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『最果を探す冒険譚』  作者: 灰那
第1章「この理想を、世界が許すまで」・ミオルタ編

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第21話「憧憬の距離」

 朝の光が差し込む通路で、フィナはぼんやりと空を見つめていた。

 戦いの翌日だというのに、身体は驚くほど軽い。むしろ、動きたくて仕方がない。


 街を歩きながら食べ歩き、気づけば串を三本も平らげていた。


「……どうしよう」


 フィナは、肉団子串を頬張りながら悩んでいた。口いっぱいに詰め込んでも、考えはまとまらない。

 ――朝、オリティスに言われた言葉が脳裏に蘇る。


『今日は休みだ、好きに過ごせ。修行は禁止だ。遊んだり、興味のあることを見つけろ、困ったら図書館で本を読め』


 オリティスはそう言って、部屋から追い出すようにフィナを送り出した。


(好きにって……何していいのか、わかんない)


 結局、歩き回って食べ歩いたあと、心に引っかかっていたことを思い出した。

 ――オリティスの強さのこと。


(強いのは知ってる……でも、どれくらい、なのか……)


 そうしてフィナの足は、ミオルタの図書館へと向かっていた。


 ミオルタの街は、昼下がりの柔らかな喧騒に包まれていた。

 昨日まで命のやり取りをしていたとは思えないほど、穏やかな日常が広がっている。


(……こういうの、好き)


 フィナは胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。

 守るべきものが、確かにここにある。


 重厚な扉を押し開けると、前にも見た光景が広がっていた。


「おや……これは、前にいらっしゃったお嬢さんですね」


 声をかけてきたのは、前回も案内してくれた老紳士──司書メイスだった。


「ん!魔物の強さを、知りたい」


「ほう……どのような魔物について?」


 フィナは、一瞬だけ息を吸い込む、そして、静かに言った。


虚大穴アケホラの──喪失獣メメリアル


 その名を聞いた瞬間、メイスの眉がぴくりと動いた。

 だが驚きも一瞬、すぐに穏やかな表情に戻る。


「……わかりました。受付席にて、お待ちください」


 フィナは席に腰を下ろしながら、胸の中のざわつきを感じていた。

 未知のものに対する、不安と期待。そのすべてが知りたいという欲求に変わっていた。


 やがて、メイスが数冊の本を抱えて戻ってきた。


「よろしければ、直接お教えしましょうか」


 フィナはすぐに首を縦に振る。


「お願いします」と、はっきりと口にした。


「では……」


 メイスは受付の下から大きな紙を引き出し、フィナの前に広げた。

 それは──地図だった。


「これは中央大陸の全図です。この赤色の区域は大竜帝国ユーレンバンス。ミオルタを含む広大な領地を有しています」


 フィナは「ん」とうなずきつつ、地図に見入る。


「そして、ここ」


 メイスが指さしたのは、地図の中でも異様な、黒く塗りつぶされた部分。


「これは未調査区域。どの国にも属さない、冒険者協会が指定した魔境……ミオルタ周囲には何個も存在していますが、中でもこの大きいのが虚大穴アケホラです」


「……!」


「ここは冒険者階位で言うところの“アルムタス階位の魔境”。内部にいる魔物の最低階位は“ゾディア”、平均で“エクスロア”、最悪の場合は“アルムタス”にまで跳ね上がります」


「魔物階位は、冒険者階位と同じですが――実際に勝つには、魔物と同じ階位の冒険者が四人は必要とされています」


 フィナの喉がごくりと鳴った。


「一番強いのは?」


「それは、冒険者同様、ヴァルシスです、規格外、測定不可能、魔境においても同様で、ヴァルシス階位の危険地帯は黒標区域と呼ばれ、そこにいるのは……真竜と呼ばれる、この世界の覇者にして頂点捕食者です」


「真竜……」


「語ることすら畏れられる――正真正銘、この世界最強の存在です」


 メイスは静かに語り出す。


「かつて、真竜の討伐に挑んだのは、伝説の冒険者アイゼン・ガルク・オートライ。彼は当時、17人のヴァルシスやアルムタス階位を含む冒険者を率いて挑みました」


 フィナの目が丸くなる。


「結果は――討伐失敗。多大の犠牲を出しました」


「……し、失敗?」


「ええ。ただし、当時と今とではアルムタス階位の基準が異なります。その戦いを経て、彼は階位制度を厳しく再整備し、今の階位が定義されたのです。現在、アイゼン殿は冒険者協会統括副総督です」


「……凄い、人……」


「ええ。私が最も尊敬し、生涯の背中と仰ぐ人物の一人です」


 メイスの目には懐かしさと後悔が滲んでいた。

 その表情を見た瞬間、フィナは胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。


「もしかして、仲間だった?」


 問いかけた自分の声が、思ったより小さく震えていた。

 メイスは驚いたように目を瞬かせ、そしてゆっくりと頷いた。


「……よく気づきましたね。ええ、私は元アルムタス階位の冒険者。当時の真竜討伐戦に参加し、その戦いで片足を失って以来、こうして第一線を引退した身です」


 言葉はどこまでも淡々としていたが、その声の底にある重みが、フィナの肌を刺すように伝わってくる。

 メイスは自らの動かない左足をそっとさすりながら、二度と戻らない輝かしい過去を見つめていた。


 そしてメイスは、ふと思い出したように、柔らかな声で付け加える。


「前に一緒に尋ねてきた黒髪の女性は……貴方の保護者ですか?」


「ん、師匠」


「ならば、助言ほどではないですが、彼女の言うことを聞くようにしなさい、あの方は、恐らく貴方が想像するより、もっともっと高みにいます、私に見えないほどの、まるで……真竜のような方です」


 その声音には、畏敬と、少しの震えが混じっていた。


 それからしばらく、メイスは魔物の格付けや魔境の分類、過去の戦争なども交えて丁寧に説明してくれた。


 メイスの説明を聞きながら、フィナは何度も小さく息を呑んだ。

 知らない言葉、知らない世界、知らない強さ。

 そのすべてが、胸の奥で静かに火を灯していく。


(世界って……広い)


 喪失獣メメリアルの脅威、真竜の存在、アルムタス階位の冒険者たち。

 どれも自分とは遠い場所の話のようで、しかしどこかで繋がっている気がした。


 やがて、フィナは丁寧に頭を下げる。


「ありがと」


「いいえ。知識とは、身を護るための最良の“力”です。どうか、あなたの歩む旅路の助けとなりますように」


 それからフィナは、司書の助けを借りず、自分の力で図書館内の蔵書を見て回った。


 ――もっと知りたい。もっと強くなりたい。


 本棚の間を歩くたび、知らない世界が静かにこちらへ手を伸ばしてくるようだった。

 ページをめくる音が、まるで遠い誰かの呼吸のように耳に残る。

 知ることは怖い。でも、知らないままでいることの方が、もっと怖い。


 未知なるものの先にある、世界の輪郭を探すように、ページをめくるたび、知らなかった世界が広がっていく。

 文字は分らない、でも、本の絵柄すらもフィナの好奇心を刺激する。

 魔境の構造、魔物の進化、古代文明の遺跡、フィナは絵を追う指先に力が入るのを感じた。


 気づけば、周囲の席は入れ替わり、窓の外の光は夕暮れ色に変わっていた。


 だが、オリティスの強さ――それが、どれほどのものかを知った。


 最低でもゾディア階位の魔物で構成された大軍、百体以上の喪失獣メメリアルを、一瞬で殲滅する力。

 元アルムタス階位の冒険者が見えないと言うほどの存在。


 フィナの唇から、自然と言葉がこぼれた。


「……規格外ヴァルシス


 力の差に、驚きや恐れではなく、なぜか嬉しさすら感じていた。

 自分の師匠が、あんなにも強くて遠い存在だという事実が、誇らしくてたまらなかったのだ。


 自分が見てきた世界は、ほんの入口にすぎなかった。

 その事実が、恐ろしくて……でも、嬉しかった。


 図書館の静かな一角で、一冊の奇妙な装丁の本が目に留まった。

 題名は──転生したら全知全能を授かって、人生イージーモード。


(……いーじー?)


 その聞き慣れない響きの言葉に引かれるようにして、フィナは本を手に取り、夢中でページをめくり始めた。


「な……に、もう夜?」


 物語のあまりの奇抜さに熱中し、頁をめくり続けていたフィナは、ふと窓の外を見て夜闇が降りていることにようやく気づいた。

 慌ててその本の続きを抱え、受付で手早く貸出手続きを済ませる。


 急ぎで宿へと戻り、階段を上って部屋の扉をそっと開けた。


 そこにいたオリティスを見て、フィナは思わず瞬きをした。


 オリティスは髪を後ろでゆるく括り、細いフレームの眼鏡をかけ、膝の上に開いた本へ視線を落としていた。

 ランプの柔らかな光がオリティスの横顔を照らし、長いまつ毛が影を落とし、整った顔立ちが眼鏡によってさらに洗練されて見えた。


「……眼鏡掛けるんだ」


 ぽつりと漏れたフィナの言葉に、オリティスはゆっくり顔を上げ、唇に小さな笑みを浮かべた。


「ふふ……洒落だろ?」


 眼鏡の奥の瞳が、揶揄うように細められる。

 フィナは少しだけ頬を膨らませた。


「似合う」


「当然だ」


 オリティスは軽く眼鏡を外し、机の上に置くと、いつもの落ち着いた表情に戻った。


「あっ……ただいま」


 フィナは本を抱えたまま、今日知ったこと、感じたことが胸の中で渦を巻いている。

 そんなフィナを見て、オリティスは微笑んだ。


「ふふ、お帰り、どうやら、興味のあるものを見つけたようだな」


「ん」


 そのまま部屋に上がり、ベッドに寝転がって本を開いたフィナ。

 オリティスも隣に座り、表紙を見て微笑む。


「ああ、ふふ……この本か。懐かしい」


「知ってるの?」


「あぁ、作者にも会ったことがあるぞ」


 フィナの瞳が輝く。


「ん!これ……実話?」


 しかし、オリティスの返答は期待とは裏腹だった。


「いいや、これは架空の物語だ」


 フィナは落胆した顔を見せた。

 だがオリティスは、それでもと言うように、微笑んで続けた。


「だが、面白い話をひとつしてやろう」


「ん!」


 身を起こしたフィナが、ワクワクした表情で耳を傾ける。


「この本の作者は、転生者だ」


「転生者……この本に載ってた」


「そう、転生者とは、他の世界で死んだり、神の手違いでこちらの世界に来る存在。そして、似た者に“転移者”がいる」


「ちーと能力ある?」


「残念ながらこの物語ほどの特異な能力はない。転生者はこことは異なる世界の神の手違い、だから異世界の神から“便利”な恩寵を得る、転移者はこちらの存在が干渉してしまった転移、だからこの世界の神から“強力”な恩寵を得る」


 フィナは首をかしげる。


「何が違う?」


「簡単だ、転生者は当初の“彼ら自身の世界”の常識を凌駕した力を得る。だが転移者は、“この世界の神”から力を得る。前者の方が魅力的に聞こえるが、この世界は他より格が上だ。世界も、神もな。この世界は魂をすべて受け止めるほどの“器”を持っている」


「器が大きい世界……」


「異世界の神が与えた全知全能がこの世界に通用するはずもない、でもまあ、神と同格の存在が多いこの世界で、この世界の神から力をもらったところで、精々中の下ぐらいにしかなれない、結局は当人の努力と才能次第」


「ふむふむ」


「この本の作者が、かつてこう言っていた。この物語は、転生する前の世界で書いた。理想の世界だった。でも、現実に来て思った。幻想だったと」


「幻想……」


「魔術と剣の世界は、理不尽で、厳しく、甘くなんかない。社会による搾取がない代わりに“人類が不利な生存競争”がある。それを知って彼は、筆を折った、古い幻想を捨て、今ある理想を追いかけるようになった」


 オリティスはそこで一度言葉を切り、琥珀色の光の中で、しばらく何かを深慮するように目を細めた。


「フィナ……君には今、理想はあるか?」


 突然投げかけられた問いに、フィナはしばしの間を置いて、正直に胸の内を口にした。


「……わからない」


 すると、オリティスは満足そうに深く微笑み、フィナの頭を撫でた。


「わからない、か。……それでいい」


「え?」


「理想とは、口にしていいものではない」


 オリティスは窓の外の、果てしない夜空を見つめる。


「理想とは、夢を語る者や、物語を綴る者が思い描く己が主人公の像」


「フィナ、君がいずれ“理想”を見つけたとき――それは、美しくて、遠いものになる」


「だからこそ、“言葉にすれば安っぽくなる”」


「理想とは、ただ語られるのを待つものではない」


「理想とは、死に物狂いで獲得する、存在の到達点」


「到達した者だけが、初めてそれを言葉にする資格を得る」


 フィナは、じっと自分を見つめる師の瞳の深さに吸い込まれそうになりながら、静かに尋ねた。


「オリティスには……理想、ある?」


 その純粋な問いかけに、オリティスは一度だけ、深く深く頷き、優しい声で答えた。


「ある。それは──君だ、フィナ」


「……!」


 言葉の意味を理解する暇も与えず、オリティスは音もなく立ち上がると、部屋の明かりをふっと落とした。

 暗闇の中に、オリティスの優しい声だけが残る。


「今日はもう遅い、寝ろ」


「……ん」


 ベッドに身を沈め、目を閉じたフィナの心には、1つの言葉が残っていた。


『君がいずれ理想を見つけたとき――それは、美しくて、遠いものになる』


 なら、私の理想は、オリティスだ。


 胸の中に確かな、そして誰にも譲らない北極星を見つけた少女は、静かな幸福感に包まれながら、深い眠りの中へと落ちていった。

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