十八番 ― 『混じりあった世界で、復活+変化=?』
第五
1
意識を取り戻したとき、ぼくの目の前には見慣れたものが広がっていた。それは毎日見ているあるアパートの天井だ。少し黄ばんだ白い天井。
ここ数ヶ月ずっと見ているもの。代わり映えのない日常。
ぼくはだるく重い身体を起き上がらせると、ベッドの脇で椅子に座りながら眠っている人がいることにようやく気付いた。Tシャツとジーパンという簡素な服装をした隣部屋住人、色橋愛さんだ。足を組んで、腕を組んで、静かにそこにいた。周りを見渡す。何でアイさんがぼくの部屋の椅子に座って寝ているんだ?
ようやく思い出した。
《最高の運び屋》という胡散臭い人物に連れられて、廃棄された研究所まで運ばれると、二度と思い出したくなかった過去を根掘り葉掘り、まるで落とし穴を作るかのように深く全てを言われて、挙句の果てにぼくは所長室の隠し部屋の床に倒れこんでしまったのだった、終了。その後、ぼくがどうなったのかさっぱり分からないし、何で自分の部屋で寝ているのかも分からない。
ただ、どうやらぼくという人間は正常に稼動しているようだった。
身体には一切の痛みは無い。ただ心の傷だけは深く残って、治りそうもない。深過ぎて深過ぎて、傷というよりも穴になって貫通していた。これ以上は深くはならない。嫌になってくるな、ほんと。
最悪だよ。本当に最高に最悪な一日だった。最悪な分、どこか吹っ切れた自分がいる。
我ながら、らしくもない取り乱し方をしたものだ。箱舟もそんなぼくを見てさぞ愉快だっただろう。分かりきっていたことを言われただけだというのに。
ぼくは再びアイさんのほうを見る。
また、またぼくは、またこの人に迷惑を掛けてしまったのか。気を失っているぼくを見守ってくれていたのだろう。ぼくはアイさんに何も恩返しできていないというのに。
……この人、じっとしていると元々美人だから、見ているこっちがドキドキしてしまう。胸元もこれまた大胆に開いてるし、という邪なことを考えてしまった。
そんなぼくは馬鹿だった。
「……少年は人の寝顔をジロジロ見るのが趣味なのか?」
目を閉じたまま、アイさんは言った。ただでさえドキドキしていた心臓の鼓動はさらに一気に高まった。破裂寸前だ。アイさんは、目を開けるとニヤニヤと笑みを浮かべている。
「起きてるなら、そう言ってくださいよ。心臓に悪いじゃないですか」
「否定はしないんだな、少年」
「ぼくはどうしてこの部屋の中にいるのだろうか?」
アイさんからのパスを壮大にスルーする、そしてぼくは質問を質問で返した。ちなみにぼくにはそのような趣味はありません。本当ですよ?
「何でって、ここはそもそも少年の部屋じゃないか。少年がいて当たり前だ」
「そういう意味じゃないです。また分かっていて言ってるんですよね? 確かぼくは出掛けていたはずで、この部屋にいなかったはずなんです」
「ああ、そのことか。少年は運ばれてきたんだよ」
運ばれてきた。運び屋のアフターケアと言うわけか。
「バイトに出掛けようと部屋を出たら、たまたまあの好青年が少年をおぶって歩いているところを見掛けんだ。だから私は少年の看病をすることにした。それだけだ。それ以上もそれ以下もない」
見掛けてから看病の間を端折り過ぎです。箱舟とアイさんと会話か。気になったりする。
「そんな大して会話なんてしていないよ。ただ私が『私の少年になにをする!!』と怒鳴ってやったら、『分かりました。では、あとはよろしくお願いします』と言って、私に少年を渡すとさっさと帰っていったよ」
ぼくはいつからあなたのものになったんですか? ちなみにぼくは、なったつもりはありませんよ。
そんなことを言う前にまず言うべきことがぼくにはあった。
「すみませんでした。また迷惑をかけてしまって」
「良いんだよ、別に。どうせなら何回も迷惑をかけるといい」
「だけど、バイトに行く予定だったんじゃないんですか?」
「大丈夫だよ。一昨日休んだだけで、昨日は元々丸一日休みだし」
一昨日? 丸一日?
「今日って何曜日ですか?」
「日曜日だよ」
日曜日?
一日中ずっと寝てしまったのか?
アイさんの休日がぼくのせいで無くなってしまったのか。
「バイトくらいどうでもいいことさ。クビになったとしても、また新しく見つければいいだけのことだし。それに愛する人のためなら、私は何でも投げ捨てる覚悟があるよ」
この人は、どこからどこまでが冗談なのか分からない。
「冗談じゃないさ。私はいつだって本気だよ。たとえ数ヶ月の付き合いでも、少年は一緒のアパートに住んでいる私にとっては大切な人さ」
大切な人、か。
そんなことを言ってくれる人がまだいてくれたのか。
この人は本当に優しくて、お節介で、格好良くて。
人懐こい人だ。
「……アイさん。聞いてもいいですか」
「ん? いいよ。私のような愚かな人間に答えられる程度の質問ならね」
「恋って何でしょうか」
恋。
ぼくがあのとき知らなくてよかった感情表現。知るべきではなかったものだった。
そんなものをぼくは今知りたくなった。今更、あんな過去と正面から立ち向かうつもりはない。そんな気さらさらないさ。全てを思い出してしまったら、また呆気無く失神してしまうだろうよ。
また何重にも鍵を掛けて仕舞い込むつもりだ。現実逃避。臆病なぼくにぴったりな四字熟語だ。できる限り、それを貫いていこうと思っている。
だけど《恋をする》ということに関しては、知りたくなった。
意味について。
知りたい。
仕舞い込む前に、こうして落ち着いていられる間に。
彼女のことを考えられる今、彼女に恋をした理由を。
「いきなりなにを言い出すかと思えば、そんなことか」
「そんなことって、結構難しいと思うんですけどね」
「難しいものか。恋は生き甲斐だよ」
それはあなたぐらいです、アイさん。
「そんなことはないよ。恋というのは、何も人間にだけ言えることじゃないんだよ。動物だって求愛行動をするだろ。他にも人間に恋をしなくても、人間以外に恋をする人間はいるよ。仕事をする方が好きな人間は、おそらく仕事に恋しているんだよ。数学者は数字に恋しているって言うし、それも人それぞれなのかもしれないね」
人それぞれ。
ぼくが彼女に恋したように。
アイさんも何かに恋をするのだろうか。
「恋に生きる女って感じですもんね、アイさんって」
「私は愛に生きる女だよ」
胸を張って言う。
愛か。それもぼくには分からない。
「だけど意外だよ、少年からそんなことを言ってくるなんて。一体どうしたんだい、悩み事でもあるのかい?」
「……好きな人がいたんです」
誰にも自分から言ったことの無い過去を、ぼくはいつの間にかボロボロと口に出していた。
ただ、ぼくは誰かに教えてもらいたい。ぼくがどうすればいいのか。
今だけは、誰かに話せるような気がする。
今なら聞けるような気がする。
ぼくは組織のことは伏せて、《彼女》のことを話した。どんな会話を交わしたのか、彼女がいつも笑顔だったこと。それは、ぼくの中にある唯一の綺麗な思い出。とっても綺麗で、色褪せることのない辛い思い出。
《彼女》にも伝えたことがない、ぼくが《彼女》をどう思っていたのか。
「それは愛じゃないかな」
「愛、ですか?」
全てを話し終えた後、アイさんはぼくにそう言った。
ぼくはそんなこと、考えたこともなかった。
「そう、愛だよ。少年たちにとって、それは愛でしかない。だって互いを理解した上で、少年はその少女を、少女は少年を好きでいられたんだろう。なら、それは私に言わせれば、愛なんだよ。少年たちは、愛し合っていたんだよ」
「ほんとに、そう言えるんですかね」
「愛の伝道師たる私が言うんだ、間違いないよ」
「じゃあ……」
そこで止まってしまった。
言葉が出てこなかった。
こんなことを、アイさんに聞いてもいいのだろうか。
だけど、それを知らないぼくが解答を出すことはできないから。
嘘吐きでもなく、正直に。
臆病でもなく、堂々と。
回りくどく言わずに、素直に。
必死に声にして、ぼくはアイさんに聞いた。
「ぼくは、彼女を愛したことを、忘れていい、んですか?」
アイさんがそれを聞くと、椅子から立ち上がって、ぼくに近付いてきた。
殴られる、そう思い、ぼくは腕を前に構えて防ごうとした。
そんなぼくを、アイさんは背中まで腕を回して、抱擁した。
「忘れては、いけないよ」
アイさんは優しく囁いた。
「いくら少年が少女を愛したことを忘れようとしても、少年が愛していたという事実は変わらないよ。過去も変わらない。確かにそれを忘れられれば、一番いいのかもしれない。だけど忘れてしまったら、少年は絶対に後悔するよ。だから忘れないほうがいい。好きだったという事実、過去を忘れないで、そしてまた新しい恋をすればいい。それで、愛することのできる人を見付ければいい」
暖かい。とても居心地が良かった。
直に心臓の音が聞こえる。
アイさんが生きているという証明。
生きている。
そうか、過去なのか。
《彼女》は、もういない。
前にも、自分で考えていたじゃないか。ぼくが《彼女》を否定すれば《彼女》の存在自体が否定されることになる、と。忘れてはいけなかったんだ。だけど、その記憶に依存してはいけない。いなくなってしまった彼女に依存するのではなく、今生きている人と共存をするべきなのだと。
新たに恋をするかは分からないけど、でも、ぼくは生きていかなくてはいけない。もういなくなってしまった《彼女》のためにも。いや、ぼくは生きたいんだと思う。
まだ、この世界で生きていたい。つまらないと投げ捨てようとしていたぼくは、ほんとに大馬鹿者だ。面白いとか興味があるとか、そんなくだらないことよりも、もっと大切なものがあるじゃないか。どこから来たかも分からないこんな奴に親しく接してくれたアイさんやこんなぼくと親しくなってくれたここの住人達がいる、この世界。
こうしてもらうまで、何も気付けないでいただろう。
ぼくはまだ、この日常で過ごしていたい。
身震いしていた身体は、落ち着いていた。心にあったはずの穴も、無くなっていた。
アイさんは、ゆっくりとぼくから離れる。
微笑んでくれた。
対するぼくはというと、今更ながら身体が理解し始めていた。アイさんがぼくのことを抱擁した、暖かくとても心地いい感じで、いやむしろ気持ちいいというか、だって心地いいのも当然、何故なら……。あれ、なんか一気に恥ずかしくなってきた? あれ、いや、そんなことを思っちゃ、アイさんにそんな。
そんな取り乱しを脳内でしていたぼくの顔はいったいどうなっているのだろう。ぼくの顔は赤提灯のように真っ赤に点灯しているだろうか。そんなぼくをアイさんは察したのか、微笑みからすぐにニヤケ顔になる。明らかに面白がっている。
そして今までで一番の、とびっきりの笑顔で言った。
「私も守備範囲に入ってるよな、少年」
そんなことをそんな笑顔で言うんじゃない!
「心地よかっただろ? 気持ちよかったんだろ? なら今から一緒に」
と言いながら、再び近付いてくる。舌で艶かしく唇を舐めながら。
今度はある意味危険な気がする。
「うっせー! これ以上近づくな!」
「なにを照れている。分かった、こういうことは初めてだから恥ずかしいんだね。大丈夫、怖くないから」
「こえーよ! そういうこと以前にあんたがこえーよ!」
「ちなみに少年は私の守備範囲に入ってるぞ。ど真ん中だ」
と、親指を立ててぼくに向けるアイさん。
笑顔を絶やさない。
「うわぁ――――!! 一番聞きたくなかったことを聞いてしまったっ!」
しかも本人から。
聞きたくなかった。せめて、他人から聞いたことのままでいてほしかったです。
「さあ、恋しようじゃないか」
「あんたに恋する予定はさらさらねーよ!」
「いろいろと吹っ切れたか?」
変わらない笑顔で聞いてくる。
……はぁ、と深く溜め息をつく。
ほんとにこの人は、どこまでも。
「ありがとうございました」
この世界で、日常で生きていきたい。だけど、このままこの一連の出来事から引き下がるつもりはない。むよくちゃんをあのままにしておけない。それに自分なりに解釈したじいさんの遣り残したということを代わりに成し遂げてやりたい。
やるなら、徹底的に。
悔いの残らないように、やるまでだ。
むよくちゃんを救う。
いや、救うんじゃない。助ける、でもないな。
折紙学から奪う、かな。
とにかく、まずは行動に移すべきだ。
「そうそう、その感謝の気持ちをその身体で行動に――」
「移すか、この馬鹿野郎!」
この後も、しつこく迫ってくるアイさんから己を守るために枕を投げつけたりとか、部屋の中を走り回ったりだとか、その後に下の階の住民に怒られただとか。
そんなほんの少しの楽しい日常を費やしたことは言うまでもない。
2
二日後、つまりは火曜日。思えば、事の発端から二週間も経っていたりする。長いようで短い日々が坦々と過ぎていた。小さい頃はもっと長く感じられた時間の経過も、この歳になったらこんなにも変わってしまうのか。そう考えると、歳を取りたくないなと思ってしまう。嫌でも取るもんだけどね。
そんなくだらない戯言を脳内に考えながら、ぼくは椅子に座っていた。
ただ本来ならこの時間帯、大学の講義室で結構美人な先生がやる講義を聞いてるはずなのだけど、今現在座っているこの椅子はロングシート。窓から見える光景は、流れるように移り変わっていく。ぼくは、ぼく以外に一人だけが座っている電車内にいた。この路線は、平日休日に関わらずいつもガラガラらしい。いつもこんな感じならこの路線は要らないんじゃないかと思ってしまう。
ぼくは、ずる休みをしたのだ。
真面目に大学まで行ったところで、図書館に直行するのがオチだ。どこかでうろちょろしていても、そう変わりはない。変わりないんだ。
ずる休みをして、ある場所へと向かっていた。目的地へと。今度は、他人からの命令モドキではなく、自分の意思で。
あのときとは違う。
人形のように、生きていた人間ではなくなった。そう信じたい。
箱舟は『君を、考えうる最高の道へと運ぶ』というのが依頼だと言っていた。本当にそうだったのだろうか。何かが引っ掛かる。まあ、それも全てを終えてからでいいか。ゆっくりと考える時間ができてからでいい。
今こうして行動しているのも、誰かさんの影響かもな。
それでもいいか。
ぼくが今自分で、自分の意思で動いていると捕らえているのならそれでいい。
ぼくの世界は変化している。
常に、少しずつ、歪んでいく。
それでいい。
歪むのなら、極限にまで歪んでみろ。
ぼくはもう逃げないと誓った。
電車はゆるいカーブを曲がった。景色はみるみる変わっていくのが、目に見える。広大な海が眼下に広がっていて、海鳥が数羽ふわふわと宙に浮かんでいる。南国のような青くて綺麗な海とは程遠い、少し薄く澱んだ水に見える。ぼくは別に海水浴に来たわけじゃないから、海の事なんかどうでもいいけどさ。
駅に着くと、今日はバスに乗って移動する。
今日は町へは目も向けず、一気に目的地へ。
舞台は、あの通り。
さあ、名誉挽回に行こうか。
3
鈴の鳴るドアを開けると、中に入った。
内装は前に来たときと変わらず、壁一面時計だらけ。異様な空気が漂っている。全ての時計の短針が同じ時を示し、秒針は常に同じ時を刻む。今こうしている間にも変わらずに。
店の真ん中には作業台、そこには一人の眼鏡を掛けた男。
ぼくの今回の敵となる折紙学が前回と同様に時計の修理作業をしていたのだ。その手捌きの華麗さも変わらない。まるで機械が流れ作業をやっているように精確に作業を進めていく。
ぼくは何も言わずに、ただその作業を見ていた。
本業じゃないはずなのに、どうしてこんなに職人技みたいなことができるのだろう。
「……何しに来たのかな。まだ用でもあるのかい」
話しかけてきたのは、折紙の方からだった。
ぼくを見ないで、作業を続けている。
「ちなみに《無欲》に用があるのなら、残念だったねという言葉を君にあげよう。どうやら《無欲》は昨日から家出しているみたいなんだよ。生命の危機に直面したら、すぐに家に帰ってくるだろうけど」
「いえ、今日は折紙さんに用があるんです」
「……待っていてくれ、すぐに終わらせる」
作業ペースが上がる。
先ほどまでの機械さはなくなったが、それでも凄い手捌きだ。この人、実は本業は時計職人なんじゃないか?
「終わった」
え?
気が付けば、机の上にあれほど散乱していた細かい部品は無くなっていて、真ん中に時計が置かれている状態だった。あれほど人は速く手を動かせるものなのか。この人、このまま時計屋をやってればいいものを。
折紙は立ち上がると、ぼくの目の前まで来る。
笑みは変わらず、ぼくに向けてくる。
「それで、僕に用事って何なのかな?」
「あなたの研究についてです」
「へえー、じゃあ協力する気になったんだ。少し意外だね」
「いいえ、ぼくはあなたに協力しようだなんてこれっぽっちも思っていません」
その言葉を聞いて、折紙は少々驚いた様子を見せた。だけどすぐに表情は戻り、再び問いただしてくる。
「じゃあ、何だというんだい?」
「あなたの研究を壊しに来ました」
その発言を聞いてすぐには、表情を変えなかった。
折紙は後ずさっていき、作業台にぶつかった。折紙の身体が震える。
そして頭を右手で掴むと、次第に笑い声が出し始めた。
次第に笑い声は大きくなっていく。
「ハハハハハッ! 君が僕の研究を壊すか。本気で言ってるのかい?」
「本気ですよ。あなたの研究への情熱を根元からへし折ってあげましょう」
「それで君に何のメリットがあるって言うんだい? ぼくにはさっぱり分からないけどな。それとも、君は正義の味方にでもなりたいのかい?」
「……………………」
そう言えば、そうかもしれない。
むよくちゃんを奪うとしても、彼女が人体実験されないで済むとか、結局のところぼくにメリットと言えるものは何もないような気がする。もしぼくがこの出来事にここまで深く関わらなかったら『ぼくの見てないところで、どうぞご勝手に』と言っているところだろう。
強いて言えば、
「むよくちゃんが欲しいから、ですかね」
とっても省いた結果の解答だが、人徳的に考えれば大問題発言である。だけど、もう一つの理由を言うわけにはいかなかった。もう一つは保存しておかないと。
「《欲しいから》か。どちらかというと、悪っぽいことを言うんだね。君は彼女を物扱いするのかい?」
「少なくともあなたよりはマシなんじゃないんですか? 彼女を実験体にしようとしているあなたよりは。彼女にとっては正義の味方になれるかもしれませんよ。それに物というよりは、少女が大切にしているお人形みたいな感じですかね」
「少女がお人形を大切にするのはほんのひと時、幼少時代だけだよ。大人になったら皆棄ててしまう。いつまでも大切にする人なんてほんの僅かだ。君はその前者になりそうだね。飽きっぽそうだから」
「飽きっぽいんじゃないんです。目の前の出来事から逃げているだけです」
「《逃げる》ね。ということは、前にここに来たときは逃げたのかい? 人体実験が嫌いだという理由を無理矢理作って」
「実際、人体実験という単語は嫌いですよ。大嫌いです。好きな人って相当な変人か変態しかいないと思うんですけど」
「じゃあ僕は変人だね」
……自分から変人という人も珍しいな。
好きそうだもんな、人体実験。
「時間を取らせるつもりはありません。なるべく時間を掛けずに事を済ませようと思っているんで」
「へえ、短時間で僕を納得させるつもりかい? よほど自信があるようだね」
「いえ、自信とかの問題じゃないです。もうあなたの研究は終わりました」
『終わりました』
ぼくはそう言った。
宣戦布告ではなく終戦宣言。
戦いの始まりではなく、終わりを告げた。
その言葉を聞いて、折紙の表情は固くなった。
先ほどまでの余裕が全て無くなったような、先ほどまでの冗談交じりの会話が無かったかのような緊張感が一気に押し寄せてくる。ゾクリ、と背中に走る嫌な寒気。明らかに歓迎ムードから敵対心剥き出しの気迫を放ってくる。ようやくぼくが本気だということを理解してくれたようで、相手も本気になったようだ。
嫌な雰囲気。嫌な視線。
折紙がどんなに威圧感を出してぼくを怯ませようとしても、正直言って意味がないことだった。結局は、もう終わっていることを本人に告げるために今日ここに来たのだから。あとは本人から奪うものだけ奪っていくのみとなっている。
既に決着のついている戦闘。勝利が確定した試合。
優位な状況で、ぼくは折紙の前に立っている。
折紙はより低くなった声で言う。少し口元が釣りあがっている。
「それは、どういうことかな」
「ちゃんと発音良く言ったはずなんですけど、聞こえませんでした?」
「《終わった》ってどういうことかな?」
表情一つ変えずに聞いてくる。
「そのままの意味ですよ。あなたがどう足掻こうが、もう決着は決まってます。ぼくの勝ちには変わりないんです」
「それは間違いじゃないかな? 僕はまだ研究への情熱は棄ててないし、研究も壊されてはいないよ」
「情熱はまだあると思いますが、研究は壊れてますよ」
顔の険しさは増す。視線だけで殺されてしまいそうだ。だけど、あのときとは比べ物にならないくらい、弱い。これなら箱舟から睨まれたほうがよっぽど恐ろしいよ。
こんなものに負けられない。
「そんなわけが――」
「いえ、壊してやりました」
相手の言葉を切るように、ぼくが発言を繰り返す。
ぼくは睨み返す。
幾らぼくが勝っている状況だとしても、根本的にこの人から勝たなくては意味がない。芽を全て取り除くように、やるなら徹底的にやる。
それに、ここはぼくの独断場。
誰にも邪魔させるつもりはない。
「そのあなたの研究への情熱を鎮火するために、ぼくは四つのカードを用意させてもらいました。既にそのうちの三つは実現しています。既に、あなたが幾ら足掻いてもどうしようもない状態です。今からそれを一枚ずつ、あなたに提示します。それを聞いて逃げ出すことは絶対に許しません」
ぼくは日曜から何もやっていなかったわけではない。それなりの準備をしてきたつもりだ。あとはそれを一枚一枚捲っていくだけだった。
「――何を言い出すかと思ったら、そんなくだらない茶番をしにきたのかい? 君ごときに何を言われようとも、研究を止めるつもりはない」
「まるで研究にとり憑かれたようですね、哀れです」
折紙は作業台を思いっきり叩きつける。その振動で、時計は台上で跳ね上がる。嫌な金属音が部屋中に響く。修理したばかりの時計があるのを分かっていて、あれほど容赦ない拳をぶつけるとは。
説明している最中に殴られたら、たまったもんじゃない。
これなら、あの化物の目の前にいたほうがまだマシかもしれない。
「君に僕の研究の何が分かるっていうんだ。僕はこの研究に生涯を掛けてきたんだ。あの人の夢も背負っている。君と僕とではこの研究への思いが違うんだよ」
「だから、さっきから言ってるじゃないですか。別にぼくは研究なんてどうでもいいと思っているんです。あなたの思いなんて知ったこっちゃありません。理由はさっき言いましたよね。ぼくは、ぼくの理由のためにこうして動いているだけです」
駄目ですか、そう続けるつもりだった。
だけど、その必要はなかった。
「順に言っていきましょうか。一気に言ったら、あなたが生きていけなくなるくらいにボロボロになってしまうかもしれない。まずは一枚目から。あなたの研究方法を断絶させてもらいました」
研究方法。
研究手段。
何かを行うために必要な道具、人物、場所のことを指す。商品を大量生産するために必要となるのは材料、機械、労働者、工場。それと同じように十分な研究を行うには研究材料、研究道具、研究者、研究所が必要となる。
折紙学が行っている研究で当てはめると、材料は実験体となる人達、道具はあのカプセル、研究者は折紙学、研究所はこの通り、昔はあの研究所。
全てが揃っていれば、研究は順調に進む。
それらの内一つでも奪ってしまえば、十分な研究を行うことができなくなる。
研究ができても、進まなくては意味がない。
組織にいた頃に分かったことだ。
「あなたの研究《人を無欲にするにはどうすればいいのか》を進めることができるのは、研究者で全てのデータを所持しているあなたしかいない。研究を止める方法としては、あなた自身をどうにかすればいいという方法もありましたが、さすがに人を殺めるほどのことじゃないですし、ほかの方法にしました。研究データを奪う、または消したとしてもバックアップがどこかに隠されている可能性がある。実験体を助けたとしても、言い方は悪いけど実験体などいくらでもいる。研究を行う場所なんて、いくらでもあります」
「そうか、じゃあ君には何もできないんじゃないかな?」
「さっきから馬鹿げたことばっかり言ってますね。もう終わっていることをぼくは説明してるんですよ。それに、まだ最後の手段を言ってません」
そう、先ほどの台詞には一つ無かったものがある。
それは、
「道具、あなたの研究に必要な機械があります。《人を無欲にするにはどうすればいいのか》という研究は、人間の精神に直接介入して操作をしなければいけない。あなたの先生はまずそこから始めた。そして、人間の精神を書き換えることができる道具の理論を完成させた。そしてそれを受け継いだあなたはそれを作った」
研究者の顔は歪む。
ぼくが何を言っているのか、分からないような顔。殺気を残したまま、折紙学は混乱し始めた。動揺を隠せない。人間というのは、確信を突かれると動揺してしまう生き物だ。自分が隠していたものを暴かれるというのは、いつか来ると分かっていても予想外な出来事だ。
ぼくもつい最近にそんな経験をしたから。
「それはカプセル状になっており、その中に人を入れることで、人間の脳内に接続、静電気を利用して脳内の書き換えを可能とした。名付けるなら《学習装置》。それは《家》の財力と技術があってこその完成したもの。数少ない記録によれば、《家》で製作された《学習装置》の数は、三つ。そのうち二つは《家》の他の研究所にある。だけど一つだけがどうしても見つからなかった。《家》の見解だと、逃げた所長が一つを持っていったと書かれているが、慌てて出て行ったあなたが、人一人入るような研究機材を持っていけるか? 持っていけるはずがない。だからあなたは、自分の部屋にあった隠し部屋に一つを隠した。見付かったとしても誰にも開けられないよう、暗証番号を入力する画面も隠して。そして研究所の警戒が完全になくなった頃を待ち続けるために、あなたは隠れ続けた。再び研究を進めるために。だけど、なかなか研究所の警戒は解かれない。だから、なかなか進まなかった」
「な、何故そこまで君は知っている。それは私以外誰も知らないはずの」
声が震えている。
驚くのも当然。前に会ったとき、二週間前のぼくは何も知らない子どもだったが、今となっては今回のことについて全てを知っている詐欺師なのだから。その変貌は急だった。
だから、攻められる。弱みにつけこんでいく。
「知っているから、しょうがない。だから利用させてもらいました」
研究手段の略奪。
奪うもの、その一。
「最後の《学習装置》を回収させてもらいました」
あのカプセルは現在あのアパートにある。
そのおかげで一部屋の大部分を実験器械によって占領されている状態である。我ながら、随分と大きな荷物を抱えてしまったな。
「《学習装置》を回収? それは不可能なはずだ。いくらあの部屋の場所が分かっていたとしても、あれの重さは尋常じゃない。それに簡単に運べないようになっているはずだ」
「それについては、問題はありません。ぼくの知り合いに、物でも人でも運命でさえ、とにかくなんでも運ぶと豪語している自営業の運び屋がいますから。そんなもの造作もありません」
そう、日曜日あの後、再びぼくはあの人に会った。何故か、いつの間にか携帯電話にあの人の携帯番号が登録されていたことについては、あまり触れないことにしておこう。
連絡を取った後、ある場所にてまた対面することになる。
ぼくの依頼を、快く承諾してくれた。
快すぎて、怖いくらいだった。恐怖され感じさせる。あの人については金曜日に散々思い知らされていたので、何を言い出すか分からないところがまた怖い。対面中、ぼくは嫌に緊張していた。
それに対しての報償は、又今度会ったときに返すことになるだろう。
全て任せたので、また研究所まで付いていったわけではない。本当に運んでこられるのか、とても心配だった。心配するのも野暮だったけど。思ったよりも早く運んできた。さすがは《最高の運び屋》というところか。
「研究機材って、結構高いですよね。数億する物もあるって言いますし、おそらくあの《学習装置》も、相当な資金をつぎ込まれているはずです。簡単にまた製作するというのは難しい。だから当分あなたは研究を進めることができない」
別にこれが決め手というわけではない。
このカードには、最大の穴がある。
それを折紙も分かっているはずだ。
「……フフフフフ。君は幼いね。それで勝ったつもりかい? 研究機材はね、また作ろうと思えば作れるんだよ。他の研究機関に入れば、作れる」
どこか、焦りが見える折紙。かなり動揺しているようだった。
その通りだった。《学習装置》の設計理論は折紙が所有しているし、資金があればまた製作することができる。
ただ、
「他の研究機関に入るのは、嫌だったのでは?」
「止むを得ないときは、そうするさ。ぼくが生きている間に研究は完成させたい」
自分のプライドよりも、研究が第一か。
この人、意外に強情だった。
こうなるだろうと思っていたけど、さすがに予想通り過ぎて、面白みがないな。
研究者。
追求する者たち。
彼らとの付き合いは、結構長かった。
それゆえに、彼らがどんなに研究というものに執着しているのかというのを分かっているつもりだ。
あの人と同じくらい、それか少し足りないくらいだと思っていたのに、非常に残念だ。同じくらいなら、手強くてやりがいがあったというのに。最初から用意されていた勝利に価値があるといえるのだろうか? まあ、今回はしょうがないのか。
「では、二枚目。あなたの自由を無くさせてもらいました」
自由の制限。というよりは剥奪。緊縛。
自由とは、何にも縛られない状態を指すのだが、自由になるには、それなりの代償が必要となる。ここ日本では、自由の権利の代償に義務が存在する。税金を納める、子どもに義務教育を受けさせる、など。
折紙の今の自由の代償は、研究が進まないということ。
だから、ぼくはあえてその自由を奪った。
それで折紙は代償を払わなくて済むようになる。だけど結局自由ではなくなり、結果研究はなかなか進まないことになる。矛盾。どちらにしろ、研究は進まない。
そして、ぼくが折紙の自由を奪うために取った行動。
それは、
「《家》にここがあなたの隠れ家だと、報告しました」
簡単なことだった。
だけど、それに対して折紙はたいそう驚いた様子を見せる。信じられないと言いたげな表情だ。
元々折紙は、《家》から逃げている身。元所長ということもあり、重要な情報を所持している可能性がある。だから連絡すれば、すぐに《家》の者が折紙を捕まえるためにここへ来るだろう。
それは十分に考えうる行動だ。
だけど、折紙はそれに驚いた。
何故か?
それは、ぼくも《家》から逃げて隠れている身だったからだ。
折紙は、先ほどの焦った様子から一転、そのぼくの行動に呆れるように言う。
「君の行動はよく分からないな。それでは、まるで自分の居場所を教えているようなものじゃないか。僕同様、逃げている身だというのに。君だって、逃げ切れなくなるぞ」
またも言う通り。
このカードには、ぼくにも代償が伴う可能性があった。
さらに、その代償は大きい。敵の自由を奪える代わりに、ぼく自身の自由も失ってしまうから。今までに築き上げてきたものを全て失う可能性があった。ぼくはそれでも行動に移した。
「権力争いに巻き込まれるんじゃないのか? 直系である君は、いずれあの家を継がなくてはいけなくなるだろ? それにいやらしい、汚い大人に利用されるかもしれない。それを君は分かっていて、そんな愚かなことしたのかい?」
「ええ。だけど、それが愚かなことだとぼくは思いませんよ。むしろ良かったと思ってます。いつかはこうなると思っていましたし、僕はあの家には何の未練もありませんから。だから、ぼくは現当主の叔父さんにはっきり言ってやりました。ぼくは、絶対に家督を継がないと」
現当主、ぼくの叔父さんに電話越しでそう伝えた。
この前、公衆電話からだといっても家に直接連絡を入れている。逆探知すれば、ぼくの住んでいる場所はある程度掴めるだろう。電話に出た使用人には誰にも言わないように言っておいたのだが、確実ではない。ぼくが折紙と立ち向かわなくても、結局はこうなっていたのかもしてない。
そしてぼくは言った。
『ぼくは、家を継ぐつもりはありません』
それを聞いた叔父さんは、言った。
『そうしたいのなら、そうすればいい。私は、止めないよ。好きなようにすればいい』
その後も、会話が続いた。声の聞いたのは、家出したあの日以来。とても久しぶりだったこともあり、話も弾んだ。
思い出してみれば、叔父さんはいつも自分の子どものように扱ってくれた。叔父さんの子ども、従弟とは本当の兄弟のようだった。
当主となってもそれは変わらなかった。
ぼくは叔父さんの優しさに甘えて、他にも二つのお願いをした。
だから、ぼくに自分の損となる代償はない。
「君の言うことが本当なら、確かに僕はすぐに逃げたほうが良さそうだね」
「まあ、ここまで来て逃がしませんけどね」
あと二枚あるんだ。
それに、まだこの人は研究を諦めてなどいない。
逃がすわけがない。
「さて、三枚目です」
「もういいよ。君の頑張りはよく分かった。だけどね、ぼくは逃げさせてもらうよ。逃げて逃げて、また研究を再開しなくてはいけない。君に構ってあげられる時間もないんだ」
そう言って、階段へと歩き出し始めた。
逃走。
ぼくが昔からしてきたこと。箱舟渡によって、思い知らされたこと。
それを無性に許せなくなった。最近自分がやめたから、そう思えるのかもしれない。
今、立ち向かっている理由の一つかもしれない。ぼくも逃げていたから、今も逃げ続けようとするこの研究者を見ていられなくなったから。
だから、ぼくは言うのをやめない。
ぼくは二階へと上がろうとする折紙へ言った。
「このまま逃げるということは、むよくちゃんを置いていくんですか?」
その質問が聞こえたはずの折紙は階段一段目で足を止めた。
そして、ぼくへ言う。
「連れて行くよ。彼女は僕の研究の要だからね。それに《無欲》な人間は貴重だ。この世に一人しかいないだろう。彼女しかいない。だから、僕は彼女を手放さない、絶対に。それに、彼女は僕がいないと生きていけない」
「そんなことはありませんよ。今の彼女は、あなたを求めない。その必要がないから」
「知ってる風に言うね」
「知っているんです」
険しい顔に戻った。
何を言っているのかも分かっていないようだった。
「最初に言ったはずです。ぼくは、むよくちゃんを奪うためにここに来たんですよ」
その台詞を言い切った瞬間、ドアの鈴が鳴った。
ぼく、折紙のどちらも、ドアを開けてはいない。
時計屋を訪ねてきたお客でもなかった。
《家》の者、でもなかった。
長髪白髪、白眼、色白の肌、実年齢よりも若く見える顔、つまりは童顔、女性成人平均身長よりも低い身長、合法ロリ、無表情、無感情、無の境地、絵に描いたような、童話に出てくるような可憐な少女。
彼女は、そこにいた。
《無欲》、むよくちゃんと呼ばれる少女は。
4
家に帰ってきた、という場面にしか見えない。
だから、折紙は言った。
「お帰り、《無欲》。今からここを離れる。持っていけるだけの自分の荷物をまとめろ。すぐにここから出て行くぞ」
むよくちゃんは、無表情で頷くと階段を上って、二階に行った。
というのが、ここで一番考えられる《無欲》なむよくちゃんの行動だ。
だけど、その予想を遥かに超える行動をむよくちゃんは取った。
無表情のはずの彼女は、少し顔を赤らめるとぼくの後ろに隠れた。
顔を赤らめた。
赤らめた。
恥ずかしがった。
とっても可愛らしい普通の女の子のような行動だった。
可愛らしい。
無表情のはずの彼女が、顔に表情を出した。
それに対してぼくは驚かず、折紙はおそらく驚き過ぎて言葉も出ないのだろう。目は揺れ動いていた。先ほどの反応よりも大げさだ。沈黙の時間が長い。
疑いたくもなったのだろう、本当はむよくちゃんじゃないのでは、と。
だけど、見間違えるはずがない。白髪、白眼の少女がそんなにいるわけがない。
まあ、革命的な出来事だったのだから、仕方がないだろう。
本当に革命といっても、過言ではない。
というか、革命だ。
何故なら、
「な、なんだ、その顔は! 何で赤らめる! お、お前は《無欲》だろ!! 無欲な人間のはずだろうが!!」
むよくちゃんとは別の意味で顔を真っ赤にした折紙は、怒鳴り散らす。
怒鳴られたのが怖かったのか、無欲だったはずの少女は、さらにぼくの後ろに隠れる。そして、ぼくの服を強く掴んでいる。明らかに、怖がっている。ちょっとやそっとでは動かないだろう。
無欲な少女は、感情を表に出せないはずなのだ。無表情なはずだった。
何故なら、無欲だから。
嬉しいことを求めず、楽しいことを求めないから、次第に感情を出さないようになる。だから、悲しいことにも泣くことができない。無表情の偶像のようなものだった。
そのはずだった。
だけど、彼女は変わった。
変わってしまった。
いや、変えた。
「そんな顔をするな!!」
一段目にあった右足は、ぼくへと、ぼくの後ろにいるむよくちゃんへと向かってくる。怒りに支配された折紙の表情は、鬼の形相。
ぼくはそんな折紙から守るように、立ち塞がった。
「どけ!!」
「どくわけがないだろうが!!」
むよくちゃんに殴りかかろうとする折紙を、ぼくは右頬に向けて殴った。
それを避けることができなかった折紙はまともに受けて、ほんの少し後ろへと飛ばされる。そして、バタリと床に倒れてしまった。
このまま反撃に来るのではと待ち構えたが、なかなか立ち上がろうとしない。
沈黙。
しばらく折紙は動かなかった。
切れている口を開けて、落ち着いた声で言う。
「これが、君の言う、三枚目のカードなのか」
「……そうです」
「フフフフフフフフフフフフフフフフフフ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハ―――」
笑い出した。狂いだした。限界を通り越したのだろう。狂気が広がった。
切れたところから黒に近い赤い色の液体を出しながらも、大口を開けて、大声で、笑った。赤い液体は、頬に線を描くように流れていく。笑い声を上げるたびに、ドクドクと。
建物に響き渡る不気味な笑い声。
世界のひび割れる音がした。
「君は、こいつを堕落させたのか」
「それは違いますよ。ぼくは彼女を人間に近付けたんです」
《学習装置》。
それは、無欲な彼女にも適応される。人間を無欲にするのは、不可能だった。だけど欲を加えるのは成功していた。だから、無欲な彼女にも欲を与えられる。ぼくは彼女に欲を与えた、植えつけたのだ。ある研究者が持っていた、おそらく類史上最も強力な欲を。
それを研究者は、堕落と言う。
それを《欲削ぎ》は、人間に近付くと言った。
まったく逆の意見、見解。
結果、彼女は無欲ではなくなった。
「あの様子じゃあ、全ての欲を植えつけたわけではないようだな」
「ぼくも彼女と同様、人間のなりかけのようなものです。完全ではないんですよ。欲に疎いところもあるんで、ぼくの欲をベースとした場合、彼女は結局人間になりきれない。だから、ぼくはぼくの知っている確実なものだけを植え付けました。《名誉欲》だけを」
五欲の一つ、名誉欲。
誰かに褒められたいと思うこと、その欲望。それはいろんなところで見られる。一番の例えは、研究者。彼らは名誉のために生きているといってもいい。自分が挑んできた研究の成果、功績が讃えられることを目標としている。子どもが母親に褒められようとするのも、またこれと同じと言えるだろう。
人に褒められたいと思う気持ち。
それがあるだけで、人間は感情を表現できるようになる。
褒められて、嬉しいと思える。褒められないで、悲しいと思える。
彼女は、感情の意味を理解できるようになった。
だけど、彼女は中途半端だった。
「さながら、オモチャみたいだな。女の子が着せ替え人形で喜んで遊んでいるようなものだ。自分勝手に欲を付け加えられるからな。自分の好みの女にできるってことか。こいつは、美人だからな。よかったな、こいつを好きなようにできて」
「そんなことはしませんよ。約束しましたから」
「だけど、《無欲》がいなくても、僕の研究は終わらない。《無欲》のデータは、既に保存されている。今更必要ない。僕は、成し遂げなくちゃいけないんだよ。あの人のために、あの人自身が成し遂げられなかったものを」
「その必要はありません」
むよくちゃんのことがよっぽどショックだったのか。それともぼくに殴られたのが原因なのか、最初に見せたあの気迫も気力もあまり残っていないようだ。目が虚ろ。出てくる言葉も、強さを感じない。
折紙は衰退しつつある。
そんな折紙に追い討ちを掛ける。
卑怯だと罵倒されても、別に構わない。
ぼくは理由のために、いくら批判されても揺るがない。
最後のカード、四枚目。
それは行動を取ったわけではなく、何かをしたわけじゃない。
ただ今までの台詞、情報から、折紙学を倒すためのぼくの言葉。
化物共に名付けられた、《欲削ぎ》と。
《欲削ぎ》の本領発揮というところか。
今こそ、もう一つの理由を。むよくちゃんを奪いに来たという理由とは違う、もう一つの理由。今回、こんな出来事に突っ込むキッカケとなった理由を。
「何故あの研究所が廃棄されたか、あなたに分かりますか」
「……確か前に君に言ったはずだ。お偉いさんの一人が廃棄を決定したんだ。それだけだよ」
「お偉いさんって誰のことですか? ぼくの知っている人ですか?」
もちろん、ぼくは誰がそれを決定したのか知っている。
だからこそ、分からないことがあった。
「知らないさ。上の決定なんて、僕みたいな下の人間には伝わらないんだよ」
――あの人のために、研究を成し遂げたい。
それ一つにしがみついて、研究を続けてきたのだろう。
自分自身がそれを成し遂げたいというよりは、そっちの思いのほうが強いように見える。
結局この人は、
「あなたのことを調べさせてもらいました」
これも叔父さんに頼もうと思っていたのだが、《家》でも難しそうだった。
折紙学の過去については、何も残っていなかった。過去は詮索しないという条件で、所長になったらしく、元々少なかった折紙の個人情報は《家》のデータバンクからも、研究所からも全て完全に削除されていた。
そこで《道化師》の力を借りることになる。逃げていたぼくのことを探し出すことのできたあの情報屋の力を。
そして今朝、電話でその調査結果がぼくに知らされる。
折紙の過去。
「折紙さん。あなたは、孤児ですね。あなたの両親は、あなたが幼い頃交通事故で亡くなっている。その後、頼れる親戚がいなかったあなたは孤児院に入ることになる。その孤児院は《家》の経営する孤児院だった」
《家》の孤児院。
ぼくも昔、じいさんに連れられて行ったことがある。
幼くして両親が亡くなってたり、棄てられて精神的に傷ついたはずの子どもたちは、皆外で仲良く遊んでいた。中には、部屋の端っこでしゃがんで落ち込む子どももいた。ただ、ぼくはそれを遠くから見ていたことを憶えている。
折紙はそんな中の一人だったのだ。
「元々《家》の孤児院や養子縁組経営の案を出したのは、そのときまだ十代だった、ぼくのじいさんだった。昔からじいさんはたびたび孤児院を訪ねていた。だから、孤児院にいる子どもたちにとっては憧れの存在であり、尊敬に値する人物だった。あなたが孤児院にいたときはもうじいさんは大学に研究を始めていたが。あなたは話だけで聞いていたんですよね、じいさんのことを」
折紙は何も表情に出さない。ただぼくの話を一方的に聞いていた。
全てが繋がっていく。
ぼくの中でもやもやとしていた景色が一気に晴れて鮮明になり、ばらばらに散らばっていたものが重なって一つになっていた。
いくら研究に惚れたからといって、人生を掛けてまで他人の研究を成し遂げようとするのか。ぼくならおそらくできないだろう。そこまでの執着することができないはずだ。
執着し続けた理由。
「あなたは、とても優秀だった。他の人に比べて、別格。だから高校まで進学したあなたに《家》は奨学金を出して、大学進学をさせてくれた。おそらく《家》の孤児院でなかったら、あなたは大学まで進学できなかったでしょう」
大学に進学することができた折紙は、大学である人物に出会う。
折紙はその名前に見覚えがあった。忘れるはずがない。孤児になってしまった自分をここまで生かしてくれた人物なのだから。
それこそ、ぼくのじいさん。
運命的な出会い。
目の前には、恩人がいた。
「研究自体にも興味があったのかもしれない。だけど恩人と話したいという気持ちのほうが強かったんじゃないんですか? そして研究室に入ると、じいさんと話す機会はどんどんと増えていった。そして恩人から、本当に尊敬のできる先生へと変わっていた」
だけど、あの日が来てしまう。
いつかは来るはずだった日が、とうとう来てしまった。
これからだというときに。
じいさんは《家》を継ぐために研究を諦めなくてはいけなくなった。
「あなたはじいさんに研究を受け継ぎたいと申し出た。尊敬する先生が途中で夢を諦めてしまう。それが嫌だった。だからおそらく、自分を救ってくれた先生を今度はぼくが、とか思ったんでしょうね」
だから、受け継ぎたいと言った。
受け継いだ。
そして、今に至る。
折紙は逃げながらも研究を続けている。尊敬する先生、恩人でもあるじいさんがまだ心残りにしていると考えていて、まだ成し遂げたいと思っていると信じていて。
だけど、二人の間には大きな誤解がある。
何故なら、
「あなたは逃げてまで、何故研究を続けるんですか?」
いつかしたことがあったような質問を、ぼくは再び折紙に問いかける。
折紙はぼくのほうに顔だけを動かすと、掠れたような声で言った。
「あの人が、成し遂げられなかった研究を、あの素晴らしい研究を、成し遂げたいからだよ。それが、僕ができる、あの人への唯一の恩返しなのだから」
つまりは、そういうことだった。
恩返しがしたかった。それだけだった。
だけど今では、研究を成し遂げるという行為に恩返しの意味がない。
「さて、ぼくがあなたに質問した《何故あの研究所が廃棄されたか》について。誰がやったのか、その答えをあなたに教えましょう」
それは、研究の元を作った人物。
「ぼくのじいさん。あなたの先生であり、恩人であり、尊敬する人物です」
「……嘘だ。だって、そんな、そんなはずがない」
そんなはずがない、そんなはずがない。嘘だ、うそだ、うそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだ。
うそだ――――――――――――――――――――――。
折紙は、否定を続けた。
否定し続けるしかなかった。
支えとなっていた一つの柱を失いそうで怖いから、必死に否定する。先ほどまでの三枚の攻撃カードでも崩れなかった柱は、ぼくの最後の一声で脆くひび割れる。
今にも崩壊寸前の世界。
ぼくは坦々と爽やかに言ってみせる。
「嘘じゃないですよ。確かに研究所の廃棄を決定したのは、じいさんです」
「何で、あの人は、そんなことを。もう少しで完成すると、あの人も分かっていたはずなのに。それなのに、何で、何で」
「違いますよ。じいさんは、絶対に成し遂げられないと分かってしまったんです。だから廃棄を決定した」
そもそも無理だったのだ。
人を無欲にするなど。
欲の無い人間は、いない。
七人の犠牲を払っても、完成しない研究。そんな研究をいくらやったとしても成し遂げることなどできるはずがない。例え完成したところで、なにがあるのか。社会に貢献でいるわけでもなく、自己満足で終了する。そんな簡単なことを考えられないほど、研究というものにじいさんも折紙も魅了されていた。
じいさんは、そんな研究に絶望した。自分がやっていた研究はこんなにも愚かなものだったのか、と。
そして何よりも、
「孤児だったあなたが、同じような境遇の子どもたちを利用してじいさんの研究を完成させようとしたというのが、じいさんにとって一番ショックだったんですよ」
おそらくという言葉を続けようとしたけど、やめた。
自分のせいで、自分のせいでこうなってしまった。優秀な子どもの人生を自分の研究で台無しにしてしまい、孤児たちの未来も奪ってしまった。
とことん後悔したのだろう。
それが心残りだったのだろう。
だから、ぼくにそれを託したのかもしれない。
家から逃げたという自分と同じ道を進もうとしている孫に、それを託し、最後まで同じ道を歩ませないように。考えすぎなのかな。そこまでの意味があるかは、それとも他に理由があるのか、それは本人にしか分からないな。とにかくそんな意味があるいうなら、じいさんらしい行動だったのかもしれない。
「だから、もしあなたが生涯の全てを掛けて研究を成し遂げても、じいさんへの恩返しにはなりませんよ。むしろ、じいさんは悲しむでしょう。成し遂げても、褒められもしません。あなたの研究は、今日ここで終わりました」
理由なき研究。
そんなものに、はたしてどれだけの価値があるというのだろう。
恩返しにはならない、むしろ恩を仇で返すような行為に成り下がってしまった。
折紙は無表情を突き通していた。
だけど、口からの赤い液体と両目からの透明な液体だけは抑えようがないようだった。透明な液体は流れ続ける。頬で黒に近い赤色の液体と合流すると、淡い赤へと変化する。床にぽたぽたと落ちていく。
もう、終わった。全てが終わったのだ。
気力も、気迫も、何もかもが削がれた男は、ぼくに対して何の反論もできない。口は少しも動かない。腕はだらんと床についているだけ。
この出来事は終了した。
相手の戦意喪失。
欲の喪失は、いつ見ても無様だ。
無様で、儚い。そして脆い。
雨で落ちる桜の花びらのように、散っていく。
これで、二回目。
一回目よりも、軽かった。あの馬鹿げた運び屋に既に用意されたものを提示していくだけ。ぼくはそれしかやっていない。一回目の方が、遥かに辛かったはずだ。仇を討とうと、必死になって、必死なのを隠して、ほぼ自分一人でやった。
なのに、何故だろう。
なんでこっちのほうが辛いんだろう。
辛くて、悲しい。だけど、涙は出てこない。
「むよくちゃん、さっさと持てるだけ荷物を持ってきな」
「……うん」
返事を返すと、むよくちゃんはそっと服から手を離す。
そして駆けていった。
階段を上って、二階へ。
数分後に重そうなキャリーバッグを抱えて、ゆっくりと下へと降りてきた。
ぼくにキャリーバッグを渡すと、再び駆けていった。
折紙の元へと。
むよくちゃんはしゃがむ。折紙は、ゆっくりとむよくちゃんの方を向いた。
むよくちゃんは、上から持ってきたのであろう手に持っていた白いレースのハンカチで折紙の頬を拭く。白いハンカチが赤く染まっていく。
そして、むよくちゃんは言った。
今までなら絶対に言うはずのない言葉。
ぼくにもかすかに届く程度の、小さな声で。
紅潮させながらも、悲しそうな顔をして。
「今まで、今までありがとうございました」
お辞儀をして御礼を言った。
今まで生かしてくれて、ありがとうと言った。
感謝の言葉。
普通ならば、他の研究所に行っていたら実験体になっていたであろうむよくちゃんが今までならずに済んでいたのは、折紙学が一緒に連れ出してここで生活していたからだ。そして折紙は、むよくちゃんを一応大事に扱っていた。
だから感謝した。
そんな彼女を見ていた折紙は、顔を背けた。
今の人間らしい彼女を見たくないのだろう。それとも、先ほどまでとは違う涙を流しているのか。むよくちゃんの両目にも微かながら光るものが見えた。
ぼくには分からない。
「行こうか」
「うん」
右手にはキャリーバッグ、左手には小さな手。ローラーの転がる音と、足音が同時に立つ。
鈴は鳴り、扉は開かれ、外の世界へと少女は行く。籠から逃げた小鳥のように。
正午、午前十二時を示す時計たちは、一斉に時を知らせる鐘を鳴らした。
世界は崩れて、折紙学の幻想が壊れた。




