂い。
(この匂い……あのとき、虚大穴で……)
「待って」
フィナは立ち止まり、目を細める。
「ここ……変。戻る」
少年は、そこで初めて振り返った。
その顔には、相変わらず無邪気な笑みが浮かんでいた。
「そうそう、自己紹介がまだだったね。僕は、カエル。よろしく」
名を聞いた瞬間、フィナの背筋にひやりと冷たいものが走った。
「君とは、長い付き合いになりそうだ……オリティスから、僕のこと聞いてないんだ?意外。あの人なら、もう少し気を利かせてるかと」
(オリティス……知ってる……?)
フィナの頭に警戒が点滅し始める。だが、カエルは構わず続けた。
「別にいいよ、君に選ばせてあげる、ついて来るか、ついて来ないか」
虚大穴の記憶が、脳裏に蘇る。
だが、足はもうここまで来てしまっていた。
(ここ、やばい)
「僕は今から君に真実を見せる──君は、1つ、決めなきゃいけないからね」
「決める……?」
「うん。君はもう選ばれた。だから、これからは選ぶ側にならなきゃいけない、その覚悟が、君にあるか」
その言葉に、フィナの身体が一瞬だけ硬直する。
けれど、喉の奥から出てきたのは、はっきりとした言葉だった。
「……ある」
「私は、逃げない」
「自分の物語を選ぶ」
カエルは、ふっと笑った。だがその笑みは、今度はわずかに……ほんのわずかにだけ、興味と驚きの色を帯びていた。
「へぇ……面白いね。フィナちゃん。じゃあ、行こうか、アケホラ通りに」
そのまま、彼は奥へと足を踏み入れる。
フィナも、ひとつ息を吐いて──その背中を、静かに追った。
アケホラ通り──。
その名を耳にしたとき、フィナの心に走ったのは、確かな“警告”だった。
(まさか、ここ……)
オリティスから言われていた。「一人では決して入ってはいけない」と。
けれど今、フィナの足は止まらなかった。心の中で何度もごめんなさいと謝りながら、カエルの背中を追っていた。
やがて、通りの雰囲気が変わる。ひび割れた煉瓦の壁、窓に張られた古びた板、石畳の隙間から生えた苔。世界から切り離されたような、朽ちた空間。
ふと、視界からカエルが消えた。
「こっちだよ」
後ろから首元を鷲掴まれ、身体がふわりと浮いた。
驚いて顔を上げたフィナの目に映ったのは──もう“少年”ではなかった。
そこにいたのは、背が伸び、赤黒い豪奢な魔術師の衣を纏った青年。
髪は銀に近い白、瞳は血のように赤い。
だが、その真っ赤な瞳には光がなかった。
まるで、魂の代わりに“空洞”が詰め込まれているような目。
「君がこれから見るもの、それが真実だよ」
軽い声。
だが、その軽さが不気味だった。
フィナは宙に持ち上げられたまま、カエルに運ばれていく。
彼の足取りは軽やかで、まるで散歩にでも出かけるかのようだった。
今から見せる光景を、心から楽しみにしているような──そんな足取り。
やがて、通りの一角に差し掛かる。
そこには──人がいた。
いや、正確には“倒れていた”。
壁にもたれかかり、うつろな目をした男女。
身なりは様々だが、皆、まるで魂を抜かれたかのように動かない。
呼吸だけが、かすかに残っている。
「君、自分の“物語”を描くつもりかどうか、どうせまだ決めてないでしょ?」
「……」
答えようとした瞬間、カエルは笑って遮った。
「答えなくていいよ。興味ないからね」
空気が変わった。
風が止まり、音が消えた。
世界が一瞬、呼吸を忘れたような静寂。
カエルは笑っていた。
だが、その目だけが、何の感情も宿していない。
まるで別の誰かが、彼の中に潜んでいるかのように。
「さあ──見せてあげるよ。君が“選ぶ側”になる前に、知っておくべきものを」
カエルはフィナを地面に降ろし、先へ進む。
そして──それは現れた。
ミオルタに来たとき、遠くから見た廃教会。
だが、近くで見ると印象はまるで違った。
扉は半ば溶け、木材と金属が混ざり合ったような異様な形をしていた。
まるで、誰かが“教会の形を真似て作った偽物”のようだった。
カエルは軽い足取りで扉に触れた。
その瞬間、扉は音もなく左右に割れ、暗闇が口を開けた。
「入ろう。君の“未来の姿”が、ここにある」
フィナは一歩踏み出そうとして──止まった。
虚大穴の記憶が蘇る。
息が詰まり、胸が締め付けられる。
だが、フィナは一度目を閉じ、ゆっくりと息を吸った。
(……行こう)
そして、一歩踏み出した。
教会の中へ足を踏み入れた瞬間、フィナは思わず息を呑んだ。
そこは──“壊れている”という言葉では足りなかった。
床はところどころ陥没し、石畳は黒く焦げ、まるで巨大な爪で抉られたような深い溝が走っている。
壁には無数の斬り跡が刻まれ、そのどれもが、普通の武器ではつけられないほど深かった。
天井は半ば崩れ落ち、残った梁は黒い煤に覆われ、風が吹くたびに軋む音を立てていた。
(……ここで、何が……)
フィナの胸がざわつく。
祭壇へ続く中央の通路は、かつては赤い絨毯が敷かれていたのだろう。
だが今は、焼け焦げ、裂け、ところどころに黒い染みがこびりついている。
血ではない。
もっと“重い”匂いがした。
喪失の匂い──虚大穴で嗅いだ、あの鉄と土が混ざったような、世界が腐りかけた時にだけ漂う匂い。
壁に掛けられていたはずの祈りの絵画は、すべて破れ、燃え、額縁だけが歪んだ形で残っていた。
窓は粉々に砕け、床に散らばった破片は、光を失ったまま鈍く光っている。
(……全部、壊されてる)
ただの破壊ではない。
そこには“意志”があった。
祈りを否定するように。
救いを嘲笑うように。
この場所にあった何かを、根こそぎ奪い取るように。
フィナは足元の石をそっと踏む。
石は湿っていて、冷たく、まるで生き物の体温が抜けた後のようだった。
天井の隙間から落ちる水滴が、ぽたり、ぽたりと音を立てる。
その音が、やけに大きく響いた。
風の音も、街の喧騒も届かない。
ただ、湿った空気と、喪失の匂いだけが満ちている。
フィナは思わず腕を抱いた。
寒さではない。
もっと深い、底のない冷たさ。
カエルはそんな空気の中を、まるで散歩でもするかのように軽い足取りで進んでいく。
「ここが、旧ミオルタを襲った大災害、喪失獣が“生まれた場所”なんだよ、生まれたというよりは、発生したと言った方が正しいか」
その声は、どこか楽しげだった。
「奴らは、人が祈り、願い、縋った場所を壊すと面白いと感じるらしい」
フィナは息を呑む。
カエルの言葉が、この教会の死を説明していた。
空気は淀み、胸の奥がざわつく。
(……空気が重い)
次の瞬間、フィナの肩が掴まれた。
「──っ!」
だが、痛みは来なかった。
目に映ったのは、赤い奔流。
カエルの背後から放たれた赤い光が、影のような何かに襲いかかり、原型を維持できずに消滅させていた。
カエルはフィナの前に立ち、軽く言った。
「大丈夫。僕がいる限り、君に触れられるものはいないよ」
その声は優しげだった。
だが、そこに慈悲は一欠片もなかった。
闇の中で、何かが動いた。
最初は影だと思った。
だが、影は壁にもたれ、ゆっくりと揺れていた。
人だ。
いや──人だった“何か”。
虚大穴で見た喪失獣に似ている。
だが、違う。
まだ人の形を保っている。
だが、目は虚ろで、焦点が合っていない。
皮膚は灰色に近く、ところどころ黒い斑点が浮かんでいる。
「……っ」
フィナは反射的に身構える。
だが、カエルが手を軽く振ると、赤い奔流が喪失しかけた者たちに襲いかかり、無慈悲に、無音で、体を貫いた。
悲鳴もない。
抵抗もない。
ただ、存在が“止まる”。
「彼らはね、まだ“完全には”喪失していない。でも、自我を失いかけて、彷徨っている途中なんだ。喪失獣一歩手前の存在さ」
カエルの声は淡々としていた。
「助け……られる……?」
フィナの声は震えていた。
カエルは肩をすくめる。
「さあ?助けたいなら助ければいい。でも、君にそんな力があるのかな?」
その言葉は、優しさの皮をかぶった刃だった。
ぎしり──。
骨が軋むような音が、闇の奥から響いた。
喪失しかけた者たちが、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
目は虚ろなのに、どこか“飢えた獣”のような気配が滲んでいる。
「……来る」
カエルが笑い、手を軽く振っただけで──天井から赤い槍が降り注いだ。
音もなく、抵抗もなく、喪失しかけた者たちの身体を貫く。
最後に残っていたはずの“自我”が、赤い光に触れた瞬間、まるで霧のように消えていった。
フィナは思わず後退し、震える声で問う。
「なんで……こんなことに……」
「なんで?簡単だよ」
カエルは振り返り、微笑んだ。
その笑みは、優しさの形をしているのに、どこにも温度がなかった。
「“物語を持てなかった”からだよ。才能がなく、世界に打ちのめされて、哀れな人生しか持てなかった」
その言葉は、刃のようにフィナの胸を締め付けた。
教会の奥へ進むほど、影は増えていく。
壁にもたれ、床に倒れ、祈るように膝をつき──どれも、もう人ではなかった。
カエルは歩きながら、淡々と殲滅していく。
赤い光が走るたび、影は静かに崩れ落ちた。
「喪失獣を生み出すのは、喪失、元々、三大災厄の一種、生命を持つ存在に侵蝕し、その自我を蝕む。喪失が選んだ侵蝕体は人間。思いに縋る人間は、さぞかし美味しかったんだろうね」
フィナは息を呑む。
最奥に近づくにつれ、フィナは気づく。
彼らの手には、まだ“何か”が握られていた。
ひとりは、ぼろぼろになった旅の地図を胸に抱いていた。
指は震え、紙は湿り、ところどころ破れている。
それでも、地図を離そうとしない。
まるで、どこかへ行きたい記憶だけが、最後に残ったかのように。
別の者は、小さな靴を握りしめていた。
子どものものだ、靴底はすり減り、紐は切れかけている。
その靴を抱えたまま、喪失しかけた者は壁にもたれ、かすれた声で誰かの名前を呼んでいた。
「……ぁ……る……」
その声は、もう言葉ではなかった。
けれど、確かに“誰か”を呼んでいた。
さらに奥では、祈るように手を組んだまま固まっている者がいた。
指は骨のように細く、皮膚は灰色に乾いている。
それでも、祈りの形だけは崩れていなかった。
(……まだ、人だった……)
フィナの胸が痛む。
喪失しかけた者たちは、皆、何かを抱えていた。
旅の荷物、家族の遺品、壊れた魔道具。
誰かからもらった布切れ、小さな木彫りの人形。
それらは、彼らの何かの起点、物語を紡ぐ起点だったかもしれない。
だが──その起点は、もう彼らを支えてはいなかった。
目は虚ろで、焦点は合わず、ただ、残された“思いの残滓”だけが身体を動かしている。
フィナは震える声で呟いた。
「……まだ……人、だったのに……」
カエルは振り返り、淡々と言った。
「そうだね。でも、もう人ではない。残っているのは、壊れた物語の欠片だけ」
その言葉と同時に、カエルの赤い奔流が走り、淡々と全てを貫いた。
彼らの証を持つ手は、崩れ落ちる瞬間までほどけなかった。
フィナは息を呑む。
カエルはまばたきひとつせず、まるで埃を払うように言った。
「哀れだよね。哀れだからこそ──壊れやすい」
教会内部は崩壊しかけていた。
床、壁、天井──どこもかしこも、無数の斬り跡が刻まれている。
まるで、ここで何度も“戦い”があったかのように。
「こいつらに決まった姿はない、人の思いに決まった形はないからね。そして、喪失にとって最も都合のいい存在は──」
カエルは振り返り、フィナを見た。
「明確で強力な意思を持ち、なおかつ“物語を持たんとする人間”」
フィナの心臓が跳ねた。
祭壇の前──そこには、溢れんばかりの喪失しかけた者たちが倒れていた。
重なり、埋もれ、そして、フィナに向かって手を伸ばそうとしている
呻き声。
呼吸の音。
かすれた祈りのような声。
その全てが、フィナの耳に刺さる。
カエルは祭壇の前で立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
「フィナ。君は、こうなりたいかい?」
その問いは、刃のように鋭かった。
フィナは息を呑む。
喪失しかけた者たちの呻きが、胸の奥を締め付ける。
「結末は決まってる。ただ、君は道を選べる。自分で描くか──描かれるか」
その言葉が落ちた瞬間。
教会の奥で“何か”が動いた。
重い、湿った音。
壁を擦るような、低い唸り。
フィナは反射的に振り向く。
そこにいたのは──虚大穴で見た喪失獣に似た“何か”。
だが、違う。
所々に人の部位が残っている。
腕の形、指の形、顔の輪郭──それらが獣の肉に埋もれ、歪み、混ざり合っている。
最早、人の形を保っていない。
完全に“獣”になろうとしていた。
(……喪失獣の……始まり……)
フィナの心臓が跳ねる。
カエルは微笑んだ。
その笑みは、まるで舞台の幕が上がる瞬間を楽しむ観客のようだった。
「フィナ。君に、良い提案をしよう」
喪失獣が、低く唸った。
その声は、獣の声でも、人の声でもなかった。
カエルは一歩下がり、フィナの前に立つことをやめた。
まるで、喪失獣に舞台の中央を譲るように。
喪失獣の目が、フィナだけを見ていた。
カエルは静かに言った。
「ここから先は、君の“選択”だよ」




