第2話 「オリティス」
黒い煙が空に消える中、2人の影が向き合っていた。
瞳に強い光を宿す少女──フィナ。
そして、漆黒の髪と圧倒的な存在感を纏う長身の女性。
へたり込んでいたフィナは──自然と、見上げる形になった。
先ほどよりも、顔がよく見える。
金の眼は左右で少し違った、左には虹色の白光が薄っすらと見え、右には薄っすらと黒と赤の線が走っていた。
その異質さに、胸がざわめく。美しい──けれど、畏れを抱かせる美しさ。
黒髪の女性は、屈むことなく立ち続けている。
上半身には黒い服を着ており、腹筋がうっすらと浮かぶ滑らかな曲線が月光に照らされていた。
黒銀を基調に白銀の刺繍が施された短いコートを、肩から掛けるように無造作に羽織られていた。
フィナを見下ろしながら黒髪の女性が優雅に微笑み言う。
「立てるか? まだ震えてるようだが」
落ち着いた、期待の色を含んだ声。
だがそれは、同時に命令に近い圧を孕んでいた。
フィナの心臓が一瞬、圧に跳ね上がるが、それでも、ゆっくりと頷いた。
「……大丈夫、動ける」
「ふふ、ならいい」
化け物たちの死が、黒い煙で巻き上がる中。
黒髪の女性は黒い刀を腰の鞘に納刀し、フィナに向かって歩み始めた。
警戒を露わにするフィナに女性が優しく言う。
「私はオリティス。この世界を彷徨い、迷子の羊を導く──羊飼いとでも言おうか」
「……羊飼い?」
「あぁ」
言葉と同時に一歩踏み出したオリティスの姿は掻き消え、気づけばフィナのすぐ傍にあった。
咄嗟に身を引こうとするフィナの手を、彼女は優しく引っ張り、フィナの顔を覗き込む。
「お前のような、世界に寵愛された迷子の羊をな」
理解できない言い回しにフィナは困惑し、知らないことへの恐怖に胸を締め付けられる。
(わからない、この人)
オリティスはそっと手を放した。
すぐに一歩だけ下がったフィナを咎めることもなく、振り返って、化け物たちの消えゆく光景を静かに見つめていた。
「あれらの名は“思い出”、人間らしく粗野に言えば、記憶残留が生み出す記憶の成れの果て──喪失獣と呼ばれている」
「喪失獣……思い出?」
「そうだ、かつてこの地に生きた者たちの記憶──思い出が腐り、歪み、やがて形を持ったのがあれらだ。原因は不明だが、負の記憶、つまり悪夢が暴走した結果だ」
オリティスは淡々と語った。だが、その声色には静かな追悼が滲んでいた。
その響きに、フィナの警戒はわずかに解けた。
フィナの頭の中で単語が渦を巻く。
だが、すべては理解の外だった。
「無理に理解しなくていい。思い出を学び、そして、理解している人なんていないからな。それに──ここは虚大穴。記憶の最深層、人類が未だ踏み入れられず、理解すらできない区域……お前が生きていること、それ自体が奇跡に近い」
フィナの背筋がぞっとする。人類が未だ踏み入れられず、理解すらできない区域。
体が思わず震える、先ほどの恐怖が鮮明に蘇る。
呼吸が浅くなる、世界が狭まり、音が遠のく──そして、温もりが全てを覆った。
「怖がらなくていい」
そう言って、オリティスは突然、フィナの身体を抱き上げた。
腕はしっかりとしていて、暖かい──恐怖が解けるかのように。
「な……っ」
「落ちない。信じろ」
次の瞬間、景色が動いた、足が地面を離れ、空を駆けていた。
耳鳴りの奥で心臓の音だけが響く。
草木に覆われた廃街が遠ざかり、点になり、ただ空気だけが耳を刺す。
視線の先には空が広がり、太陽が完全に昇りきっていた──世界は日の出の光で満ちていた。
「見ろ、まるで、あの魔物たちが豆粒の様だろ?あんなもの怖がる必要はない」
オリティスはそう言い、フィナの目を見た。
「もう、お前を縛るものは何もない」
フィナの目に涙が滲み、今にも零れ落ちそうになり。唇が震える。
オリティスは額を重ねる。二人の間に、言葉より深い沈黙が降りた。
風が止まり、ただ光だけが揺れていた。
「お前にはもう頼れる存在がいる。だから泣かなくていい、恐れる必要はもうないのだから」
衝撃を感じさせない着地。
あの化け物たちが点に見えるほどの高さから、オリティスは涼しい顔で着地した。
(この人、わからない……でも、暖かい。暖かいなら、信じてもいい?)
オリティスは優しくフィナを降ろし、問いかけた。
「……少しは落ち着いたか?」
「……ん、ありがと」
短く答えるフィナの頬に残った涙を、オリティスは指先でそっと拭った。
フィナの瞳にはもう恐れではなく、理解したいという強さが宿っていた。
「私は……フィナ」
「知っている、とても大事な名だからな」
フィナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「さっき物語って言ってた。……あれ、どういう意味?」
その問いに、オリティスは静かに振り返り、すっと歩き出した。
「歩きながら話そう。じっとしていても、意味がない」
有無を言わさぬリード。
けれど、不思議と安心感があった。
フィナは何も言わず、すぐに後を追った。
だが──歩幅が違う。すぐに距離が開いてしまう。
「あ……待って」
その小さな声に、オリティスはふと振り返り、歩みを緩める。
「……悪いな、未だに慣れていない」
「……だいじょぶ」
無表情のまま答えるフィナ。
だが、オリティスの歩調と並んだとき、フィナは少し安心した。
高い木が並ぶ森だが、視界は開けていてよく見える。
鳥の鳴き声や木に何かが打ち付けられる音にフィナは驚く、森の中にはいくつも気配はあるが不思議と2人に近寄る様子はない。
一本一本の木が、異様なほど高い。
幹は空へ向かって真っ直ぐ伸び、枝葉は遥か上空で広がっている。
風が違う。虚大穴の冷たく乾いた風ではない。侵食のように広がった自然でもない。
ここには、湿り気と温度があった、草の匂い、土の匂い、木の皮の匂い──生き物の匂い。
過去の遺物が上書きされて出来た死の上の自然ではなく、純粋な自然。
木々の間は広く、見通しが良い。
普通の森なら鬱蒼として暗いはずなのに、ここは光がよく通る。
木の根元だけが、妙に濃い緑で覆われていた。
胸の奥がざわつく。
初めて触れる世界の“温度”に、身体が追いつかない。
「今は世界に慣れろ、お前は産まれたばかりの存在に近い」
「……ん」
フィナは足元に目を落とす。
土は柔らかく、踏むたびにわずかに沈む。
苔や小さな草花が、まるで競い合うように密集していた。
その感触が、妙に心地よかった。
木の下だけが、異様に“生きている”。
まるで森そのものが、木々の根元に生命を集めているかのようだった。
「……世界って、こんなにも生きてる?」
「いや、この森は特殊だ、虚大穴の外縁域は魔力が濃い。木々はその魔力を吸い上げ、高く聳え立つ。だが高くなるほど幹を支えるために、根元へ栄養を溜め込む必要がある。その結果、木々の根元から溢れた栄養が地面に流れ込み……こうして下だけが異様に豊かになる。」
オリティスの説明は淡々としていたが、フィナにはその言葉が“この世界の異質さ”を静かに突きつけるように感じられた。
風が吹き抜ける。
高い枝葉が揺れ、光がちらちらと降り注ぐ。
その光は、虚大穴の冷たい月光とは違い、どこか温かかった。
(……綺麗)
森の奥から、小さな影が走り抜けた。
フィナは反射的に身を固くするが、影はすぐに草むらへ消えた。
「安心しろ。あれはただの小動物だ」
オリティスが言う。
その声は森の音に溶け、静かに響いた。
「生き物の気配も強いが……私がいる限り、近寄ってはこない」
その言葉に、フィナは少しだけ息を吐いた。
(……守られてる)
そう思うと、森の音が少しだけ優しく聞こえた。
森を抜け、平原が見え始め、整えられた道に出る、そして、その先に朽ちた看板があった。
そこには、辛うじて『ミオルタ』と読める文字。
「今から向かうのは、辺境都市ミオルタ。虚大穴の外縁域にある都市だ……一応“安全圏”と呼ばれているが、正直微妙だな、冒険者たちのおかげで何とか維持されている」
冒険者という言葉がフィナの関心を惹きつける。
「冒険者?」
「あぁ、簡単に言うとなんでも屋だな、薬草採取から魔物討伐、治安維持、様々なことを請け負っている、子供がなりたい職業では万年2位だ」
冒険者の詳細を聞き、凄く興味がそそられるがフィナは最後に引っ掛かった。
「2位?1位は?」
「英雄だ」
フィナは少し納得した。
「ミオルタで1度整え。その上で、君が本当に“物語”を綴りたいか、考えて欲しい」
「……自分で?」
「そうだ、君の意思で描く物語だ、他人に決められる人生なんて退屈に終わるからな、私はあくまでも導き手だ、お前を縛る主ではない」
オリティスは、真正面からフィナを見つめた。
その眼差しに、フィナはゆっくりと頷いた。
「わかった、考える」
たったそれだけの言葉だった。
けれど、それは確かな決意だった。
自分が、自分で選んで物語を描く──それはすごく大事なことだと思ったから。
──違う歩幅のふたり。
足元を見つめながら、フィナは歩いていた。
身体ではなく、思考も前に進んでいるような感覚。
──“君の意思で描くもの”。
オリティスのその言葉が、脳裏で何度も繰り返される。
“意思”とは、なんだろう。
虚大穴で感じた、生きたいは、あれは本能だった。
必死だった。ただ逃げた。でも、抗おうとした。それは──。
(意思……?)
まだ、答えは出ない。
ふと、前を歩くオリティスの背中を見る。
すらりとした後ろ姿。風を割るような存在感。
どうして、自分を助けたのだろう。
何の得もないはずなのに。
フィナの問いかけに、答えは返ってこない。
──ぽつり。
頬に、冷たいものが触れた。
「……雨」
空を見上げる。
いつの間にか灰色の雲が広がっていた。
しとしとと、優しい音。心が落ち着き、思考が澄み渡っていく。
フィナは、立ち止まって雨を受けた。
濡れた頬。香り。空気の密度。どこか懐かしく、遠い。
「……きれい」
小さくつぶやいたとき──。
直後、ふわりと光が揺れる。
透明な帳が、二人の頭上を覆っていた。
雨はその上で弾け、内側は一滴も濡れていない。
ゆっくりオリティスの方に向く。
だが、オリティスはただ静かに前を向いたまま。
言葉もなく、視線も交わしていない。
でもオリティスが何かしたと、分かる。
オリティスは不思議な力を持ち、そして、フィナにとって、まだ知らない何かなのかもしれない。
けれど、それ以上に──オリティスの数々の気遣いがフィナに温もりを与えていた。
説明もない。押しつけもない。
ただ“そこにある優しさ”。
胸に手を当てる。
鼓動は、先ほどよりも穏やかだった。
(あのとき感じた“信じられる何か”……この人だった)
言葉が浮かぶ。口に出すべきか、一瞬迷う。
けれど、それも意思だと思えた。
「……ありがと」
雨音にかき消されそうなほどの小さな声に気づき。
オリティスはほんの一瞬だけ、横目で彼女を見て──そっと頷いた。
「気にするな」
フィナの胸に、何かが静かに灯る。
──意思って、こういう小さなところから始まるのかもしれない。
それは、言葉にならないほど静かで、けれど確かな“最初の一歩”だった。
しとしとと降り続ける雨が、森を静かに包んでいた。
透明な帳の内側で、ふたりの足音だけが小さく響く。
オリティスはふと足を止め、振り返ってフィナを見た。
その手には、フィナが拾った折れた剣が握られている。
「この先に魔物がいるな、3体──醜精が」
「醜精?」
「あぁ、緑色の肌を持ち、小さい角を持つ、魔物だ」
静かに告げると、オリティスは折れた剣を一度置いて、言う。
「今から実戦の為に基礎を教える」
急な実戦の宣告に、フィナの心臓は跳ねた、だが、怯むことなく頷く。
「今から教えるのは、基礎中の基礎──魔脈についてだ、手を私の手に重ねろ」
オリティスが両手を差し出す、フィナは言われるままその上に自分の手を重ねた。
置いた途端、オリティスの掌から何かが流れ込んでくる。
水のように澄んだものが血管を巡るように身体を駆け抜け、全身がじんわりと温かくなる。
「感じたか?身体を巡るその温かさ──それが魔力だ。今、お前の魔脈を通ったその感覚を掴んで、意識を集中させろ」
オリティスは地面に落ちていた小石を拾い、フィナに渡した。
「今日はまず、身体強化を覚えろ。身体強化は“注入型”。魔脈に流れる魔力を自分の肉体に注ぎ込み、密度を高めることで身体なら、筋力や耐久、目なら反射神経を強化できる、今感じた温かさを思い出し──もっと熱くしろ、今回は手に集中してみろ」
フィナは目を閉じ、体内を巡る魔脈を思い描いた。
血が流れるように、魔力もまた自分の中を巡っている。
その流れを手へと導く。自分の意思で、確かに。
思わず手に力がこもる。
小石にひびが走った。
「その調子だ、あと少し」
オリティスの声に励まされ、フィナはさらに丁寧に魔力を操る。
そして──石は粉々に砕け散った。
「……で、できた」
フィナの声は震えていたが、確かな達成感が宿っていた。
オリティスは微笑み、フィナの頭を撫でる。
「よくやった。偉いぞ」
そして再び折れた剣を差し出す。
「安心しろ、後ろには私がいる」
フィナは剣を受け取り、強く頷いた。
「ん!」




