第13話「選び取った剣」
全身に青白い雷を纏いながら、嵐狼が森の中を疾駆する。
その巨躯が一歩踏み込むたび、大気が悲鳴を上げ、森がわずかに揺らいだ。
青緑の葉が白光に明滅する。
フィナの胸の奥深く、魔脈がざわりと不快に震える。
危機感に呼応するように、フィナの体が勝手に熱を帯びる。
(──速い!)
思考よりも先に、嵐狼の獰猛な噛みつきが迫る。
フィナは咄嗟に身を捻り、バネのように空中へと跳躍した。
交差するその一瞬。銀灰を上段に構え──。
「ふっ!」
鋭い呼気と共に、空中から巨大な嵐狼の眉間に向かって、渾身の力で剣を振り下ろした。
だが、刃は硬質な火花を散らして弾かれた。
魔力によって鋼鉄のように硬化した毛皮。
両腕を襲う強烈な反発の衝撃に跳ね飛ばされ、フィナは地面を転がる。
「ぐっ……!」
起き上がる暇すら与えない。低い唸り声と共に、雷が爆ぜた。
嵐狼が雷を纏って大きく跳躍すると、光の粒が逃げるように散り、森の色彩が一瞬だけ反転した。
雷光の軌跡が網膜に線となって焼き付く。
爪の鋭い角度、牙の開く様、躍動する筋肉の収縮までもが、ゆっくりに視界に映り込む。
魔脈が激しく脈打つたび、フィナの視界の輪郭が異常なほど鮮明になっていく。
胸の奥で魔脈が脈打ち、体が勝手に前へ動いた。
血液の代わりに熱が全身を駆け巡る。その熱が両腕へ走り、フィナは咄嗟に銀灰の広い刀身を盾にし、迫る爪撃を正面で受け止めた。
重い打撃、踏みとどまろうとした足元の土が深く削れ、体が後方へ滑っていく。
(このままじゃ、後ろの木に──!)
衝突寸前、フィナはとっさに背後の太い幹に足をかけ、それを蹴る反動を利用して上へと跳び上がった。
フィナが直前までいた空間を、嵐狼の牙が空振りし、背後にあった太い木を易々と噛み砕いた。
だが、獣の猛攻はそれだけでは終わらない。
嵐狼は噛み砕いた巨大な幹を口に咥えたまま振り返り、空中にいるフィナに向かって力任せに投げつけた。
「ッ……!」
回転しながら迫る巨大な木片。
フィナは銀灰を両手でしっかりと握り直し、剣を縦に構えた。
「やぁっ!!」
裂帛の気合いと共に振り抜かれた大剣が、飛来した木片を真っ2つに両断した。
砕けた木の破片が宙に舞い、周囲の木々を激しく震わせる。
だが、その破片の向こう側に──嵐狼の姿がなかった。
「……ッ、どこ!?」
見失ったと気づいた瞬間には、もう遅かった。
背後から青白い雷が肩をかすめた瞬間、視界が白く弾けた。皮膚が焦げる嫌な匂いが立ち上り、高圧電流を浴びた筋肉が勝手に痙攣を引き起こす。
完全な死角、真横からの一撃。
魔脈の巡りが一瞬逆流し、外側からの物理的な打撃と、内側からの魔力的が逆流し、両方で殴られたような強烈な衝撃が走った。
「うぐぁっ……!」
巨大な質量による体当たりがフィナの小さな脇腹を打ち抜き、彼女の身体は枯れ葉のように吹き飛んだ。
地面を二度、三度跳ね、土に塗れながらも辛うじて受け身を取って立ち上がる。
ふらつく。足に力が入らず、膝から崩れ落ちそうになる。
だが、フィナは奥歯を噛み締め、両足でしっかりと地面を踏みしめた。
呼吸をするたびに、打たれた胸の奥が焼けるように痛む。
それでも、足は絶対に止めなかった。ここで止まれば、死ぬと本能が理解していたからだ。
「……負けたくない」
脇腹が酷く痛む。呼吸は浅く荒い。視界は未だに揺れている。
──でも、逃げたくない。
ここで退いたら、またあの時と同じだ。守られるだけの自分に逆戻りだ。
フィナは顔を上げ、再び嵐狼を正面に捉えた。
「木に隠れて、死角から横に回り込んだ……体は大きいくせに、卑怯なわんわん」
血の滲む手で大剣を握り直し、地を蹴って真っ直ぐに走る。
嵐狼もまた、鼓膜を破るような咆哮を上げながら正面から突っ込んできた。
衝突の直前、嵐狼の瞳が細められた、次の瞬間、嵐狼は真正面へ突っ込むふりをして、鋭い爪で地を抉るように横へ滑った。
フィナの反応が一瞬遅れる。以前戦った疾狼とは違う。こいつは本能だけで動く獣ではない。“考えて”戦っているのだ。
だが、フィナも決して劣ってはいなかった。
嵐狼の肩がわずかに沈む。必殺の噛みつきが来る前兆──フィナは反射的に前へと弾かれたように走る。
──その瞬間。
「ッ……?」
獲物を捉えたはずの嵐狼の視界から、フィナの姿が完全に消え失せた。
違和感に気づいた直後、嵐狼の視線がカクンと下がる。巨体の重心が大きく崩れ、前足が激しくふらついた。
「ここが……脆いところ!」
フィナは上へ跳んだと見せかけ、前傾姿勢で地を滑るように屈み込み、嵐狼の太い前足を下から斬り上げた。
銀灰の刃は、獣の急所である腱を深く断ち切っていた。
腱を斬られた嵐狼は、激痛に吠えながらも、その知性ある瞳をさらに細めた。
次の瞬間、体勢を完全に崩したように見せかけて──。
「……ッ!」
フィナが追撃のために踏み込んだ瞬間、嵐狼は残った三本の足で地を抉り、横方向へ弾かれたように跳んだ。
(罠……!)
青白い雷光が長い尾を引き、嵐狼の巨大な牙が横からフィナを丸呑みにせんと迫る。
フィナは咄嗟に銀灰の柄と刀身を両手で支え、辛うじてその大顎を受け止めた。
牙と鋼が激突し、衝撃で両腕の感覚が消失するほど痺れる。
腱を斬ったおかげで、嵐狼の踏み込みは明らかに甘く、動きも鈍くなっていた。
だが、嵐狼が喉の奥で低く吠えた瞬間、纏っていた雷光がそのまま地面へと叩きつけられた。
青白い稲妻が地を這い、蜘蛛の巣のように全方位へ広がっていく。
「ッ……!」
フィナは後ろへ跳んで避けたが、まるで意思を持っているかのように、雷は地を這いながら軌道を変え、フィナを追尾した。
魔脈がざわりと警鐘を鳴らし、体が勝手に反応する。
着地した瞬間、足元を稲妻が掠め、ブーツの革と皮膚が焼ける嫌な匂いが鼻を突いた。
(痛い……でも、止まらない!)
フィナはその追尾の隙を逃さず、嵐狼の背後へと回り込む。
それに気づいた嵐狼が瞬時に首を捻って噛みつこうとするが、フィナは嵐狼の鼻面を踏み台にしてさらに上へと跳び上がった。
そして、空中で身を翻し、そのまま嵐狼の太い首の真上へと着地する。
「止め!」
フィナは無意識のうちに、自身の魔脈の直線を銀灰へと繋いだ。
冷たい鋼の刃に、燃え盛るような熱が宿る。
刀身の斬り味が跳ね上がり、うっすらと赤い炎が揺らめいた。
振り下ろされた刃が、防御の要である雷の膜を容易く貫く。
鋭い斬撃が、嵐狼の太い首筋に深く、致命的に刻み込まれた。
だが、嵐狼も、只では死を受け入れなかった。
「──グルルルァァァッ!!」
地殻を震わせるような絶望的な咆哮が森を揺らし、周囲の葉が一斉に燃え始める。
咆哮と同時に、嵐狼の体を纏っていた雷が完全に暴走を始め、危険を感じたフィナは即座に首から飛び退いた。
稲妻が間欠泉のように空へ、四方八方へ噴き上がり、周囲の木々を無惨に引き裂き、地面に黒く焦げた亀裂を走らせる。
痛みに狂い、ただ“今”この瞬間を生き延びるためだけに抗う純粋な本能が、嵐狼を理知的な獣から、制御不能の凶器へと変貌させていた。
──この小さな敵を殺す。
その一念だけがフィナへと襲いかかる。
雷光が爆発的に奔り、血を流す嵐狼が全身の質量を乗せて突っ込んでくる。
フィナは一歩斜めに踏み出してそれを躱し、すれ違いざまに、すでに傷を負っている首筋へ、もう一度銀灰を全力で振るう。
だが、刃は骨に達したものの、完全に切断するには至らない。嵐狼の突進も止まらない。
嵐狼の雷と、銀灰に宿ったフィナの炎が真正面からぶつかり合い、爆発的な衝撃が腕を通ってフィナの全身を激しく揺らす。
足元の地面がすり引きずられ、土が爆ぜ、赤と青の光の粒が嵐のように吹き荒れた。
「くっ……!」
嵐狼の絶大な体重が、そのまま圧力となってフィナの上にのしかかる。
血走った眼球と、剣を噛み砕かんとする牙が目前に迫り、獣の生臭く熱い息が直接顔にかかる。
ここで少しでも押し返されれば、そのまま頭から噛み砕かれる。
限界を迎えた魔脈が激しく脈打ち、胸の奥が溶岩を飲んだように焼けて熱くなる。
視界がと揺れ、強烈な耳鳴りが脳を支配する。
それでも、フィナは絶対に銀灰から手を離さなかった。
(負けない……負けないっ!!)
嵐狼が最後の力を振り絞る。
至近距離で雷光が爆ぜ、フィナの肩を極太の稲妻が直撃した。
皮膚が焼け焦げ、筋肉が痙攣し、意識が飛びかける。
「ま……だぁっ!!」
フィナは奥歯が砕けるほど噛みしめ、全身の力を銀灰に込めた。
魔脈が逆流し、銀の刃が心臓のように赤く脈動する。
彼女の奥底から湧き上がる炎が、嵐狼の雷を押し返し、強烈な閃光が弾けた。
嵐狼の瞳が、驚愕に揺らぐ。
その一瞬の隙を、フィナは決して逃さなかった。
フィナの炎が雷を完全に呑み込み、赤と青の光が激しく明滅する。
森全体が恐怖に震え、光の粒が竜巻のように渦を描いた。
魔脈が激しく逆流し、胸の奥が引き裂かれるように熱い。
「うっ──らぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
フィナは身を焦がす雷に打たれながらも、全身全霊の最後の力を両腕に籠め、そして──銀の軌跡が、嵐狼の太い首を完全に断ち切った。
嵐狼の巨大な首が地面に落ちた瞬間、森を支配していた雷光が嘘のように霧散し、深い静寂が戻った。
主を失った青と赤の魔力の粒が、ふわりふわりと雪のように降り注ぎ、まるで気高き獣の魂を弔うように優しく揺らめいていた。
フィナは重くなった剣を杖代わりに地面に突き立て、浅く荒い呼吸を繰り返しながら、しっかりと両足で地面を踏みしめる。
(……勝った……)
自らの力で強敵を打ち倒したという確かな実感が、彼女の胸の奥に、小さくも決して消えない灯を灯した。
──その時、背後から静かな足音が聞こえてきた。
「……お疲れ様。かっこよかったぞ」
振り返ると、そこには腕を組み、穏やかな微笑みを浮かべるオリティスが立っていた。
手出しをせず最後まで見守り抜いた師の瞳には、弟子に対する確かな“誇り”が宿っていた。
その安心しきった表情を見て。
フィナは煤と土で汚れた顔で照れくさそうに、けれど、太陽のような満面の笑みで答えた。
「んっ!」
死闘が終わり、木漏れ日が差し込む森は本来の静けさを取り戻していた。
フィナは肩で荒い息をしながら、そっと痛む脇腹を押さえた。
嵐狼の体当たりの傷が、後になって深く響き始めていたのだ。
「かなり痛むようだな」
「……ん。嵐狼の体当たり、重かった。雷も、ビリビリした」
「嵐狼の体当たりを喰らい、あの雷に打たれて、打撲と軽度の火傷で済んだのは褒められるべきだ。この防具を作ってくれたアストに感謝しないとな」
「……ん、アスト、すごい」
オリティスが近づき、無言でその温かい手をフィナの脇腹の傷へと添えた。
淡く優しい光が彼女の指先からにじみ出し、やがて心地よい温かさとなってフィナの体中へと広がっていく。
温かい光が全身の血管を巡るように流れ込み、先ほどまで暴走しかけていた魔脈が、嘘のように静かに、規則正しく脈動し始める。
筋肉の痛みや火傷の痛みが水に溶けるように消え去り、浅かった呼吸が深くなった。
「回復魔術だ。正確に言えば、私の魔力をお前の魔脈に流し込み、細胞の破損した部位を直す自然治癒機能を、一時的に極限まで活発化させている。理屈としては魔脈の応用の循環という技術に当たる。実戦の前に先にするべきだったな」
言い終えると同時に、フィナの全身から痛みがすっかり消えた。
傷も、一瞬で塞がっている。
「……すごい」
森の静寂が戻ると同時に、遠くで誰かの息を呑む音がした。
緊張が解けたのか、枝を踏む足音が震えている。
オリティスは微笑みで応じた。
そのとき──木々の間から、先ほど救った冒険者たちが駆け寄ってくる。
「君、本当にありがとう!」
「オリティスさん、ミナの治療も……助かりました!」
先導らしき青年が深く頭を下げた。
フィナは当たり前のように短く「ん」と返す。
オリティスも「気にするな」と軽く微笑む。
「自己紹介をさせてください。俺はヴァン、こっちは相棒のミナ。そして──」
ヴァンは短く刈り込んだ黒髪に鋭い眼差しを持つ青年で、鎧は使い込まれて傷が目立つが、手入れは行き届いていた。
ヴァンに支えられていた、ミナは、肩まで伸びた栗色の髪を三つ編みにまとめ、深緑のローブに身を包み、腰には小さな魔導書を下げている。
「レイクだ。よろしく、麗しきお嬢様たち」
軽薄な笑みを浮かべるレイクは、明るい茶髪を無造作に後ろへ流し、どこか遊び人めいた雰囲気があった。
彼は左腕を押さえ続け、袖口が少し裂けているのが見えたが、彼は気づかれないように、さりげなく腕を組み直した。
その仕草を見て、オリティスの瞳が一瞬だけ細められる。
レイクに、横の女性が勢いよくげんこつを食らわせる。
「バカ! ほんっと、こういうときに軽口叩くんじゃないの!……アンナです。助けていただき、本当にありがとうございました!」
アンナが丁寧に頭を下げる。
緑の髪を後ろで束ね、快活な瞳を輝かせている。
長い耳が特徴的でフィナがずっと目で追っている。
淡い魔力の揺らぎが、彼女の周囲に薄く漂っている。
革鎧に身を包み、背中に弓を背負い、腰には二本の短剣を差していた。
「お前達は、ミオルタ所属の冒険者か?」
オリティスが問うと、ヴァンが頷いた。
「はい。三日前からの依頼で、近隣の村まで護衛任務をしていました。今日は帰り道だったんです」
「だけど、レイクが近道だって言い出して、森を横断することになったのよ……結果は、見ての通り」
アンナが呆れたように言うと、フィナが小さくつぶやいた。
「無謀……馬鹿」
レイクは大きく頭を下げる。
「すまん! 完全に俺の判断ミスだった!」
だが、オリティスの瞳が、その瞬間だけ鋭さを増した。
「お前達は、どういう関係だ?」
オリティスの声色が、ほんのわずかに低くなる。
その変化に気づいたのか、ヴァンたちの背筋がぴんと伸びた。
「冒険者の臨時の仲間です」
「僕とミナは元々二人で行動してて、今回は狼の数が多いって聞いたので、彼らを誘ったんです」
「私とレイクは……別に一緒に行動してませんので」
オリティスはふっと頷き、柔らかい口調で言う。
「なるほどな、ここで待っていろ、フィナの治療がある、この子は恥ずかしがり屋だからな、少し離れるぞ、何かあったら叫べ」
彼女はフィナを手招きし、少し離れた森の木陰へと歩いた。
声が届かない距離に立つと、オリティスは急に表情を変えた。
「……あのレイクって男、盗賊だ」
フィナの目が真剣になる。
「悪者?」
「恐らくな、ミオルタで獲物を釣るために動いていた可能性が高い。ヴァンたちはその罠にかかった。よくある話だ、盗賊は奴隷商人と繋がり──誘拐した人間を奴隷として売る、中でもアンナ、耳が長く魔力の質が高い種族、森翠族は、外見が美しくその上、魔力適性が高い、故に高値で取引される」
フィナの目が鋭くなる。
「……悪者」
「それに、昨日お前が寝ている間に、酒場で人の会話に耳を傾けていたら。葵群の森の深部近くに“盗賊団”が拠点を構えている情報を手に入れた、特徴は──翼の生えた蛇の入れ墨」
フィナは目を輝かせて言った。
「腕にあった。レイクの袖……切れてた、押さえてたけど、見えてた」
「そうだ、見えていた」
フィナは銀灰の柄に手をかけた。
「倒す?」
オリティスは首を横に振った。
「彼ら三人を無事に街へ連れて帰るのが先だ。違法な人身売買は、世界では禁忌、特に大竜帝国では厳しく禁じられている。ほとんどの違法奴隷商人は壊滅したはずだが──もし生き残りがいるなら、事は大きい。冒険者協会に報告して、判断はあちらに任せるのが、最も面倒が避けられる、混乱もな」
フィナはじっと彼女を見て、静かに頷いた。
「……ん」
オリティスが笑みを浮かべ、フィナの頭を軽く撫でた。




