第4話「芽生える意志」
目を開けると、そこには見慣れない天井があった。
ぼんやりと木の梁を見つめながら、意識がゆっくりと浮かび上がっていく。
窓の外から差し込む光は、虚大穴の冷たい白ではなかった。
柔らかく、どこか金色を帯びた温度のある光。
それが木の床に淡い影を落とし、部屋の空気をゆっくりと温めていた。
外では、誰かが桶を運ぶ音がする。
水が跳ねる音、鳥の羽ばたき、遠くで鐘のような音が鳴った。
人々の話し声や、荷車の軋む音、遠くで動物が吠える声が混じり合って届いてくる。
軒先を叩く靴音、誰かが笑う声、焼きたてのパンを呼び売る声――そのすべてが、この場所が確かに“生きている街”であることを告げていた。
かすかに頬を撫でる風には、香ばしい匂いと、どこか潮の気配が混じっている。
(……ここ、ミオルタ)
フィナは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
助けられて、街に着いて、宿に入って――。
途切れていた記憶が、一気に繋がっていく。
フィナはゆっくりと身を起こし、毛布の温もりから身体を抜け出した。
布団の脇、小さな机の上には、湯気を立てる茶器が置かれている。
その湯気が、部屋に穏やかな時間をもたらしていた。
(誰かが……)
『やっと起床したか、待ちわびたぞ、雑物よ』
――その声は、空気を震わせ、部屋の温度を一瞬で変えた。
「誰?」
白銀の鱗には黒い稲妻が走り、その一枚一枚が鋼のように硬質な輝きを放っていた。
眼は白光に満ち、見下ろすだけで威圧を帯びている。
王冠のように連なる六本の角は、先端に近づくほど白光を帯びていた。
その巨体を支えるのは肉体ではなく、黒炎と白炎が絡み合う奔流。
だが、背からは空気を裂くような巨大な翼が広がり、尾は炎を曳きながら地を薙ぐ。
本能が告げる――竜だと。
『名を言わず、我の名を聞くか、餌の分際で、傲慢な娘だ』
竜が、フィナの顔を覗き込む。
『貴様、この場で喰らえば、オリティスの負担が減るではないか?ん?』
迫りくる竜に、フィナは思わず下がろうとするが壁に当たる。
胸が早鐘を打ち、逃げ場を探すが――どこにもない。
焦りが喉を詰まらせ、視線はただ、白光の瞳に縫い止められていた。
その時、扉が開き、オリティスが入ってきた。
「またか」
――その顔には少し呆れが浮かんでいた。
「……何をしている?」
呆れた声色。そして竜の頭を掴み、上から覗き込みながら言う。
「アジスイデア。フィナは餌ではなく、これから私が導くかもしれない存在だ」
『この雑種をか?無意味だと思うぞ、オリティス。人という塵芥は、いつの時代も我らの足手まと……ッ待て!』
突然、オリティスの背後に黒い裂け目が開いた。
オリティスは最後までアジスイデアと呼ばれた竜の話を聞かずに、そこへ投げ込んだ。
フィナは思わずオリティスに聞いた。
「……今のは?」
オリティスは呆れた顔のまま答える。
「あれはアジスイデア。一応、私の仲間だ、ただ……少し、いや、かなり傲慢が過ぎる。亜空間に放り込んだが、どうせ勝手に出てくる。困ったら言え」
そう言ってフィナの頭を撫で、思い出したように微笑む。
「朝食を食べに行くぞ」
「ん、お腹空いた」
二人は並んで廊下を歩く。
木の床がきしむ音が、静かな空気を満たしていた。
「眠れたか?」
「うん……ぐっすり。ありがと」
「それは、よかった」
それだけ。けれどその一言が、妙に安心感をくれる。
階段を下りると、ふわりと香りが鼻をくすぐった、優しくて食欲を誘う匂い。
食堂には人のざわめきが満ちていた。
装飾のある服、義手の旅人、背中に剣を背負った女性――。
見たことのない人々が、ここにはいた。
食堂の奥では、料理人が大鍋をかき混ぜている。
湯気が立ち上り、香辛料の香りが鼻をくすぐった。
隣の席では、旅人らしき男が地図を広げて仲間と話している。
「昨日の外縁は静かだったな」
「また、旧区画の方で何かあったらしいぞ」
そんな会話が耳に入るたび、フィナは思わずそちらを見てしまう。
「……賑やか」
思わず、ぽつりと口から漏れる。
オリティスは空いた席を見つけ、すっと座った。
フィナも向かいに腰を下ろす。
すぐに店員が、文字の書かれた板のようなものを明るく差し出してきた。
オリティスは即座に指差す。
「この2つ」
迷いはなかった。
フィナは逆にメニューを見つめ、数秒の沈黙。
(どうしよう……ぜんぶ美味しそう)
「……えっと、これ」
目についた料理を指差す。勢いだけの選択。
「はいはーい、お待ちくださーい」
店員が去ったあと、ふたりの間に静けさが戻る。
やがて運ばれてきた料理は、スープ、焼きパン、香ばしい肉。
湯気の香りだけで、胃が刺激された。
フィナはしばらく眺め、ひとまず、スープをひと口。
「んっ……美味しい」
思わず顔が綻ぶ。パンに手を伸ばし、ちぎって口へ。
「美味しい……」
オリティスは、美味しそうに食べるフィナを見つめる。
ふっと微笑んだ後、静かに口を開いた。
「今日は冒険者協会に行くぞ」
「……?」
スープを飲む手が止まる。
「冒険者登録をする、冒険証があると色々と便利だからな。移動の確保、物資の購入、信用証明――危険から守ってくれる証明書だとでも思えばいい」
フィナは一瞬黙り、すぐに頷く。
「ん、わかった」
でも――その言葉に、胸が少しだけ高鳴った。
(冒険者……)
オリティスから聞いて、なんとなく憧れていた存在。
そのままパンを頬張り、スープを飲む。
「落ち着いてゆっくり食べろ、飯も冒険者協会も逃げない、私もな」
「……ん」
食事を終える頃には、朝の喧騒はさらに増していた。
フィナは席を立ちながら、無言でオリティスを見上げる。
「準備ができたら、出るぞ」
その言葉に、迷いはなかった。
食事を終え、宿から出た二人はそのまま冒険者協会へと向かい始めた。
オリティスの足取りは、まるでこの街の地形をすでに記憶しているかのようだった。
誰よりも自然に、そして堂々と、都市の喧騒を縫うように歩いていく。
通りを歩くたび、風景が次々と変わっていく。
果物を売る屋台では、赤や黄色の果実が山のように積まれ、子どもたちが手を伸ばしては店主に叱られていた。
鍛冶屋の前では、若い職人が真っ赤に焼けた鉄を叩いている。
火花が散り、金属の匂いが風に混ざった。
布屋では、鮮やかな布が風に揺れ、旅人が値段交渉をしている声が聞こえる。
(……全部、初めて見るものばかり)
フィナは歩きながら、何度も立ち止まりそうになった。
そのたびにオリティスが振り返りフィナを見守り、フィナが満足すれば再び先を歩む。
その仕草が、なぜか少しだけ嬉しかった。
彼女の存在感に、人々の視線が集まる。
黒髪の長身、異質な格好、隠しきれない威圧と気高さ。
けれど本人は、まるで気にも留めていない。
フィナはその背中を追いながら、目に映るすべてを観察していた。
屋台、看板、行き交う商人、走り回る子どもたちの笑い声。
自分が少しずつ、“街”に慣れていくのを感じていた。
宿から暫く歩き、回響市を抜け――そして、角を曲がったその先。
高くそびえる石造りの建物が、街並みの中でひときわ異彩を放っていた。
外壁は深い蒼灰色の石で組まれ、ところどころに金属の補強が施されている。
その石はただの建材ではなく、陽光を受けるたびに淡い青光を返していた。
正面には大きな階段があり、その両脇には古い獣の像が鎮座している。
片方は翼を持つ獅子、もう片方は角を持つ狼。
どちらも今にも動き出しそうなほど精巧。
扉の上には青い紋章と、荘厳な金文字。
紋章は――蒼い剣が大地を貫く意匠。
その周囲を囲むように、7つの星が刻まれていた。
扉は厚い木材に黒鉄の装飾が施され、中央には二本の剣が交差している。
近づくと、鉄の匂いと古い木の香りが混ざり合う。
建物の周囲には、冒険者たちが思い思いに腰を下ろし、武具の手入れをしている。刃を研ぐ金属音、革紐を締め直す音、誰かが笑いながら戦いの武勇談を語る声。
階段の横には、古びた掲示板が立てかけられていた。
紙は何度も張り替えられた跡があり、端が破れた古い依頼書が風に揺れている。
その中には、見たことのない文字や印章が並んでいた。
(……ここが、冒険者の場所)
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
恐怖ではなく、期待でもなく――ただ、知らない世界へ踏み出す前の静かな高鳴り。
「……ここが」
「あぁ、ミオルタの冒険者協会、名前は確か蒼閃支部冒険者協会だ、冒険者協会は元来、その支部の設営に最も貢献した冒険者の名が冠されるのが通例だ」
そう言いながら、オリティスは階段を上がり、扉を押し開けて中に入る。
冒険者協会の中は、熱気と喧騒の渦だった。
石と木で造られた重厚なホールには、冒険者たちの笑い声、議論、そして武器の金属音が交差している。
情報掲示板の前では、数人が依頼について言い争いをしていた。
受付では、旅装の男女が真剣に受付と会話している。
「……わぁ」
その空気に、フィナの足が止まりかけた。
協会の天井は高く、光が差し込む窓には青い紋章が刻まれている。
壁には古い武器が飾られ、どれも歴史を感じさせる傷がついていた。
受付前の列には、魔術師のようなローブ姿の女性、大盾を背負った男、そして見たことのない獣人の姿まであった。
(……いろんな人がいる)
フィナは思わず息を呑む。
視線を感じて、反射的にオリティスの背に隠れる。
けれど、オリティスは迷いなく進む。
そのまま空いている受付へ。
凛とした受付嬢が顔を上げた。
「……初めてお見かけしますね。ここは登録受付ですが、間違いないですか?」
「あぁ、冒険者登録をしに来た、二人分」
受付嬢は微笑み、登録用紙と資料を差し出した。
「ありがとうございます。それでは、冒険者階位についての説明はいかがなさいますか?」
「頼む」
資料の一枚が広げられる。
「現在、冒険者の評価制度は7つの階位と規格外に分かれています」
「最初は下位階位、ルキです。いわば見習いですね。登録直後の段階で、教育や観察が中心になります」
「次がバリス、初心者さんです。簡易任務が開始でき、基礎訓練も受けられます」
「そして、フェルス、ここからは中級者として認められますよ、単独の外縁任務や魔物討伐が任されることになります」
「ここからが中位階位です、ギルア、ついに上級者です。独立活動が認められ、自由度が上がります」
「ゾディア、英雄級です。この段階では、2つ名がつくこともありますよ!」
「そしてエクスロア。伝説級で、国家単位との契約をする人もいます!そして必ず2つ名を与えられます」
「そして高位階位、アルムタス、神話級の存在です。なんと世界に27名しかいません、次元が違う存在ですよ」
「最後に到位階位、ヴァルシスです、規格外であり冒険者協会では計り知れない存在ですね。冒険者に限らず、王、聖者、災厄までも含みます。測定不可……本当に居るんですかね」
フィナは資料をじっと見つめ、ひとつひとつの言葉を反芻するように読んでいた。
「魔物を倒すこと自体は自由ですが、魔物との戦闘で怪我や死が生じても、冒険者協会は責任を負いません。それでも、登録なさいますか?」
受付嬢の視線は、オリティスではなくフィナに向けられていた。
「する」
「はい!では、白亜貨二枚になります、あ、あと、もちろん、冒険者協会は全力で支援します!」
オリティスが机に白亜貨二枚を置き、受付嬢はそれを受け取り、すっと立ち上がり、二人を案内する。
「それでは、お二人には登録試験を受けていただきます。こちらへどうぞ」
案内された先は、冒険者協会奥、石造りの闘技場。
中央には、円形の訓練場が広がっていた。
床は石ではなく、細かく踏み固められた淡い砂で覆われている。
無数の足跡が重なり、ところどころ深く抉れた跡が残っていた。
砂は乾いている部分と湿って固まった部分が混ざる。
踏みしめるたび、砂がわずかに沈み、その下に隠れた硬い地面がかすかに音を返す。
舞台の縁には、砂が跳ね上がった跡が帯のように残り、過去にここで繰り返された攻防の激しさを物語っていた。
舞台の周囲には、訓練用の木人や、刃こぼれした模擬武器が無造作に立てかけられていた。
壁には、過去にここで鍛えられた冒険者たちの手形や、魔術の焦げ跡が幾重にも残っている。
床に刻まれた傷は浅いものから深いものまで様々。
空気はほんのりと温かく。
陽の光が差し込んでいるわけではないのに、石壁にこもった熱がじわりと肌に触れる。
遠くの区画では、別の冒険者たちが掛け声を上げながら体術の訓練をしている。
拳が風を裂く音、足が床を叩く音が、低く響いていた。
「ここで試験をします。内容は簡単、試験官との戦闘で合格を貰えれば大丈夫です。怪我のないようお気をつけて」
オリティスは振り返り、短く言った。
「無理はしなくていい、だが、全力を出すこと……わかったか?」
フィナは、静かに頷いた。
「わかった」




