第3話「生きる意志」
しばらく、平原を進んでいくと──小さい角が生えた緑色の肌に棍棒を握った、魔物が姿を現した。
「……あれが醜精だ、最弱の魔物と呼ばれているが、群れれば脅威は増す。だから見かけたら始末しろと言われている」
オリティスの声に、フィナはごくりと唾を飲み込み、ゆっくりと剣を構えた。
身体強化のおかげで、前よりも剣は軽く感じられる。
「最初は体力を残すことを意識しろ。危なくなったら助けを呼べ。呼ばなければ、どんな状況でも戦い続ける意思があると判断する」
その言葉に緊張が走る。だがフィナは短く頷いた。
「ん」
フィナは走り出した。
(戦い方はわからない……でも、真似ならできる。オリティスは速かった。なら──)
「すぐ、倒す」
遅れて醜精たちが気づき、少女の姿を見て下卑た笑い声を上げる。
同時に3体が突進してきた。
(ん?まずいかも……)
それでも足は止まらない、1体がフィナに飛びかかり、棍棒を振り下ろす。
フィナは不格好ながらも剣を前に突き出し、棍棒が斜めに剣の側面に当たり、自然と受け流せた。
その勢いのまま剣先が醜精の首へと突き刺さった。
赤い血が飛び散り、フィナは即座に剣を引き戻し、すぐに周囲を見渡した。
無意識に魔力を目に集めていた。
魔力を目に流した瞬間、視野が広がり、醜精の筋肉の動きや、次に棍棒を振り下ろす軌道が、細い光となって視界に浮かび上がった。
左右から迫る2体、囲もうとしている。
(なら、こっちの一人を狙う)
左の醜精へ駆け寄る。
醜精は驚いたように目を見開くが、すぐに棍棒を構えた。
フィナは横に剣を構え、足を踏みしめ、両手で大振りに振り下ろす。
「グギャッ!」
剣は腕に食い込み、斬り進むが途中で止まった。
「むっ……」
抜けない。
(もっと大きくて、重い武器が欲しい……)
力を込めて剣を引き抜いた瞬間、背後から「ギャッ」という悲鳴が響いた。
「あっ……」
振り返ると、後ろから迫っていた醜精の頭に剣が突き刺さっていた。
「んっ!」
両腕に魔力を込め、そのまま、剣が刺さったまま、醜精の体ごと持ち上げた。
腕を抑えていた醜精に斬りかかった瞬間、剣が折れた。
切れ味が失われ、叩きつける結果になり、醜精が吹き飛んだ。
だが倒れたまま起き上がらず、胸だけが上下し、苦痛の声を漏らしている。
まだ息がある。
フィナはゆっくりと近づき、折れた剣を首に当てる。
そして、ためらいもなく振り下ろした。
静寂の中、フィナは立ち尽くし、自分の手を見つめた。
(命を奪った……でも、何も思わない。1回命を失いかけたから?)
その手を、オリティスがそっと包み込む。
気づけば震えていた、理解できずとも、罪悪感が胸を満たしていた。
「フィナ、これが世界だ。人類は生存競争のただの一集団にすぎない。生きるためには、生きる術を学ばなければならない。命を奪うことは、他の命を救うことでもある。罪悪感はいらない、生き残った実感を持て」
フィナは強く頷いた。
「ん」
これが、生きる意志なのかもしれない。
「今の戦闘は、危うい場面もあったが……最初にしては上出来だったぞ」
静かに告げられたオリティスの言葉に、フィナは小さく息をついた。
張り詰めていた糸が、ようやくほどけていく。
「……剣、折れた」
ぽつりと落とした声は、悔しさとも安堵ともつかない揺れを含んでいた。
「街に行けば新しいのが手に入る、どんな武器を望む?」
問いかけは淡々としているのに、どこか優しい、フィナは少し考え、指先を握りしめた。
「……重くて、大きな武器」
「……なぜ?」
オリティスの視線が横からそっと向けられる、フィナは言葉を探し、唇をわずかに尖らせた。
「……んー、すっきりするから?」
その答えに、オリティスは一瞬だけ目を細めた。
呆れでも否定でもなく、フィナを理解しようとする静かなまなざし。
「そうか。なら――大剣を試すがいい」
「……大剣」
そんな会話を交わしながら草原を進むと、湿った土と草の香りが薄れ、乾いた石と鉄の匂いが混ざり合う。
フィナは思わず足を止め、目を細めた。
遠くに少し大きな町が見え始める。
「あれが、ミオルタだ」
それは、想像していたような安全地帯ではなかった。
街の外壁は崩れ、補修の跡が雑に重ねられている。石材の色が違う部分がいくつもあり、急ごしらえで直したのが見て取れた。
門の近くには折れた槍や焦げた木片が散らばり、かつてここで何かが暴れ、容赦なく殲滅した痕跡が生々しく残っている。
風が吹くたび、瓦礫の隙間から乾いた砂が舞い上がる。
その音は、森の柔らかなざわめきとはまるで違う。
「……あれが、街?」
フィナがぽつりと呟く。
(……静か)
風が吹いているのに、街からは生活の音がほとんど聞こえない。
遠くで鳥が鳴く声だけが響き、街そのものが息を潜めているようだった。
フィナはあたりを見渡していると、奥の白い壁が目に留まった。
「……あれ、壁」
街の内部に、さらにそびえ立つ白色の壁、外壁よりも新しく、滑らかで、無機質。
その壁の向こうから、微かに温かい風が吹き抜けてくる、自然の温かさとは違う、人の温かさを含んだ風。
「手前に見えるのが旧区画。アケホラ通りだ」
声は低く、硬かった。
「過去、喪失獣の群れの襲撃で崩壊した区域。今は放棄され、住人はいない……だが、時折、荒くれ者や流れ者が勝手に住み着くと聞く」
「……危ない?」
「あぁ、私がいない時は、近づかないこと、約束しろ」
その言い方には、いつもの柔らかさではなく、明確な命令の力があった。
フィナは、小さく頷いた。
「わかった」
フィナの視線は、さらに外側へと向いた。
崩れた建物の影に、ひときわ異様な“形”があった。
教会だった。
かつて祈りの場だったであろう白い外壁は、今では黒く煤け、半分以上が崩れ落ちている。
尖塔は途中で折れ、残った部分は空に向かって歪んだ指のように突き出していた。
オリティスもフィナの見る先に一瞬だけ視線を向けた。
「……あれは旧聖堂だ。旧ミオルタの中心区にあった建物で、喪失獣が最初に溢れ出した発生源とも言われている。襲撃の際、真っ先に崩壊した場所だ……だから誰も近づかない。今では、謎を残したまま放棄されている」
フィナは教会から目を離せなかった。
胸の奥がざわりと震え、あの場所がただの廃墟ではないと直感した。
やがて、門が見えてきた。
前には警戒する門番、二人を見るなり、手を伸ばして制止した。
「……来訪者かい?」
オリティスは落ち着いた声で答えた。
「あぁ、旅を始めたばかりで、冒険者登録のために来た」
簡潔な言葉。その響きに、嘘はなかった、門番は二人をしばらく観察し、それから頷いた。
「……害はなさそうだね。調査区域には近づかないように。旧区画もだよ」
「心得ている」
短いやり取りで、二人はミオルタの地に足を踏み入れた。
街の空気は、思った以上に生きていた。
外の荒れた街とは違い、活気に満ち、笑顔があふれていた。
石畳はところどころ欠けているが、その上を行き交う人々の足取りは軽い。
荷車を押す商人、武具を背負った冒険者、子どもたちの笑い声、それらが混ざり合い、賑わっていた。
虚大穴では喉に詰まるようだった空気が、ここでは人の言葉や笑い声で、絶えず振動している。
屋台から漂う香ばしい匂い、焼き肉の香りが混ざった空気に、フィナは一瞬立ち止まり、鼻をくすぐられた。
(……いい匂い)
通りの両脇には、色とりどりの布が揺れている。
乾いた風が吹くたび、布がはためき、その向こうから商人たちの呼び声が響いた。
「安いよ!今日の肉は新鮮だよ!」
「薬草ならこっちだ、冒険者さん!」
フィナは思わず目を丸くした。
虚大穴では聞いたことのないオリティス以外の人の声が、こんなにも温かく、賑やかで、力強いものだとは知らなかった。
周囲を観察するフィナの手を、ふいにオリティスが取った。
「ここは人が多いからな、逸れたら面倒だ」
その言葉は、いつもよりも少しだけ強く、だが確かに、優しかった。
フィナは手元を見て、それからオリティスの顔を見る。
「……ありがと」
短く、でもまっすぐに言った、そしてその手を、握り返す。
通りの奥では鍛冶屋が金属を叩く規則的な音が、街の喧騒に混ざり、どこか安心感を与える。
冒険者と思しき男たちが酒場の前で談笑している。
肩には大剣、腰には短剣、その姿は荒々しいが、どこか誇らしげだった。
「ここは回響市だ。この都市で一番の市場」
オリティスは説明を始める。
「屋台や鍛冶屋、宿、一般的な街にある施設は一通り揃っている。前線基地から都市規模へと発展した名残で、冒険者向けの店が特に多いぞ」
フィナは頷きながら、周囲を見渡した。
人の声、匂い、色、熱、虚大穴とはまるで違う世界。
(……冒険者の街……?)
「すぐ近くに縁荘亭という宿がある、暫くはそこを拠点にしよう」
「ん……わかった」
通りに並ぶ屋台のひとつで、フィナの足が止まった。
串焼きの屋台。フィナはじっと見つめ、そして一言呟いた。
「……食べたい。いい?」
「あぁ、今日のご褒美だ。好きに選べ」
その返事を聞いた瞬間、フィナの表情がふわりと綻んだ。
「んっ……美味しい」
串焼きをかじりながら、また別の屋台に目を向ける。
今度は蒸し菓子。甘い香りと湯気がふわりと広がる。
「……これも、気になる」
「じゃあ、全部食べて、回復し、力を付けろ。」
屋台を巡り、食べ歩きながら進むふたり、やがて、優雅な看板が現れた。
縁荘亭、雨に濡れてもなお、温もりを感じさせる佇まい。
建物は街の喧騒から少し離れた場所にあり、市場の賑わいが遠くに霞むほど静かだった。
外壁は淡い灰色の木材で組まれ、雨に打たれても色褪せることなく、むしろ深みを増している。
軒先には小さな風鈴が吊るされており、風が吹くたびに、かすかな音色が響いた。
小庭には色とりどりの花が咲き、雨粒を受けて静かに揺れている。
扉を開けると、優しい鈴の音が響いた、出迎えたのは、鋭い目つきの老女だった。
「いらっしゃい。宿ならこっち、酒場は奥、支払いは退去の時だよ」
オリティスは軽く頷く。
「部屋をひとつ、ベッドが2つあると嬉しい。静かな場所を頼む」
「あいよ、二人用の部屋ね」
老女は頷き、案内を始めた。
その間、フィナは無言で周囲を見渡していた。
壁には淡い色の布が掛けられ、雨に濡れた外とは対照的に、温かい空気が満ちていた。
天井から吊るされた小さな灯りが、ろうそくのような柔らかい光を落としている。
奥からは、酒場のざわめきが微かに聞こえる。
笑い声、食器の触れ合う音、そして香ばしい料理の匂いが、廊下まで漂ってきた。
廊下には、旅人が置いていったであろう古い靴跡が残り、壁際には小さな花瓶が並べられていた。
(……あったかい)
フィナは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
虚大穴の冷たい空気とはまるで違う、人の暮らす場所の匂いがした。
ベッドが2つ、その光景に、フィナの目が輝いた。
「……ふかふか……」
そう呟いた直後、ベッドに倒れ込む。
柔らかな布団が身体を包み込み、沈み込む感触が心地よかった。
目を閉じると、今日の出来事が鮮やかに蘇る。
死を目前にしたあの恐怖。喉が焼けるように痛くて、世界が狭まっていった瞬間。
そして、オリティスに救われたあの光。
太陽の下で感じた、初めての安心。
頼れる人ができたのだと、胸の奥で静かに理解した瞬間。
――導いてくれる存在がいるという安堵。
けれど、それが本当にそうなのかはまだわからない。
信じていいのか、頼っていいのか、答えはまだ見えない。
(意思……私の、物語……)
道すがらオリティスが語った言葉が、何度も何度も頭の中で反響を繰り返す。
意思とは、一体なんなのだろう。
自分の物語を綴るとは、どういう重さを持つことなのだろう。
考えれば考えるほど、胸の奥が不思議にざわついた、自分は、この世界のことをまだ何1つとして知らない。
あの虚大穴の底に囚われていた時と、何も変わっていないような気さえしてくる。
選ぶということは、どういうことなのか。自分で未来を決定するということには、どんな重い責任が伴うのか。
そして、その選択の果ては、自分を一体どこへ連れていくのだろうか。
オリティスが語った終着点、その先にある誰も知らない最果て。
その壮大な言葉の意味を深く思考するたび、押し寄せる心地よい疲労感によって、フィナの瞼がじわりと重くなっていく。
これから先、きっと多くの困難や未知の出来事が起こるのだろう。
死の淵を乗り越えた。けれど、あの化け物に対する本能的な恐怖が消え去ったわけではない。
今もなお、未知に対する細い不安が、静かに胸を締めつけている。
未来を思うたびに、また新しい恐怖の芽が生まれる、でも、不思議とそれは嫌な感覚ではなかった。
恐怖を感じるということは、心のどこかでもっと生きたい、前に進みたいと強く願っている自分が、確かにここに存在していることの証拠でもあると思えたから。
そのとき、ベッドに突っ伏していたフィナの銀髪の頭に、不意に温かい手がそっと添えられた。
オリティスの長い指先が、愛おしむように優しくフィナの髪を撫でていく。
ただそれだけの、言葉のない触れ合い、それだけで、言葉を尽くすよりも確かな柔らかな温もりが、フィナの隅々にまで速やかに広がっていった。
強張っていた身体の緊張がすっとほどけ、浅かった呼吸がゆっくりと深くなっていく。
胸の奥で渦巻いていた不安のざわめきが、オリティスの温もりに溶かされるようにして、静かに消えていった。
次の瞬間には、フィナから、穏やかな寝息が漏れ始め、フィナは深い眠りの底へと落ちていった。
オリティスは、眠りについたフィナの幼い寝顔を、愛おしさと、懐かしい残影を重ね合わせるようにして、しばらくの間じっと見つめていた。
やがてオリティスは、起こさないようにそっと頭から手を離すと、窓の外の雨音に溶けてしまうほどに小さな声で、囁くように呟いた。
「……おやすみ、フィナ。よく頑張った」




