第5話「選び始める意思」
闘技場へと足を踏み入れると、そこには鋼の塊がそのまま服を着ているかのような大男が、腕を組んで仁王立ちしていた。
その背丈は優にフィナの倍近くあり、見上げるためには首が痛くなる。
全身の褐色な肌に、無数に刻み込まれた古傷。衣服の上からでも判る筋肉は、引き締まった布地に圧力をかけていた。
厳格そうな白い髪は、視界を決して遮らないよう短く刈り込まれ、そのまま顎を覆う白髭へと繋がっている。
その男の斜め後ろには、静かに戦況を見守る副官らしき若い人物も控えていた。
「ワシはオルトー!この冒険者協会の試験官だ。実戦訓練も担当している。今から登録試験を行う!」
腹に響く声が、闘技場の石壁に反響する。
その剥き出しの重圧を正面から受け、フィナは思わず胸を詰まらせて小さく息を呑んだ。
「まずは……フィナ、お前からだ」
名指しされ、フィナは一歩前へ出ようとする。
オルトーは腕を組んだまま、顎で試験場の脇に設けられた訓練用武器棚を示した、そこには様々な模擬武器が並んでいる。
どれも使い込まれ、刃こぼれや擦り傷が刻まれていた。
「好きなものを選べ。どれを使っても構わん」
フィナは棚の前に立ち、ひとつひとつを見つめる。
細身の剣──違う。
短剣──違う。
槍──しっくりこない。
その背中を見ながら、オルトーが低く言葉を続けた。
「勘違いするなよ、フィナ。これは相手を叩きのめして勝ち負けで決める試験じゃない」
その言葉に、フィナの手が止まる。
「我々冒険者に本当に必要なのは、敵に勝つための力よりも──死なないための力だ。変化する戦況を見極め、最善を選び、的確に判断し生き残る。お前にそれができるかどうか、ワシはそれを見る」
声は相変わらず重く、しかしその奥底には、未熟な若者を導く温かさが含まれていた。
「負けたとしても、それだけで不合格にはならん。むしろ、己の限界を弁えずに無茶をして死にかけるような命知らずな奴が落第だ、生き残るために、お前がその手で一体何を選ぶのか……それをワシに見せてみろ。もし不合格になったとしても、それはお前を死なせないための、ワシの優しさだと思えばいい」
フィナはゆっくりと闘技場の熱い空気を吸い込み、再び棚へと静かに視線を戻した。
そして──フィナの瞳が止まったのは、棚の最奥に鎮座していた、無骨で巨大な一本の木製の大剣だった。
それは昨日、オリティスが言っていた武器。
木製の模擬刀とはいえ、その全長はフィナの頭頂部一歩手前に迫るほどに巨大。
太い柄の内部には重心を調整するための重い鉄芯が仕込まれており、見た目以上に重量を持っている。
後ろで見守っていたオリティスが、その選択にわずかに金色の目を細めた。
「フィナ。それを選ぶのか?」
「……ん、死なない意思、なら、先に倒す」
オルトーは腕を組み直し、口元をほころばせた。
「確かにそれも死なない力だな」
フィナは一言だけ答え、両手で柄を握る、振り上げようとした瞬間、重みが肩にのしかかる。
だが、フィナはその重みに顔色ひとつ変えず、ゆっくりと構えを取った。
オルトーが腕を組み直し、口元をほころばせた。
「準備ができたら、構えろ!」
フィナは静かに息を吸う。
──これは私の戦い。
逃げない、負けない。
「……構えた」
その一言と共に、副官が開始の合図を叫ぶ。
「始め!」
オルトーは動かない。フィナに先手を譲るようだった、フィナは腕と足に魔力を集中させ、身体強化を働かせる。
そして地を蹴り、一直線にオルトーへと迫った。
フィナは、踏み込みと同時に身体を沈め──頭を目掛けて、大剣を振り上げた。大剣が、地を擦るほど低く、横薙ぎに走る。
「ほうっ……躊躇いがない。すでに死線は経験済みか!」
「ん」
オルトーが半歩後退し躱す、瞬間、反撃が来る。
山のような圧――だが、フィナは下がらない。
(……違う。あの時の死より、低い山)
オルトーの一撃を剣の側面で受け止める、力強い衝撃にフィナは後退し、手がわずかに痺れた。
それでも、フィナはオルトーから目を逸らさない。
「……お前、良い目をしているな」
答えず、フィナは踏み込む。
縦の斬撃と拳がぶつかり合い、振り下ろしの瞬間に力を抜き、重量に任せて一撃を叩き落とした。
「……才能もある」
オルトーの拳が応える。
だがその瞬間、フィナは魔力を再び腕に集中させ、大剣を持ち直し、一歩、斜めにずれた。
──死角、大剣を腰だめから突き上げる。
「……ッ!?」
低い音と共に大剣がオルトーの肩口に直撃。
衝撃が全身に伝わり、巨体が少しよろめいた。場内が静まり返る。
「……フハハ!小娘とは思えん膂力だ!」
だが、オルトーは倒れない。
そのまま拳を振りかぶるが、寸前で声が飛ぶ。
「そこまでッ!」
副官が制止に入る。
オルトーはその声に従い、拳を止める。
しばし沈黙し──そして、大きく笑った。
「……一本取られた。いい目をしてやがる!」
フィナは大剣を置き、深く息を吐いた。
胸の鼓動がまだ速い、けれど──その奥に、確かな手応えがあった。
オルトーは腕を組んだまま、しばらくフィナを見下ろしていた。
その視線は厳しいが、どこか興味を含んでいる。
フィナは一歩近づき、少しだけ迷ってから口を開いた。
「……わたし、合格……?」
オルトーは鼻を鳴らし、ゆっくりと顎を撫でた。
「一本は確かに取られた、だが──それだけじゃ判断はせん」
フィナは無言でオルトーを真っすぐ見る。
「最初に言った通り、冒険者に必要なのは死なない力だ。お前がそれを持っているかどうかだ」
オルトーは指を一本立て、フィナの足元を示す。
「距離だ、お前は常にワシの間合いの外、半歩だけ逃げられる位置を保っていた、攻めながら、退路を捨てていなかった」
フィナは目を瞬かせる、自分では意識していなかった。
「そして──逃げ道の方向だ」
オルトーの視線が、試験場の端に立つオリティスへ向く。
「お前が下がる時、必ずあの女の方へ下がっていた、無意識かもしれんが……あれは、この場で生き残るための最適解だ」
フィナは思わずオリティスを見る。
オリティスは静かに微笑んでいた。
「戦いの最中に、あれだけの判断ができる奴は少ない、力だけじゃない。目も、勘も、選ぶ意志もある」
オルトーは腕を組み直し、堂々と宣言した。
「──合格だ、フィナ、歓迎するぞ、冒険者の世界にな」
その言葉が落ちた瞬間、フィナの胸の奥で何かがほどけた。
安堵でも、喜びでもない、ただ、静かに温かいものが広がっていく。
オリティスは、ほんのわずかに口角を上げていた。
(初戦で大剣か……)
あの小さな身体で、あの重さを制し、当ててみせた。
単なる力技ではない。観察と選択、そして才能があった。
(……君は──)
フィナの試験が終わり、静かに場へと歩み出たのは──オリティスだった。
その瞬間、空気が明らかに変わった。
黒の髪、張りつめた気配。
美しさと威圧感を兼ね備えたオリティスの一歩に、周囲の冒険者たちがざわりと反応する。
「……なんだ、この圧……」
「……空気が重い」
誰かが呟き、誰かが息を呑む、数名の冒険者は無意識に腰の武器へ手を伸ばし、柄に触れた。
誰も意識していなかった、ただ、身体が勝手に備えた。
その中で──ひときわ静かに、しかし確かな動きがあった。
オルトーが、腰に下げた真剣へ手を置いた。
刃を持つ、本物の剣、鞘の上からでも伝わる冷たい気配が、オルトーの指先をわずかに震わせた。
その様子を見て、オリティスはわずかに目を細め静かに言う。
「……いい反応だ、己を脅かす気配に触れた瞬間に武器へ手が動く──生き残る者の動きだ、お前の言った通り、ここでは死なない力を持つ者が多いな」
評価するような、静かな声にオルトーは鼻を鳴らし、真剣から手を離さずに言った。
「当たり前だ。こいつらはワシが鍛えた冒険者どもだぞ。気配に鈍い奴は、とっくに外縁で死んどるわ」
その言葉に、周囲の冒険者たちが誇らしげに胸を張る。
喋ると同時にオルトーもまた、気配を察していた。
鋼のような肉体に、冷や汗が一筋流れる。
(……只者じゃない)
──いや、違う。
(この者は、ワシより上……それに、オリティスという名)
試験官としての誇りすら無言でねじ伏せる“格”だ。
オルトーは口角を上げ、真剣の柄を軽く握り直し、自分に言い聞かせるように言う。
「望むところだ。ワシの前で、その“格”を見せてみろ!」
「始め!」
副官の合図が響く。
その瞬間、オリティスが──たった一歩、前へ踏み出す。
「……っ!」
オリティスの姿が、消えた。
音はない、視界の端すら捉えられない速度で、オリティスはオルトーの懐に立っていた。
動きは最小。足音すらない。
ただ、次の瞬間──オルトーの腹部、みぞおちへ。
オリティスの指が静かに触れていた。
それ以外、何もしない、ただ、そこに置いてある。
オリティスの意志が、空気を支配した。
その瞬間、全てが終わっていた。
それだけで、終わった。
オルトーは、動けなかった。
動けば終わる。そんな予感が、全身を貫いた、予感ではない、確信。
静寂が流れ、観客席がざわつく。
何が起きたのか、理解できなかった者もいた。
だが、理解できた者は、言葉を持たなかった。
やがて。
「……参った、文句のつけようのない合格だ」
オルトーが、低く呟く。
その声には、敗北の悔しさではなく、戦士としての敬意が滲んでいた。
オリティスは、ほんのわずかに微笑んだ、ゆっくりと手を下ろし、後ろを向く。
「終了……!二人とも試験合格です!」
副官の叫び声が、ようやく静寂を破った。
その声がなければ、誰も終わったと気づけなかったかもしれない。
オリティスは、まっすぐフィナの元へと歩く。
フィナは、口もきけずにただ見つめていた。
(すごい……)
あれが、本物。
次元が違うと、人はここまで静かに勝てるのだ。
(わたしも、いつか──)
初めて自分の中に芽生えた“目標”だった。
強くなりたい。
フィナは、目の奥に力を灯しながら、オリティスの背中を追った。
闘技場から出た二人を受付嬢が出迎えた、そして、受付嬢の手から渡された、二枚の小さな金属板。
それは──冒険証だった。
「これは身元を証明する物にもなりますよ。絶対になくさないでくださいね。再発行は高くつきますから」
優しい笑顔でそう説明する受付嬢に、フィナは真剣な顔でうなずいた。
手に取った冒険証には、しっかりと自分の名前が刻まれている。
この小さな冒険証一枚が、ようやく世界の中の自分を形にしてくれた気がして。
フィナは、胸の奥にほんの少しだけ熱を感じていた。
だが、その静かな時間はすぐに破られる。
「オリティス──蒼閃長がお呼びだ」
階段を降りてきたのは、オルトー、その声には、さっきとはまるで違う敬意が含まれていた。
フィナは、少し不思議そうにオリティスの横顔を見上げた。
「わかった」
オリティスは短く答え、すぐにフィナの方へと向き直る。
「フィナ──」と口を開きかけた瞬間。
「蒼閃長は、オリティス、ただ一人を望んでいる」
遮るようなオルトーの声、ほんの一瞬、オリティスの眉がわずかに動いた、戸惑いと、僅かな不満。
けれどそれもすぐに消える、オリティスは袋を取り出し、フィナの手に握らせた。
「お金だ。今日はもう自由に行動しろ。好きなもの見て、お腹空いたら……ちゃんと何か食べるんだ」
最後にオリティスは少し言い淀んだ後、言葉を紡いだ。
「……そして、選べ、自分の意思でな」
最後に微笑んで言い残すと、背を向けて階段を上っていく。
堂々とした後ろ姿が、冒険者協会の奥に消えるまで──フィナはじっと、動けなかった。
手の中に残った温もりだけが、かすかに残っていた。
フィナは一度、協会の外へ向かおうとして足を止めた。
(でも……待ってるだけじゃ、もったいない)
そう言うと、フィナの足は、冒険者協会の外へ向かっていた。
外へ出た瞬間、昼の光がフィナの視界を満たした。
冒険者協会の重厚な扉の向こうは、別の色が広がっていた。
石畳の道を行き交う人々の足音が重なり、商人の呼び声が風に乗って響く。
オリティスの引率がない、自由なミオルタはなぜか新しい色合いと音がしていた。
虚大穴では聞こえなかった音ばかり。
胸の奥が、少しだけくすぐったくなる。
フィナはゆっくりと歩き出す、足元の石畳は温かく、太陽の熱がじんわりと靴底越しに伝わってきた。
人々の会話が耳に入り、知らない言葉や知らない笑い方が、すべて新鮮に感じられる。
ふと、串焼きの匂いが鼻をかすめる。
(おいしそう……)と思わず立ち止まり、露店の前で一声かけた。
「これ、ひとつ……ください」
「あいよ! 焼き立てだ、気をつけろよ嬢ちゃん!」
手渡された熱々の焼き串を、フィナは嬉しそうに両手で持ち、息を吹きかけながら頬張った。
お肉からじわりと溢れ出る塩気と、上質な脂の濃厚な甘さが、フィナの空っぽだった胃袋を温かく優しく包み込んでくれた。
美味しいものを食べると、自然と元気が湧いてくる。
「ねぇ、君!」
背後から飛んできた少年の声に、フィナは振り返る。
銀色の髪に、いたずらっ子のような笑顔、自分と同じくらいの年頃に見える少年が立っていた。
「さっきの試験で戦ってた子だよね?すごかった!あの大剣、かっこよかった!」
「……ありがと」
思わぬ称賛に、思わずフィナの頬が熱くなる。
まだ照れるという感情には慣れていなかったけれど、嬉しさだけは真っ直ぐ伝わってくる。
「俺さ、君に見てほしいものがあるんだ」
少年が言った。まるで宝物でも見せるような、きらきらした目で。
「ちょっと遠いけど、すっごく珍しい場所なんだ。すぐそこだからさ!」
「……ん、わかった」
ほんの少しだけ、不安があった、でもそれより、知らないものを見てみたいという気持ちの方が強かった。
焼き串をもう一口かじりながら、フィナはその背中を追って歩き出した。




