始まりの章+序盤 ― 『人一人又一人』
第二回目の更新。
1 ― 始まりの章
ある目的地へと進める足は、次第に速まっていた。
最寄りの駅で目的地近くまでの切符を買って、改札をくぐり、ホームへ。自動車かバイクを持っていれば、目的地にそのまま乗っていけるというのに、貧乏な大学一回生にはけっこう難しい問題だと思う。数分後に電車が来ると、目の前の車両に乗り込む。車両内は物静かでガラガラ。わずか数人が座席を広々と使用していた。ぼくは適当なところに座る。
移動中は暇なので、日課の脳内整理を始めた。
おそらく今後一生脳裏から離れることのない文章どもが図々しくも浮かび上がってきた。それは、つい昨日ぼくに宛てられてきた(実際は宛てられていないのだけど)封筒の便箋に書かれていた内容のことだ。
「……………………」
……はぁ。
深い溜め息を吐いた。同時に幸運までどこかへ逃げて行ってしまったような気がした。
どうして、ぼくはこんなことをしているのだろうか。己のことながら不思議でならない。
疑問がぼくの中にたくさん残っていた。
たった一文のことなのに。その言う通りに行動をして、一体何になるというのだろうと、ずっと考えていた。実際に今こうして行動しているんだけど、未だに謎。謎は深まるばかりだ。幾ら考えても、答えは見付からない。
まったく、ぼくは今ようやく人並みの平和というものを味わっている最中だというのに。余計なことをしてくれたものだ。
一通の手紙、一人の声によって、少しずつ変化していくなんて、なんて滑稽な話なんだ。滑稽過ぎる。
それは、手紙の影響力か。それとも、ぼくが元々影響を受けやすい人間だったのがそもそもの原因か。どちらも正解だったりする。
本来今日という休日は、隣人の買い物に付き合うという、とっても大切な予定が入っていたというのに。少しは楽しみにしていたし、何より近所付き合いできるチャンスで、ぼくにとってはけっこう重要なことだった。それを一度了承した後で自分勝手に断ってまでどこかへ向かおうとしているなんて、ぼくはなんて最低な人間なのだろう。
だけど、しょうがなかったんだ。事の重要さが、こちらのほうが上だと思えたから。ほんとに隣人には申し訳ないと今でも思っております。
手紙の差出人。彼は、いつもそうだ。
誰かを巻き込まずにはいられない。
ぼくという一人の人間を構築する上であの人の存在はなくてはならない人だ。四年前に家を出たあの日からも、そして今もそれは変わらない。かけがえのない存在を失ったような気がする。もしかしたら、家の中であの人の影響を一番受けたのはこのぼくなのかもしれない。
ある意味、操り人形のようなものだな。
自分の意思では動けない。他人の意思のまま動く。
家を出ても、平和に生きていても、それは所詮人間の真似事というわけだ。
人形の如く。
物真似にすぎない。
じゃあ、ぼくの人生って一体何なのだろうか。
あの人の人形劇?
違うな。そこからは当の昔に抜け出してしまったから。
だけど、今ぼくは従っているよな。
このまま、また舞台に上げられてしまうのだろうか。
それも違うだろうな。その舞台には既に代役が立っているらしいからね。ぼくの入る隙間など、どこにもありやしない。あそこにぼくの居場所はなくなった。
なら、何のために。
ぼくは何処に向かってるんだろうな。
……ああ、馬鹿らしいな!
いつの間にか哲学的なことを考えてしまっている自分がいた。こんなところでこんなこと考えていても、何も始まらない。始まらないものを待っても意味がない。
そんなことを考えている間にも、二両編成の電車は着実に目的地に近づいている。
しばらくすると、右手のドアが開いた。
すぐに車両を降りるとホームから出、すぐに無人改札をくぐり抜けた。
さて、久しぶりに触れてみますか。
2
それは一通の封筒でした。
何の変哲もない茶封筒。
その封筒には、宛名が書いてない。それどころか、宛て先の住所も郵便番号も差出人の名前も、さらに郵便局で押されるはずの判子さえも押されていなかったという始末。中には何か入っているようだけど、開けないと分からない。
それが何故だか、とあるアパートの一室の郵便受けに入っていた。
ぼくの住んでいる、築三年のどこにでもあるような鉄筋コンクリートのアパート三階建て。その三階にある1DKの部屋を現在借りている。最寄りの駅まで自転車で十分、大学まで自転車で十五分というなんとも素晴らしいアクセス。
で、そんなアパートの郵便受けに入っていたこの封筒は、一体何なのだろう。
まさか、好きな人の自宅を調査してその人の家の郵便受けに入れるという新手のラブレターだろうか、それともただの勧誘のチラシか。前者だったら素直に嬉しがるべきか、その場でこわいよーこわいよーと唸っているべきなのか、迷いどころだな。どちらにしても、何も書かれていない茶封筒は使わないだろうけどさ。
待てよ。今回は《たまたま》良い封筒が見つからなくて《しょうがなく》茶封筒に入ったラブレターという可能性も無くは。
……無いよな、皆無だ。
今までに家に届いた封筒と言ったら、NHKの受信料とか携帯電話の通信料とか、主に公共料金の徴収が目的のものしか来たことがない。ぼくは寂しい男です。
「よっーす、お帰りぃ。今日も大学かい? 真面目だね」
自分の部屋に戻る途中、三階の廊下でちょうどぼくの隣の部屋から出てきた住人にたまたま出会ってしまった。目には微かに光るものが見えるけど、それはおそらく悲哀の涙ではない。今まで寝ていたに違いない。断言できる。
「そうですけど。アイさんはこれからバイトなんですか? 大変ですね」
「結構楽な仕事なんだよ、これが。今まで中で一番楽な仕事かもしれないね。バイト代も結構良いし、稼ぎがいだけはあるよ。ただ仕事の内容上、君に紹介することはできないんだよね。内容、知りたい?」
「結構です」
きっぱりとお断りしました。
一般常識のアルバイト(コンビニの店員とかスーパーのレジ打ちとか、ファミレスのウェイトレスとか)とは、別次元のアルバイトをなさっているようで。そんなバイトには関わりたくないです。
知りたくもないです。
「気になるんだろ、気になるんだろ? 特別に教えてやるからさー、知りたいですって言えよー。なぁ?」
「……………………」
「おお? どうしたんだい、少年。いきなり黙り込んでしまうなんて、少年らしくもないじゃないか。なあ、もっとお話しようよー、ねーねー」
フルネーム、色橋愛さん。アイさんは、ぼくの部屋から右隣の部屋に住む、ぼくと同じ大学に行っている(?)大学三回生でぼくの先輩にあたる人だ。ぼくにとってお姉さんのような人でもある。今はジーンズに丈の短いタンクトップというスタイリッシュな服装を着ていた。
悪い人じゃないし、比較的優しい人だし、良い人なんだけど。
……悪い意味でとても人懐こい人だ。
「もうその話はやめましょうか。違う話題なら幾らでもお話しますから」
「えー、どうしてー?」
「ぼくが不愉快だからです」
「そんなこと言ってー。実は気になって――」
「大学には行かないんですか? ここ最近ずっとバイトばっかり行ってるみたいですけど、そろそろ出席した方がいいんじゃないんですか? 出席日数もやばいんじゃないんですか?」
無理矢理話を方向転換。ぼくから質問のアメアラレ。
おそらくぼくから聞きたいと言うまで、あのまま半永久的にループしていたと思う。
方向転換の仕方が良かったのか、話は変わった。
「そういう少年も講義にサボりがちらしいじゃないか。物知りニートさんから聞いたぞ。大学に行っても図書館にばっかり行ってるんだろう? まだ一回生だというのに。ちゃんと講義は受けるべきだと思うんだけど、そこんところ少年はどう思っているんだい?」
「むっ」
くそ、余計な事を言いやがって。だけど、確かにアイさんの言う通りだ。
言い訳ではないのだが、別に勉強するのが嫌いだとか、難しいというわけではないんだ。講義がつまらないのが悪いんだ。言い訳じゃないんだからな。
それでしょうがなく、最近は市立図書館よりも蔵書が多くて充実した大学の図書館に通い詰めだ。図書館のほうが講義よりよっぽど面白いから。講義室に入るよりも図書館に入る回数のほうが確実に多い。
「ですが、それだけはあなたに言われたくありません」
「実際こんな人間だからこそできるアドバイスもあると思うのだよ。私というダメ人間はバイト一筋学生だけど、少年には素晴らしいキャンパスライフを過ごしてほしいわけだよ。私の可愛い後輩でもあるわけだし」
自覚あったんだ、この人。
「何であの大学に入ったんですか?」
「さあ、何でだろうね」
よく分からない人だった。
最初に会ったときからよく分からない人だったような気がする。
話は終わったと思って、部屋の鍵を開けて、いざ部屋の中に入ろうとするとアイさんに止められた。わざわざ肩を掴まれて。大学のことについては全て話終えたし、ほかに話す話題も特に思いつかない。
何故止められたんだ?
「その封筒」
「これですか?」
見せびらかしてみる。特に意味は無い。
「ずっと気になってはいたんだけどさ」
「どうして気になるんですか?」
確かに気になる要素はたくさんあるけど、アイさんが気になるような要素は一切無いような気がするけど。
「それを少年の郵便受けに入れる男を見たんだよ」
「男、ですか」
郵便局員か?
「ああ、あれは確かに男だった」
「別に性別を確認してません。その人はどんな服装をしていたんですか? それに顔も見たんでしょう?」
「そうだな。印象としては、好青年ってところかな。ダークブラックのスーツにオレンジ色のサングラスを付けていた。髪も見事に鮮やかなオレンジ色だったよ。結構格好良かったなー。あれで、もう少し若かったら、ちょうど君ぐらいの歳だったら後ろから襲っていたかもしれない」
……この話を続けるのは、やめましょう。
以前に他のアパートの住民、物知りニートさんから聞いた話なのだが、どうもこのお姉さんは自分の歳よりも年下の、若い男の人を好むらしいのだ。そのうちぼくも……。
この人の前では警戒を解かないことにしましょう。
ていうか、これを言いたいがために、ぼくを引き止めたのか?
「どう、今から飲みにでも行かない?」
飲みに誘われた。
どうやら、そっちが本題らしい。
「またですか。何で知っていながら毎回毎回同じことを言うんですかね。ぼくは未成年なんですよ。それに、アイさんはこれからバイトじゃないんですか?」
「もし少年が付き合ってくれるんならバイトは休む! ねー、行こうよー。あと一年で飲める歳になるんだろ? なら今から飲んでもそう変わりはないはずだ」
「残念ながら、あと一年は未成年なんです」
「けーち」
「ケチとかそういう問題じゃないんです。日本の法が未成年の飲酒を禁止しているのが悪いんです。文句を言うのならぼくじゃなくて国に言ってください」
「しょうがないなー。じゃあ明日、ちょっと付き合え」
「何で、ですか?」
「買い物に行くから、その荷物持ちだよ。どうせ暇なんだろう?」
「それなら明後日でもいいじゃないですか」
「残念ながら、明後日は一日中バイトなんだ。これだけは休めない。どうせ少年は土曜でも日曜でも年がら年中暇人だろ」
確かに暇です。
どうせ特にこれといった用事もない暇人ですよ、ぼくは。することといったら、せいぜい図書館で借りた本を一日中読むくらいしかないのだ。それに幾ら自分よりも若い男の人好きで、危なそうな人だとしても、普段からお世話になっているわけだし、たびたびお金が無いときに奢ってもらったこともある。
断る理由は、これといって特に無かった。
「いいですよ。どうせ暇ですから」
「そうか、じゃあまたな」
ニコリ、と優しい笑顔で言った。
階段へと向かうアイさんを見守って、姿を見えなくなったら再び自分の部屋のドアを開けた。
何ともまあ殺風景なお部屋だこと。まったくといって面白みが無い部屋です、はい。ぼくが思う必要最低限の家具しか置いていない。本棚、ソファー、机、椅子、ベッド、以上。おかげで元々狭いはずの部屋も広く感じる。
そんな部屋の中に入ると、ソファーに鞄を投げつけた。そして棚から鋏を取り出す。そして鋏を使って封筒の封を開ける。中には四枚の手紙が入っているようだ。それを取り出して、広げた。
まずは一枚目に、
『元気にしているか――』
予想外、というか予想以上の驚くべき現象がぼくの脳内で発生していた。
封筒の中に入っていた手紙、その冒頭に書かれていた文章。見覚えのある字が縦書きに羅列していた。今までに何百回と見たことがある、忘れるはずのない文字。ぼくが筆跡鑑定士じゃなくても分かる。
どうしてこんなものが、ここに、あるのだろうか。
急いでアパートから出ると、一番近所のコンビニへと走った。そしてそのコンビニに着くと店内には入らずに、店前に置いてある公衆電話で電話を掛け始めた。
そして父方の実家に電話で確認して、ようやくこの手紙の正体が明らかとなる。
父方の、ぼくの祖父の遺書。
それがぼくの元に届いたのだった。
ちなみに、電話に出たのはまだ生きているはずの祖母ではなく、使用人の一人だった。初めはぼくのことを凄く怪しがっていたが、ぼくの名前を出したらどこから発せられたのか分からなような、悲鳴に近い甲高い声を上げて驚いた後にぼくだとようやく信じてくれた。ぼくがまだ家にいたころから働いている人らしい。誰の声かは分からないけど、電話越しから聞こえてくる声はどこか懐かしい感じがした。
『今どうしているのか』という質問の雨が降りかかる中で、ぼくは沈黙という傘で己を守りながら、今一番聞きたいことを率直に聞いてみた。
「じいさまは、元気なのか?」
先ほどまでがっつくようにぼくの最近の状況を聞きだしていた使用人は、その質問を聞いた途端に黙ってしまった。その後、しばらくして答えてくれた。
『……残念なことに、当主様は一週間ほど前にお亡くなりになられました』
…………………………………………。
へえ、そうか、やっぱりじいさんは亡くなったのか。
あれ、何故だろうか。
凄く悲しいはずなのにな。真実を知ったら泣いてしまうかもしれないとさっきまで思っていたのに。だけど、目からは涙が出てこない。悲しいと心が感じたときって、泣くものじゃなかったのか。涙が出るものじゃなかったのか。
涙、悲しみ。もしかして分からなくなってしまったのだろうか、ぼくは。
身近だった人が死ぬってこんな感じなのだろうか。
それともぼくという人間は生きていないからか。
今はどっちでもいいか、そんなこと。
ついでに、じいさんの死因も教えてくれた。
亡くなった原因は、特に病気を患ったとか、事故で重傷を負ってとか、そういうことではないらしい。純粋に寿命死。生物が最終的に辿り着く場所だった。あの獅子奮迅なじいさんでも寿命には敵わなかったというわけか。ていうか寿命というほど歳だったっけ、あの人。あまり意識したことが無いからな。
その死も別に突発的な、つまり突然死なわけではなく先月くらいからその兆しがあったらしい。月日が経つにつれて、身体だけは弱まっていった。相変わらずのデカイ態度を取っていたらしく、精神面だけは衰えを誰にも見せなかったという。
じいさんの死についてはある程度分かった。
もう一つ、気になっていたことを聞いてみた。それは、当主の死という大きな出来事によってどのような影響があったのかということ。ぼくにとって、都合の悪いことになっていなければいいけど。
「次期当主って誰なんだい?」
『意織様です』
どうやら、心配するだけ無駄だったらしい。
椅子取りゲームの勝者は叔父さんだったらしい。まあ、あの男じゃなかっただけ、まだマシと言えるだろう。それに叔父さんならぼくよりも遥かにうまく立ち回れるだろう。リーダー性があるからな、あの人は。これで家の方は、しばらく安泰だ。
ガチャン、ピーピーピー。
コンビニで少し買い物をした後に帰り道をゆっくりと歩いて、アパートへと帰った。自分の部屋に戻る。
さて、これからどうしようかな。
じいさんが亡くなったのは、今こうしてはっきりしたわけだ。そしてぼくの手元には何故かその遺書がある。
手紙の内容をもう一度確認した。
初めに、近頃の自分の具合と『死が近いかもしれない』と弱気なことが書かれている。電話で言っていたことと真逆じゃないか。あの人なりのやせ我慢だったのかな。
次に、近頃の家の状況。特に変わりはないらしい。どうでもいいけど。
そして最後に書かれていた文章の冒頭。
『最後に、私が遣り残したことを、お前が代わりにやってほしい』
という一文。
遣り残したことか。
そんなものをぼくに押し付けるために遺書なんて書いたのか。はー、よりもよって、このぼくにか。それに誰かを頼るところなんて、あのじいさんらしくもないことを。
興味はあるんだ。じいさんがぼくに託してまで成し遂げたいこととは、一体何なのか。その一文の後にはそれについての詳しい説明は何もなくて、ただ住所が書かれていただけだった。その遣り残したということをすぐぼくに教えないつもりなのか。何がしたいんだろうな、あの人は。
そして、もう一つ気になることがあったりする。
この遺書を郵便受けに入れたという男のことだ。
ここの住所は、家の誰にも教えたことがない。ぼくがどこで生きているのかも分からないはずなのだ。それにも関わらず、こうしてじいさんの遺書はここに届いている。家全体が知っているわけではないようだし、だとしたらじいさん個人が探偵にでも頼んだのだろうか。そんなことをするよりか、部下に頼んだほうがもっと確実だろうに。
いろいろと知るべきことが多そうだ。
すみません、アイさん、明日一緒に買い物に行けそうにありません。
3
そして次の日土曜、駅から町へと一歩踏み出したぼくは駅入り口近くに置かれていた町の地図を見ていました。
あまり大きな町ではないけど、目的の地まではそれなりの距離があるみたいだ。予想外である。バスでも利用できればいい話なのだが、あいにく交通費は電車代しか考えていなかったため、余裕がない。タクシー、問題外。問答無用に除外。
散々いろいろと脳内会議、考えた挙句、結局移動手段は徒歩になりました。条件は変わっても、手段は変わらない。
電車の中ではあれほど考え事をしていたというのに、歩いている最中はそれらが一つも思い浮かばない。さっきは忘れもしないと言っていたような、言ってなかったような。
この町を訪れるのは今日が初めてだった。興味津々。見かけたことがあるような風景でも、少し違っている。その少しを気付くには、実際町の中を歩いてみないと分からない。それが町歩きの面白いところだと思う。バスの中からだと気付けないこともあるのだ。それに乗り物に乗ったら、また考え事をしてしまいそうだ。というどうでもいいことを考えながら、ぼくは歩みを進めていた。
道中、興味をそそるものがたくさんあったが(洋食店なのに店名が『上海』とか、妙に怪しそうな呪いグッズばかり店の前に置かれているクリーニング店とか、現代では珍しい駄菓子屋の正面に貼ってあった『話題の豆乳ラムネ、始めました』という手書きポスター。これだけは帰りに買って帰りたい)、寄り道をするほど時間も金もぼくは持ち合わせていない。
時計で確認したところ、駅を出発してから三十分ほど。
ようやく目的地の近くまで辿り着いたようだ。結構長かった。今度来る機会があったら、絶対にバスを選ぶことにしよう。
目的地周辺は、何やら不思議な空間だった。
何と言いますか、変わった通り道だ。
一車線道路を中心に、西洋風の建物が軒を連ねていた。異国情緒溢れる通路。沖縄県に国際通りという土産屋が立ち並ぶ通路(どこら辺が国際なんだろう)が存在するらしいのだが、この通りはある意味国際的な通りだ。
何かの観光地なのだろうか、聞いたことも無いけど。
通路に歩行者はちらほら見えるものの、建物に入ろうとする人は一人も見かけない。
活気というものがまるで感じない。異国というか、異世界みたいだ。
そんな中にぽつんと一人、地面に座っている女の子がいた。風景と合わさって、童話の一場面みたいな光景だ。とってもメルヘンチック。
白髪で長髪の女の子は何かを見つけているかのようにずっと地面を、歩行者道路を直視しているように見える。
すぐ隣を大型自動車が勢い良く通り過ぎても、小学生高学年から中学生一年生くらいの年齢だろう女の子は静止を続ける。髪の白さと同じくらい綺麗で純白のワンピースを着ている。それ以上はここからだと、彼女が何者なのか分からない。ただ分かるのは、この通路並みに不思議な女の子だということだ。
ぼくは、そんな彼女に何らかしらの興味を持ってしまったのかもしれない。それか、ぼくが少女趣味のただの変態なのだろうか。そうでないと願いたいけど。無性に目の前にいる女の子に声を掛けたくなってしまいました。
異常なまでの興味心。
これもまた、ぼくの欲望と言えようか。嫌だな、そんな欲望。
だけど、誘惑に負けてしまったぼくは、白髪の女の子のところまでウキウキ気分、気持ち急ぎ足で近付いていく。その足音にも気付かないのか、熱心なことに地面だけを見つめている。
僕はすぐ傍まで近寄ると、声をかける。
なるべく怪しまれないように、フレンドリーに。
「どうしたの、そんなに地面ばかり見て」
「……………………」
女の子の顔は、動じない。
動じないとでもいうのか、なんというか。
ぼくは完全無視された。
現代において《知らない人に声をかけられたら、逃げましょう》と教え込まれていたとしても、せめて反応だけでも示してほしいものだ。それとも彼女の家では《知らない人に声をかけられたら、無視しましょう》とでも教え込まれているのか。中にはいるらしいが。
逃げてもらった方がよっぽど気が楽だったかもしれない。
しょうがないから、もう一度聞いてみよう。
「あのー、何をやっているのかな?」
「……………………」
大ダメージを食らった気分だった。
女の子にここまで拒絶されたのも今回が初めてかもしれない。
もう未知との対話を諦めて、さっさと目的地に向かおうかな。
だけど悲しいことに、それでも話をしたいと思ってしまう自分がいた。
「地面に何かあるのかな」
「……………………」
「見たところ何もないと思うんだけど」
「……………………」
「おーい」
「……………………」
もう駄目だね。
ヒットポイントが1だけ残っているような状態だ。
あれ、目から汗が……。
「……地面を見てました」
ひっそりとした儚い声は、ぼくの耳に辛うじて届いた。
誰の声か一瞬分からなかったが、すぐに誰からのものか理解できた。
目の前の、彼女からの声だ。
「地面を、見てたの?」
「うん、地面を見てました」
「ただ地面を?」
「ううん、蟻がいました」
えーっと、全然話が噛み合っていないよなー。
さっきも言ったように、地面には何もいません。塵一つない石畳の道路。ましてや、ハチ目スズメバチ上科アリ科に属する昆虫など一匹も見当たらない。
おそらく彼女だけに見えるのだろう、摩訶不思議な眼力で。
「ぼくには蟻なんて一匹も見えないんだけど」
「さっきまではいました」
「さっきまではって」
過去形かよ。いつの話をしているのだろう。いつから、こんなことをしているのだろうか。
会話をしているはずなのに、まったくそんな気がしない。ロボットに話しかけているような感じだ。彼女はぼくと会話しながらも、こちらに顔を向けることはない。成立しているようでしていない会話、とでもいうべきか。
こっちとしては、面白くも何ともない。
「そんなことしていて、君は面白いの?」
「面白い?」
ようやく振り向いてくれた。同時に首を傾げた。
これで彼女の顔がはっきりと分かった。前髪はちょうど真ん中に分けていて、眉が見える髪型。湯で卵の表面よりも白く艶やかな肌に、ほんの少し赤い唇。特に印象深い顔のパーツは、白よりも少し暗い色をした瞳だった。
白に似た瞳か。
そんな瞳をした人間を見たことも聞いたこともないぼくは、さらに彼女に興味津々である。
その女の子はそんな目で僕をじっと見つめる。やば、可愛い。これで昨日のアイさんみたいな笑顔をしていたら、恋に似た何かに落ちてしまっていただろう。
「これが、面白い?」
なんと、ぼくに疑問系で返してきた。
返答に困る。
「いや、別にぼくは面白いとは思えないけどさ、君は面白いと思ってるから地面を見てたんじゃないの? それともただボーッとしていただけかな?」
「面白い? ボーっとしてる?」
どうしてだろうか、ほんとに人間と話している気がしない。浮世離れした特徴をしているけど、やっぱり人間だよな。人と人の未熟な会話。
彼女にますます魅了されていく。
興味、ただ今増量中。
久しぶりに人と話していて楽しいと感じられるな。
「《面白い》という言葉は、知ってるよね?」
「知ってるに決まってるじゃないですか。馬鹿にしないでください」
「じゃあ君は、どういうときに《面白い》と思うんだい?」
「……………………」
黙り込んでしまった。
どういうときに《面白い》と思うのかを考えているのか。そんなに真剣になって、考えることか?
「分かりません」
「そうなのか」
うん、と彼女は頷いた。
先ほどから気になっていたのだが、彼女の表情が一切変わらない。無表情。最初に振り返ったときから、何ら変わりない、変化しない。感情がすっぽり抜かれたような、心の奥底にぽっかりと穴が開いたような感じだった。
警戒も、好意も、何も感じない。
何なのだろう、この子は。
どうやらぼくは異常に出会ってしまったらしい。
「君の名前」
「私の名前」
「うん。君の名前を聞きたいんだ」
「私に決まった名前はありません」
そうか、無いのか。
「渾名はあります」
「そうか、本名無いのに渾名だけあるのか。君は珍しい人間だね」
渾名か。
似た人間がいたな。家にも、組織にも。
彼女は立ち上がる。
真っ直ぐ、ぼくの目に視線を向ける。
「私は《無欲》と、兄的ポジションの人物に言われています」
「むよくちゃんか。よろしくね」
無欲ね。これまた可愛げのない名前だこと。
白髪の女の子、むよくちゃんは「よろしくお願いします」とご丁寧に返してくれた。
随分と礼儀正しい女の子である。
「きちんとしているね、むよくちゃんは。誰に教えてもらったの?」
「ほとんど兄から教わりました。今私は兄との二人暮らしですから」
襲われましたに聞こえたぼくは、ほんとにおかしくなったんじゃないのかな。
「なるほどね。よっぽどその兄的ポジションの人物の教育がよかったんだろうね。その人のこと、むよくちゃんは好きなのかい?」
義理の妹か。何故だか羨ましいような気がする。
「《好き》? それは男性として好みかを聞いているのか、それとも人間として好いているかということを聞いているのか、どっちですか?」
まさか女の子にそんな切り替えしをされると、誰が思っただろうか。前者だったら、社会的にも、ぼくの気持ち的にも問題だと思う。
思いがけないカウンター攻撃だ。
ぼくが言っているのは、当然ながら後者の方なのだが。
「そうですね。そもそも私は《好き》という感情の概念がよく分かりませんから」
「まずそこからなんだね」
彼女の兄は礼儀作法を教える前にそういうところを教えるべきなのではないのだろうか。
「家はどこにあるの? そのお兄さんとやらが心配してるんじゃないかな」
「兄が私を心配することはありません」
「なんとも薄情な兄だな」
二人暮らしで妹の帰りも心配しない兄がこの世にいるなんて、考えられない。
礼儀作法の前に、愛情を注いであげることが先じゃないのか。
「確かに出掛けてから結構な時間が経ってしまったようですし、一旦家に帰ることにします」
「そうか。じゃあ町内では心優しいお兄ちゃんで定評のあるこのぼくが、一緒に家まで付いて行ってあげよう」
そう言いながら、ぼくはむよくちゃんの陶器のように白い手を握ろうとした。それを感じ取ったのか、むよくちゃんはその手を叩いて、拒否を示す。
「何で付いて来ようとするんですか」
「決まっているじゃないか。か弱い女の子を一人にしておけないからね」
「別に結構です。私の家はこの通路沿いにありますから」
「そう、ぼくもこれからこの通路沿いにあるはずの目的地に行かなくてはいけないんだよ。だから、途中まで付いて行ってあげよう」
「しつこいです。近寄らないでください」
彼女はぼくから少しずつ離れていく。
あれ、嫌われるようなことしたかな?
ぼくは良かれと思って言ったことなんだけど、どうやら彼女にとっては癇に障ることだったみたいだ。
「あなたはあれですか。えーっと、何というか――私のような体型の未熟な女性を好む方のことを、えー、何でしたっけ?」
「ロリコン?」
「あなたはロリコンです」
断言されてしまった。
しかもこんなに美人の女の子に。
「そんなわけがないだろう、ぼくが自分よりも歳の低い女性が好きだなんて」
「いいえ、あなたはロリコンです」
繰り返し断言された。
どうやらぼくはロリコンらしいです。おかしいな。ぼく自身はてっきり長髪で背の高い、すらっとした体型のお姉さん的な美女好きだと思っているというのに。どこを観点にして見たらそう見えてしまうのだろうか。ぼくはこれまで彼女に礼儀正しい紳士を気取ったつもりだったというのに。
「変態の紳士さんです」
「さすがにそんな称号はいりません。お返しいたします」
それは本当の紳士の方々に失礼だろ。
「私も要りません。それに、そう呼ばれるのもしょうがないと思います。実際あなたの今までの言動、行動から見ても、ロリコン不審者としか表現のしようがありません」
「君はぼくのことを不審者扱いしていたのか」
心外だ。
「一人の女の子に声をかける時点で不審者だと思います」
そうは言うけどね、道端でずっと地面だけを見ている女の子も十二分に怪しいと思うよ。
「おそらくぼく以上に優しくて清廉潔白な大学一回生はいないはずだ」
「おそらくあなた以上に女性にしつこく迫る変態はいないと思います」
「失礼な。ぼくは君を一女性として扱っているだけなんだぞ」
「確信しました。あなたは変態です」
しまった。要らんことを言ってしまった。
「さようなら」
むよくちゃんは、背を向けて歩みを始めてしまった。
しょうがないか。むよくちゃんのことは諦めることにしよう。せっかく興味を持てたというに。あんな女の子、二度と出会えることはないだろうに。
ぼくも目的地へと歩き始めることにした。
むよくちゃんは進む。ぼくも進む。
同じ方向へ。
…………………………………………。
「……なんで付いてくるのですか」
今日二回目の質問。
ぼくよりも先行していたむよくちゃんはその場に立ち止まると後ろを振り返り、ぼくの目の前に立った。顔は無表情だが、内心怒っているの見えるのは何故だろうか。顔を赤くして怒るよりも怖いです。
「跡をつけてるつもりはないんだけど」
「同じ方向を歩いているじゃないですか。言い訳のしようがありませんよ、犯罪者さん」
「ぼくという人間は数十秒の間に変態度がみるみるレベルアップしてしまったようだが、ぼくは日本の法を犯した憶えはない一切ない。だから犯罪者扱いはどうかと思うんだよね」
「分かりました。訂正しましょう」
どうやら分かってくれたようだ。物分りのいい良い子である。
「そうだよ。ぼくもそんな呼ばれ方されるのは――」
「犯罪者予備軍」
「扱いはまったく変わってねーよ!」
未遂か実行犯かの違いだった。良い子というのは取り消し。
「格好良いじゃないですか。わー、格好良い」
「棒読みでしかも無表情で言われてもまったく嬉しくないよ。それにぼくの本名よりも長くなってるからね、その呼び名」
「で、なんで付いてくるんですか、ハンヨビ」
「ものすごい省略の仕方だな、おい。まるで予備としてもう一回犯罪行為行う的な感じじゃないか。善良な一市民であるぼくは、そんなことはしたことはない。さっきも言っただろ。この通路のある場所に用事があるんだよ」
「見え透いた嘘を堂々と」
ぼく、信じられてないな。
「とにかく、別に君を追いかけているわけじゃない。安心してくれ」
「安心できません」
「よし、分かった。こうしようじゃないか。ぼくは君が見当たらなくなるまで、ここを絶対に動かない。三十秒間、目を瞑っていよう。その間に君は家に帰るなり、ぼくの目の前からいなくなるなり、ぼくに抱きつくなりすればいい。これならぼくは君を追いかけることもできなければ、どこに行ったのかも分からない」
「最後のはまったく要らない選択肢ですね。それにあなたはそう言っておきながら、私が走っている間に目を少しだけ開けるつもりなのでしょう?」
「じゃあ一分間、体育座りになって顔を伏せながら、数を数えよう。それでときどき後ろを窺いながら走っていけばいい。そうすればぼくは完全にむよくちゃんがどこに行ったのか分からなくなる」
どうしてぼくは、こんなに必死になって女の子からストーカー疑惑の誤解を解いているのだろうか。そこまで言われる行動を取ったつもりはないんだけど。
「言動もです」
「セクハラ行為をされたと感じたのなら謝ろう。大変すまなかったと思っている、今だけは」
「今だけですか」
冷静なツッコミが入る。
「さあ、数え始めるぞ」
「ちょっと待ってください、まだその条件で了承していません」
ぼくは彼女の台詞を完全無視すると、石畳の歩道で体育座りになり、顔を地面へと向けた。大学生になって道端で体育座りをすることになるとは思ってもいなかった。恥ずかしいな、恥晒しだな。
「いーち、にーい、さーん、しーい――」
結構な大声でカウントを始める。
ぼくの近くから足音が遠ざかっていくのが聞こえるから、おそらく急いでどこかへ行ってしまったのだろう。これでもう彼女と会う機会も望みも無くなってしまいました。まことに残念です。
まあ、出会いもあれば別れもある。
それは仕方がないことなのだろう。珍しい出会いで、興味の極致に至ったというのに、それでも別れてしまう運命にあった。神の悪戯か、気まぐれか。神はなんていい加減なのだろう。
むよくちゃんの顔を思い浮かべる。それは、別に顔を思い出して『可愛かったなぁ』言いながらデレるためにしているわけではない。
詳しくは、彼女の表情。
無表情。
それは感情を隠しているのか、元より感情が無いのか。
ぼくが考えるに、それは後者だと思う。
兄的ポジションの人物は、彼女のことを《無欲》と呼ぶらしい。そこからぼくもむよくちゃんと呼んでいるのだが、その呼び名にはある程度の意味があるはずだ。
無欲――欲心の無いこと、欲張らないこと。
例え彼女が完全無欲な人間だとしても、それが顔の表情に関係するのか、感情に影響があるのかは、専門家じゃないぼくには分からない。組織に所属していた頃は、精神系とか人類生物学系の研究に興味がなかったからな。
ぼくのことを嫌がっていたし、無欲とも言えないんじゃないか?
ここで、むよくちゃんについて考えるのをやめた。
ぼくは歩き出した。目的地へと。
すっかり忘れるところだったよ。あまりにも女の子との会話が楽しかったからな。
今日の当初の目的は、じいさんの遺書に書かれていた住所に行ってみるということ。そして遣り遂げたいことを確認するために来たのだ。遊びに来たのではない。
目的地の方向は変わらない。さっきまでむよくちゃんと一緒に歩いていた道を歩いた。
そしてようやく辿り着いた。
目的地は、通りに建っていた西洋式の建物の一つで、時計屋だった。一瞬、見たところ何の建物なのか分からなかったが、玄関先に置かれている字の薄れた看板には《折紙時計店》と書いてあった。窓からは、時計がちらほら見える。
あのじいさんが時計屋に用事ね。その時点でこの時計屋が普通じゃないのは確実だ。
さて、鬼が出るか、蛇が出るか、それとも怪物が出てくるのか。何があるのか分からないから、面白いのかな。
ゆっくりと扉を開ける。
外からだとよく分からなかったが、建物の中は時計だらけだ。壁一面に時計。時計屋なら、当たり前のことなのか。だけど予想以上に時計ばかりだからな。圧倒される。それぞれの時計の秒針の音が重なり合って、一歩踏み出せばまるで別世界みたいだ。時計屋ってほかもこんな感じなのだろうか。ほかの時計屋を知らないけど、おそらく違うだろう。こんな異質な空間じゃないはずだ。この時計屋特有ということか。
興味を持てる。
そんな空間の中に一人、空間に不釣合いな、熱心に作業を行っている人物がいた。黒髪に黒縁眼鏡、日系肌。典型的な日本人である。年齢的には三十代前半とくらいに見える。
男は部屋に入ってきたぼくに気付きもせず、黙々と作業を続けた。機械が作業しているかのように、精密で器用な手捌き。店内を見渡しても、この男以外の店員は見かけない。ということはこの男性がこの店の主人ということなのかな。
「あのー、すみません」
ぼくは男性に話しかけた。
「……………………」
ぼくの言葉に反応を示さない。
なんか、デジャブを感じる。
「すみません」
「……………………」
「おーい」
「……………………」
「……………………」
むよくちゃんに無視されたのをちょっと思い出した。
面倒になってきた。
「大丈夫、何度も言わなくても、分かっているさ。ちょっと待っていてくれないかな。今大事な作業中なんだ。すぐ終わせる」
男は堅く閉じていた口を開くとぼくにそう言った。
「あと、作業中はあまり話しかけないでくれ。手元が狂ってしまう」
すみません、とぼくは小さく呟く。
どうやら気付いていたらしい。最初に話しかけたときに、もしかしたらこの空間に入ったときに気付いていたのかもしれない。
男は手を休めることなく、机の上でバラバラになった時計を直していた。
一つ一つの部品が、重なり合い、繋がり、組み合わさる。一つがちゃんとした役割を持っており、一つ欠けてしまったら動かなくなってしまう。
「不思議なものだろう、時計って。こんなに小さな部品も、時計という時を示す道具の一部。今ではこの道具無しでは生きられない。皆、時を知りたがるんだよ。待ち合わせ、食事もおおよそ時間通りに事が進む。昼と夜、太陽の高さでそれを知ることはできるけど、ほとんどの人間は時間で判断するんだ」
自分で話しかけるのは有りなのか。
しばらく待っていると、男の手が止まった。
「終わったよ」
男は修復を終えたばかりの時計を、机に置かれていた木箱の中に入れた。そして蓋を閉じると、彼は後ろの棚にそれを置いた。
「さてさて、君の話を聞こうじゃないか。君は一体ここへ何をしに来たんだい?」
じいさんが時計屋に用事があるようには思えないのだが。
訳を言わなくては、物語が進まない。
「じいさんに《ここに来るように》と遠まわしに書かれてあった手紙をもらって、ここに来ました」
「《じいさんに》か。この店を利用する客のほとんどは老人だよ。その君のおじいさんの名前を聞かないと、どう対応すればいいのか分からないな」
もっともな話だ。
手紙の話をしただけで分かってもらえるとは思っていない。
だけど、
「名前ですか。残念なことにぼくは亡くなった人間の名前は言いたくないんです」
ぼくの名前を名乗ってもよかったけど、そもそもぼくは自分の名前を人に名乗るのが好きじゃない。何もかもが見透かされているような気がしてならない。名前を語るということは、その人物を信頼することと同じだからな。
ぼくの台詞を聞いた男は瞳を丸くして、驚いた様子だ。その口元は、笑っているように見えた。そして途端に笑い始める。
「フフフ――あははははははははは! そうか、そういうことなのか! あの人も人が悪い! ははははははは!」
仕舞いには声を上げて笑う。笑い声は高らかに響く。
ぼくは一歩後ろへと退いた。
恐怖――ぼくは一つの感情に支配されていた。とにかく気味が悪い。
そんなぼくに気付いたのか、男は笑いを止めて、ああ、すまない、と言いながら立ち上がった。顔の笑みだけはやめられないようだ。
「落ち着きましたか?」
「すまないすまない、不謹慎だったね。そうかそうか、おじいさんが亡くなって、孫が尋ねてくるか。君があの人の孫なのか。そうだよな、考えれば分かることじゃないか。ここには老人ばかりしか来ないのに、少年がやってくる。お使いにしては、反応がおかしい。そしてその少年は、亡くなったおじいさんに言われて、ここに来た。そんなことをするの、あの人しか考えられない。それにこの少年の顔、あの人に似ている。だけど今更、どうして、それにどうしてここが……」
そんなことをぼくに聞こえるくらいの声で淡々と独り言を言う。どうやらこの人とじいさんは知り合いのようだけど。
男は、ようやくぼくに話しかけてきた。
「見たところ、君は高校生のようだけど。まあ、いいか。僕が決めることじゃないからな。君が決めることなんだし」
ぼくは大学生ですよ。
「さて、何から話をしようか」
「何の話をするんですか? ぼくは何も聞かされていないんですけど」
「まあ、そうだよね。あの人のことだし」
なんともあっさりとした受け応えだ。先ほどまで笑っていたのとは、まったくといって正反対。落ち着いた物言いは、笑い声の後だとある意味怖いな。何を企んでいるのかさっぱり分からない。
「あなたはじいさんのことを――」
「兄さん、笑い声が五月蝿いんだけど」
聞き覚えのある冷たい声が耳に入ってきた。
上のほうから声が聞こえてきた気がする。二階からだろうか。部屋の中が吹き抜けになっていて、ここから二階が窺える。
そこには、一人の女の子が立っていた。
とっても見覚えのある白髪が揺らめく。
「さっきの変態」
「よく人前でそんな呼び方ができるね、君は」
先ほど別れたはずの女の子、むよくちゃんがぼくの目的地の二階に立っていた。
白髪、白いワンピース、真っ白な瞳、白い陶器のような肌。《おもちゃのチャチャチャ》のフランス人形のような。一言で表すと、美少女。
これも運命か、はたまた必然か。
とにかく、
「久しぶりだね、むよくちゃん」
一階から話しかける。
「ついさっき別れたばかりなんですけど。跡をつけてきたんですが? そこまでして私をストーキングしたいんですか、この変態」
「それは有らぬ誤解だね。ぼくは謎の美少女をストーキングするような変態さんじゃないよ。偶然このお店がぼくの目的地だったんだ」
「見え透いた嘘を堂々と」
「今日その台詞を聞いたのは二回目だね」
しかも同じ人物、数分の間に。
彼女は二階から一階に降りてくる。
「警察に通報されるか、今すぐここから出て行くか、どっちがいいですか? 選ばなかったほうが実行されます」
選ばないほうかよ。
「じゃあ警察に通報で」
「あの、警察ですか?」
「選んだほうじゃねーか!」
電話を持ちながらそんなこと言った。そんなジョーク、一体どこで覚えたんだ。
「……おい、《無欲》。せっかく来たお客さんに失礼だろ」
眼鏡を掛けた男は、ぼくとむよくちゃんの会話の間に入ってきた。むよくちゃんは静かに冷たい目で眼鏡男のほうへと振り返った。
男のほうから、話を始める。
「飯食べてたんじゃないのか」
「もう食べ終わった」
「お前は味わうということを覚えるべきだと思うぞ。人生変わるぞ」
「そんなもの、分かりません」
「分かろうとすればいいのにな」
男性はむよくちゃんに木箱を渡す。
「これ、二階の長机に置いといてくれ。あと今からこの少年君と話があるから、絶対に部屋から出るなよ」
「……分かった」
そう言うと、わざわざ下に降りてきたのに二階へと戻ると、部屋に入ってしまった。
もういなくなってしまうのか、むよくちゃん。
眼鏡男と二人きりって、華が無いよな。
「すまなかったね、失礼なことを言ってしまって」
「いえ、気にしてませんから」
「それで、何をやったんだい?」
あんたも十分に失礼だよ。
だけど、一応この人はむよくちゃんの保護者みたいだし、むよくちゃんは『兄さん』と言っていたからな。この人が兄的ポジションの人物という人なのだろう。
ぼくは先ほど建物の目の前の道路であったやり取りをなるべく詳しく説明した(ある一部を除いて)。眼鏡男はそれを最後まで黙って聞いていた。
話し終えた後に、閉じていた口を開けた。
「そうだったのか、そんなことがあったのか。まさか《無欲》に出会っていたなんてな。会わせる手間が省けた」
「むよくちゃんの兄的ポジションの人物ってあなただったんですね」
「兄的ポジションか。あいつがそんなことを言ったのか。意外だな。うん、とっても意外だ」
「意外なんですか? さっき兄さんって言われてたじゃないですか」
「意外だよ。あれは上辺だけの挨拶みたいなものさ。本人はおそらくそうは思っていないはずだよ。兄的なポジション、ね」
男は、ぼくに椅子を差し出してきた。
そして椅子に座る男。
「座りな。これから長話になるよ」
4 ― 序盤
男の名は、折紙学というらしい。
本人がそう名乗ったのだからおそらくそうなんだろうな。
ぼくも名乗ったほうがいいのだろうか。相手が偽名だという可能性もあるし、どうも怪しそうだ。それに、あまり人に自分の名前を名乗りたくはない。
「大丈夫、君の名前は知っているよ」
「……どうして知ってるんですか」
「だってあの家の坊ちゃんだろ。あの家で孫といったら僕が知る限りは二人しかいないんだよ。だからそのどっちかだ。まあ、確証はないけどね。だから、君の事は普通に《君》と呼ぶことにしよう」
「分かりました。だけどぼくはあなたのことを《折紙さん》とお呼びすることにします」
「いいよ、それでいい」
マグカップにコーヒーを入れると、ぼくに差し出す。
そして折紙は自分の前に、自分の分のコーヒーを置いた。
そしてお互い一口飲む。ブラックコーヒー、とても苦い。
「この通り、僕はこの時計屋で時計の修理をしている」
「この通りって、どの通りですか。じいさんに関わりがある時点で、あなたがまともだとは思えないですけどね。それよりも気になることが――」
「《無欲》のことか。そうだよな、気になるよな。さっき話をしたんだろ、彼女と。そして分かっただろ、彼女のことが。彼女の特異体質が」
勝手に解釈された。合っているのだけど。
「どうしたんだい、そんな思い老けた顔をして。もしかして《無欲》に惚れたのかい?」
「《無欲》ですか。どうしてあなたは彼女を《無欲》って呼ぶんですか?」
「質問を質問で返すのか、君は。変わっているね。だけど僕の質問には、きちんと答えてほしいな」
「好きですよ、可愛らしいじゃないですか」
適当に答えてみせる。
「《可愛らしい》ね。理由としては不十分な気もするけど、そういうことにしてあげよう。じゃあ今度は僕が質問に答えよう。《無欲》の名前の由来、だったね。その名の通り、彼女は無欲なのさ」
軽々しく折紙は言った。
無欲。
欲心の無いこと。欲張らないこと。
そしてそれを呼び名にするほど彼女という人間は、
「無欲なんだよ、彼女という存在自体がね。人間、全ての欲を持ち合わせている者もいれば、そうでない者もいる。一つの欲を追求する者もいれば、人並みの欲を持つ人間もいる。だけどね、彼女はそのどれにも属さない。例外中の例外。全ての欲に対して、無欲なんだよ。そんな人間、見たことがあるかい?」
「ぼくにはそうは見えなかったです」
確かに彼女は無表情だし、素っ気無いかもしれないけど。あまり感情的には見えないかもしれないけど。
けれど、
「ぼくに対して、怒っているように見えましたけど」
「それは気のせいだ。彼女が怒ることはない、今もこれからも」
「どうしてですか」
「欲が無いということは、そういうことなんだよ。別に感情がないわけじゃない、ただその感情の出し方が分からないのさ。欲が無い、だから楽しいことを求めない。普段から感情に疎いんだよ。だから怒るということもない。怒りたいとも思わないからね」
確かに、そうなのかもしれない。
それで無表情なのか?
「だけど、ぼくが付いてくるのを極端に嫌ってましたよ」
「それは僕が彼女に教えたんだ。なるべく人とは関わらないようにしなさいとね。別に人と関わったところで、彼女の無欲は変動しない。誰の影響も受けないんだよ。だから、誰かと縁を持つということはなるべく避けたほうがいい。君だって、自分と違う奇妙な生物を見たら注目するか、その場から逃げてしまうだろ。そんな経験をしたことはないかい? それと同じなのさ。僕はその前者を恐れているんだ。彼女は美人だし、注目されるべき人間じゃないからね。それに、世の中は何かと物騒だからね」
折紙は淡々とぼくの質問に対して答える。
ぼくはさらにそこへ疑問を重ねる。
「もし彼女が無欲だというなら、あなたの命令や教えを聞かないと思うんですけど」
「逆だよ。無欲だからこそ、僕の教えを聞いているんだ。幾ら無欲だからって生物としての本能はある。《生きたい》とは思っていないだろうけど、生物としては維持する必要がある。だから維持方法として僕という人間を利用しているのさ。生きるためにぼくの教えを聞いているんだ。だから僕の教えは維持に必要だと、彼女は認識している。とまあ、こんな感じかな。だけどそれも曖昧でね。今日も朝っぱらからどっか出掛けたと思ったら、こんなお昼過ぎまで出掛けているし。お腹は空いたんだろうけど、食べたいとは思わなかったんだろう」
……ぼくと会うまでずっとあのままだったってことはないよな。
「だけどそれじゃあ《生きたい》と思ってないのに、生物として維持しようとするという矛盾が生じるんじゃ」
「ああ、それが彼女なんだよ。彼女だからこそ起こる矛盾なんだ」
「だけど、他の人の幸せを願う人とかボランティア活動する人とか、奉仕活動をするのが好きな人とかいるじゃないですか。そういう人達も欲が無いと言えるんじゃないですか」
「それも人の欲さ。邪な事だけが欲じゃない。将来の夢というのは、そうなりたいと願うことであって、それも欲。先ほど君が言った奉仕活動だっけか。それも同じさ。それをすることによって他の人から信頼がほしい、好かれたいということを実は心の奥底で願っているのさ。それも欲。それから、人の幸せが自分の幸せだと思える人もいる。人の幸せを願う、それもまた欲。欲なんだよ、どれもこれもね。だから無欲というのは読んで字の如く、欲が無いのさ。そのせいなのか知らないけど、彼女の身体って実年齢よりも若干若く見えるんだよね。ちなみに彼女の年齢はおそらく君と同じくらいだと思うよ」
ぼくの頭は混乱していた。混沌としている。
いろんな情報が一気に頭に入ってくるため、脳内整理が追いついていないようだ。最近頭を使うことが少なかったから、しょうがない話ではあるのだけど。こんな哲学的で難しい話を一回されて『そうですよね』ってすぐに納得できるはずがない。
なんとなく分かるような。だけどよく分からない。
そんな曖昧な状態だった。
無欲な少女。
それに、無欲を語る人物。
二人は、ぼくの目的地にいた。いや、もしかしたら二人が目的なのか。
じいさんがここにぼくを送り込んだわけは、この人達にあるのかもしれない。そして折紙学という男は一体何者なのか。そして《無欲》と呼ばれる少女が何故、折紙と共にいるのか。
「あなたは、いったい何者なんですか? 職歴を詳しく教えてください」
「さっきも言ったろ。僕はここで時計修理をしている――」
「惚けないでほしいですね。あなたがまともじゃないのは当に分かっています。彼女と、むよくちゃんと対等に会話ができている時点で普通じゃないでしょう。それに、普通の人がじいさんと知り合えるはずがない」
折紙は、不気味な笑顔を浮かべた。先ほど高らかに笑ったときとは違う、嫌らしい笑顔で。分かったことがある。この人性悪だな、性格悪そうだよ。
冷静な雰囲気を出している。内心までは読み取れないけれど。
「分かりました、僕の昔の職を君に教えてあげよう。僕は、精神分析学兼人類生物学教授だ。それで元《家》第参組織直轄精神分析学研究所所長だった」
「《家》ですかー。すごいですねー」
驚いていないような素振りを見せる。納得できる回答ではあった。
《家》
ぼくの家の別名だ。
じいさんが当主をしていた組織で、今は意織叔父さんが当主をしている組織。
ぼくが育った家でぼくが家出をした家。ぼくが壊そうとした家で結局ぼくが壊しきれなかった家。あのときの記憶は嫌なほど憶えている。思い出しただけで、今でも吐き気がするね。
それは世界を統べる組織、世界の家。
又、第壱から第伍までの組織の集合体でもある。
そしてその中の一つ、第参組織。主に次世代の技術を追求・研究するための組織だと、じいさんから教えられた。じいさんの代では、特にその第参組織に力を入れていたという。次世代を切り開くのは自分なのだと、ぼくが幼少の頃に豪語していた。ぼく、昔は一大組織の当主の家の孫で大富豪の地位にいたというのに、今では貧乏な大学一回生。世の中、何があるか分からないものだよな、自分でやったことながら。
そんな第三組織が管轄している内の一つの研究所、精神分析学研究所。そこまではさすがにじいさんから聞いたことはない。だけど、折紙はそこの所長だったと言っている。
それが本当、事実ならば。
「つまりむよくちゃんは――」
「そう、そこの実験体の一人さ」
「そうですか。実験体ですか」
「しかも、ただの実験体じゃない。実際に実験を受けたわけじゃないから、実験体とはまた違うんだけどね。分かるだろ、君なら。人類生物学でも精神分析学でも同じこと、彼女は特別なんだよ。我々研究者にとってはね」
「だけど、何でそんな折紙さんはこんなところにいるんですか。折紙さん、若いのに所長だなんて凄いのに、何で辞めたんですか」
所長ということは、おそらく教授クラスの学者。そして《家》の研究所勤務ということは、この人、学界でも相当凄い人なんだろう。《家》の管轄ということは、さぞ、研究施設も充実していただろうに。
それでも、この人は《家》を出たのか。
「僕なんて全然若くはないさ。とっくに四十越しているからね。歳を取るというのは、《研究を諦める》の次に嫌な言葉だよ。それに、辞めた? 研究は止めてはないんだけどね。辞めたというよりも、辞めさせられたというのが、正しいんじゃないのかな」
「どういうことですか」
辞めさせられたか。《家》はこの人を棄てたというのか。
《家》がそんなことを、へー。
「無くなったんだよ、跡形無くね。詳しく言い表せば《家》第参組織直轄精神分析学研究所は今から約三年前に解体された、だね。解体されたということは、当然所長という職も無くなってしまうわけだ」
「無くなったんですか? 三年前にですか?」
三年前。ぼくの人生の中で一番思い出したくない時期だな。
だけど、解体か。
まさか《家》がその研究所分の資金が無くなったということは、
「随分と的外れなことを考えるね、君は。あの《家》が資金不足を理由に研究所を取り潰すわけがないだろ。力のあるお偉いさんが廃止を決定したそうだよ。僕は誰がそんなことを決めたとか、それ以上はよくは知らないんだけどね」
一人の人間の影響力。
誰がそんなことをしたんだろうな。
意織叔父さん、それとも各組織のトップ? 三年前ということは、じいさんという可能性も有り得るな。いろんな可能性はあるけど、潰しそうな人なんて特にいないような。じいさん以外が決定したのならじいさんは反対するに決まっている。特に第三組織に力を入れていたのだから。ということは、じいさんが?
昔話をする老人のように物静かに語る折紙は、
「研究所解体後は、所属していた研究員のほとんどが《家》の他の研究所に吸収されたよ。研究所のほとんどの研究結果も他の研究所に行ってしまった」
「それじゃあおかしくないですか。所長を務めるような研究者であるあなたが、なんで他の研究所に行かなかったんですか?」
すぐに所長就任はさすがに無理かもしれないけど、すぐに研究室がもらえるだろうに。こんなところにいるよりは、ずっと裕福な暮らしができるし、研究環境も充実しているはずだ。自由があるかは、分からないけど。
もしかして、存在が気に食わないと折紙だけが《家》から追放されたのか。
「君はとことん的外れなことを考えているんだね。もうちょっと世界の幅を広げて考える癖をつけたほうがいいと思うよ」
要らんお世話だ。初対面の人に言われたくない台詞ベストテンにランクインした。
「行かなかったんじゃない。抜けたんだよ」
「抜けたんですか。そうですか、ハハハハハ。どうして?」
自由がほしかったから、とか。
「でも《何で抜けたのか》かい? 君の思考が単純すぎて、質問の内容の先の先くらいまで読めるよ。極めて単純だ。別に悪いことじゃないんだけどね、さっきも言ったが、単純な考えを持つのは止めたほうがいい」
「さっきからほんとに余計なお世話ばっかりしてきますね。間に合ってます。それに、ぼくはあなたが思っている以上に頭の中で複雑な事を考えているんですよ、これが。これくらいの会話だけでぼくという人間を判断しないでほしいですね」
「おお、それは悪かったね」
口調からして、絶対そんなこと思ってないだろ。
「それで《何で抜けたのか》だっけ。逃げてきたというのが正しいんだけどね。自分のしたい研究をするためさ」
なるほど、だからさっき『止めてない』と言っていたのか。
つまり、ここでも自分のしたい研究をしていると。研究者が考えることはよく分からんな。
「それは他の研究所でもできるんじゃ、ここだとむしろ研究が進まないと思うんですけど」
「察してくれないかな。昔の僕は一研究所の所長だったから、その研究を自由に進めることができたんだよ。だけど他の研究所に行ったら、どうなると思う? その研究は自由にすることができず雑用を押し付けられて、もしかしたら研究を横取りされるかもしれない」
研究者、テーマを追求する人の一種。
人生の全てをそれに費やす者もいれば、途中挫折する者もいるらしい。ぼくはそのどちらにもにあったことがある。この人がどっちかは分からないけど、誰かに研究を盗られるということは死ぬことと同じくらい嫌なことなのだろう。
それも欲。
独占欲。
これは分からなくもないけど。
「そこまでこだわる研究ということは、よっぽど凄くて素晴らしい研究なんでしょうね」
「遠回しに言ってるけど、つまりは《どんな研究してるのか》を聞いているんだね」
「別に聞いてませんよ」
確かに気になるけど。毛の一本分の細さほど気になるけど。
ある程度予想が付く、これまでの相手の台詞で。
だけど、
「一応聞いときます。具体的に、どのような研究をなさっているんですか?」
それがおそらく、じいさんがここにぼくを送ってきた理由。
「予想できるだろ。君なら」
「あなたはぼくを過大評価するのか過小評価するのか、どっちなんですか」
「あの人の孫だからね。一応期待はしているよ」
「それでも、分からないものは分からないものですよ」
分からなくもない。予想は付いている。
だけど、本人から聞いたほうがいいこともあるから。
「しょうがないな」
折紙は答えた。
何の躊躇いもなく、あっさりと答えた。
「僕の研究テーマは《欲望》。具体的には《人を無欲にするにはどうすればいいのか》ということをやっているんだ」
「無欲に、ですか。凄いですね」
適当な相槌を入れる。予想はまんまと的中した。
だけど、ほんとにそんなことが可能なのか?
そもそも欲の操作だなんて。普通に聞けば、滑稽な話だと思えてしまう。何も知らなかったら、その場でゲラゲラと笑っていただろう。
人を改造。
人を洗脳。
人体実験。
それはあくまでSF、ファンタジー、空想の世界のお話だ。ぼくも昔は考えたものだ、そんな空想な世界のことを。大抵は高校生になったらそんなことは有り得んという考えになってしまう(一部を除いて)。夢が無いように見えるよな、大人になると。ある意味、子どもと大人の境界線だ。
だけど、これに対しては何となく納得のいくところがある。
むよくちゃん、《無欲》と呼ばれる少女の存在だ。
異様な存在が実際にいるのだと、彼女の存在が証明しているようなものだった。絶対にいないと思える存在なのだ。そんな常識を軽く引っ繰り返す。
無欲にする、か。
できそうな気もしてきたけどな。
「何で無欲にしようと思ったんですか?」
ぼくにはやっぱり分からない。
「別に僕がしようと思って始めたことじゃないんだ。この研究は元は違う人が考えたものなんだ。ぼくはその人の研究を受け継いだんだよ」
さっきあんた自身、研究を横取りされるのは嫌だって言ってただろうが。
「その人はね、僕の先生で恩師だった人なんだよ。僕がちょうど大学に入ったころ、その人は大学の教授をしていたんだ。その頃にはもう先生はその研究に勤しんでた。僕は先生の講義が一番好きで、先生の研究に一番惚れ込んだ。だから、僕は先生の研究室に入って、研究の手伝いをした」
これも、ぼくには分からないことだ。
ぼくにとって大学の講義内で好き嫌い自体がないし、そもそも講義自体が嫌いだ。研究に惚れ込んだというところは、少し共感できるところがあるけど、それでも手伝いをするというのは考えられない。
「僕が考えるに、無欲な人間こそ《真の人間》と言えるからじゃないかと思うんだ。禁断の果実を食したことによって人間は欲深くなってしまったと言われている。ならその前は、無欲だったということになるだろ。つまり人間の元は無欲なんだ。だから、先生は無欲な人間を目指したんだよ。《真の人間》を作り出すために」
神話を交えて説明されても、説得力がまったくなかった。
「受け継ぐきっかけは?」
「先生は他にやらなくてはいけないことができてしまってね。研究を諦めなくてはいけなくなってしまったんだよ。そのときの僕は、四回生だった。ショックを受けたものだよ。こんな素晴らしい研究が終わってしまうだなんてってね。だから僕は先生にこう言ったんだ。『僕に研究を続けさせてください』と。先生は数日悩んでくれた末にそれを了承してくれたんだ。涙を流して、僕に研究を譲ってくれた。今までの研究データもくれた。そのときの先生の涙が、僕が研究を続けるのが嬉しかったのか、自分で研究できないのが悔しいからなのか、未だに分からないね」
折紙はコーヒーを飲み干すと魔法瓶らしきボトルを持ち、マグカップの中にコーヒーを入れる。
そしてぼくにボトルを掲げて、
「君もおかわりいるかい?」
と言ってきた。
「これまた重要な場面でまさかの発言ですね。驚愕です」
「質問には答えようよ」
「もらいましょう」
ご好意に甘えてマグカップを差し出す。そこに真っ黒な液体が注がれていく。本当は、できれば砂糖かミルクのどっちかほしいんだけど。そこは自重しとこう。厚がましいことこの上ない。
一時休憩。
タイミングがおかしいけど。
お互い一口飲む。やっぱり苦いことには変わりない。慣れない苦さが舌の上に残る。
話は戻る。
「それで譲ってもらった後、どうしたんですか?」
半分興味、半分面倒という複雑な心境のぼくがいた。話が長くて、座っているだけで疲れてきた。それに話に若干飽きてきた。
「僕は大学院を卒業した後、東京の方の大学で助教授になった。そこで先生の研究を続けていたんだ。その後、《家》からスカウトされて、精神分析学研究所の所長になった。一研究所の所長になれたから、環境もだいぶ変わったし、僕の命令で研究員が動いてくれるからね。随分と研究が進んだよ」
「だけど、辞めさせられたと」
「あと一歩というところでね。だけどその一歩も十分な環境と人員があってこそもう一歩だったんだけどね。今ではそのときの数百倍くらい遠くなってしまったよ」
「本当に無欲にすることって可能なんですか?」
ぼくの質問を変えた。このままだと過去話で日が暮れそうだ。
それに最初にした質問よりも、むしろこちらのほうが気になっていた。
「可能だよ。《家》の最新技術も応用していたからね」
「だけど人体実験になるでしょ」
「決まってるじゃないか。それがどうかしたのかい?」
『決まってるじゃないか』
確かにそうなのだが。それしか方法がないとしてもな。
無欲にするということは、当然そのモデルとなる人がいて、被験者もいる。モデルはむよくちゃんだとしても、被験者の方は、
「だけど日本で人体実験は駄目でしょう」
「確かに、日本では駄目だろうね。非人道的だし、倫理的にも問題だろう。だけどそこは天下の《家》だからね。あそこに法は意味を成さないよ」
「だけどあと一歩のところで、まだ研究は完成してなかったと」
「ああ、そうだよ」
「被験者はどうなったんですか?」
「失敗作のことかい? いるよ。この通り沿いにある建物に」
失敗作ね。
あなたは、そう呼ぶのか。
だけど、
「何で被験者までここにいるんですか? そういえば、むよくちゃんだって《家》の研究所の実験体だったんですよね。普通なら他の研究員と一緒に、他の研究員に一緒に行くもんじゃないんですか? 人体実験をするほどの研究ですし、《家》の重要機密ですよね。そんな重要なものを個人が辞めるときに一緒に連れて行くなんて、できないでしょう」
「だから言っただろ。逃げたんだよ。辞めたんじゃないんだ。研究所のデータバンクに入っていた実験体のデータは全て消去し、実験体の全てを建物に隠し、僕自身も隠れて研究を続けている」
「逃げてるんですか」
『奇遇ですね、実はぼくもそうなんですよ』くらいのことを言うべきか?
だけど、仲間意識を持たれても困る。そうか、あの《家》から逃げているか。だけどどうやって隠れ続けているんだろう。ぼくみたいに自身一人だけではなく、複数人いるというのは明らかに難易度が違う。
あれ?
だけど、じいさんにはそれがバレてるんだよな。今日ここに来れたのも、じいさんからの遺書に一字一句間違いなく住所が書かれたからだ。組織全体が知っていないとしても、じいさんだけは知ってる。
どうして咎めがないんだ?
「おそらくあの人は、僕のやることを許してくれていたんじゃないのかな。未だに《家》はこの場所を嗅ぎ付けられないみたいだし。あの人なら、僕の研究は分かってくれるはずだ」
どこからそんな自信が出てくるのだろうか。
「ということは、この通路全体があなたの研究所と言えるわけですか」
「まあ、そういうことになるよね」
この物語の全容が、なんとなく分かってきたよ。
西洋風建物が立ち並ぶ通り。
《無欲》と呼ばれる少女、むよくちゃん。
元《家》の研究所所長、折紙学。
《人を無欲にするにはどうすればいいのか》という研究。
逃げた元所長と被験者。
通りが研究所化。
さて、こんな世界で、じいさんは何をぼくにさせたいんだ。こんな異様な場所で、ぼくにどうしてほしいんだろう。
『最後に、私が遣り残したことをお前が代わりにやってほしい』か。
遣り残したことが結局分からない。素直に手紙に書けばいいのに。
「それで?」
「《それで?》ってどういう意味ですか?」
「君の目的さ。あの人に《ここに来るように》って言われてここに来たんだろ? それで君はどうするつもりなんだい?」
「目的、ですか」
ぼくがどうすればいいのか、分からないのに答えられるわけがない。
「僕のやっていることを聞いただろ。研究のことだって大体は理解してくれたはずだ。それで君はどうしたいんだい?」
「どうしたい、か」
ぼくの考え。そんなこと、何も考えていなかった。今日ここに来たのは、じいさんに言われて、ほんの少しの興味と使命感から来たのだ。
その後なんて。
その先なんて。
「どうなんだい。僕の研究に協力してくれるのかい? それとも協力してくれないのかい?」
僕は。僕は。
僕は――
5
折紙学との会話が終わる頃には、もう辺りは暗くなっていた。
日は沈み、月が出る。そのちょうど真ん中みたいな感じの空。水平線は赤く夕焼け空だというのに、ここらはもう凍てつく夜空。
早く家に帰らないといけないな。
今日はアイさんに悪いことしちゃったな。今度、いつか埋め合わせをしなくちゃな。
ぼくは歩き出した、帰るために。
「帰るんですか」
そんな声が聞こえてきた。無機質な、それでいて無色な声。
振り返ると、ぼくが出てきた扉の前には、むよくちゃんが立っていた。早々と点いている街灯の光に照らされて、彼女の髪は輝いているように見える。これで本当にぼくと同じくらいの歳なのか。
「うん、目的は終わったからね」
「そうですか……」
「結局ぼくがここに来る意味はなかったんだよ」
「……へえ、そうなんですか」
彼女は階段を下り、ぼくの前に立った。
「送っていきます」
そう言って、彼女はぼくの右手を掴む。
女の子と手を繋ぐ。
……何でぼくはこんな重要イベントをこんなところで迎えているのだろう。いや、むよくちゃん、凄く可愛いし、文句の一つもないんだけどね。ちなみに大昔にとある《自称女の子》という怪物と無理矢理繋がれたのはノーカウントということで。その手でコンクリートの壁を軽々とブチ破るんだぞ。強く握られただけでぼくの手は肉片に変わってしまうと思うと、恐怖でしかなかった。
「ありがとう」
と、むよくちゃんに向けて言う。
街灯の並ぶ道を歩んでいく。
相変わらずの無表情。
会話も無いまま、歩み続ける。
沈黙を破ったのは、なんとむよくちゃんの方からだった。
「あなたはここに何かを求めてたんですか?」
「どうしてそんなことを聞くんだい。君は無欲なんだろ?」
「今後のために、生命維持のために」
無欲な君が欲でも学ぼうとしているのかい? にわかに信じられないな。
まあ、知りたいといっているのだから、教えてあげよう。
「ぼくはね、非日常を求めにここに来たんだよ、おそらく。最初は《どうしてぼくはこんなところ来たんだろ》って思っていたけどね。おそらく、じいさんが『行け』って言われたから来たんだけどさ。それも、ほぼオプションみたいなものだったんだよ、きっと。平和を求めた結果、ぼくは非日常を求めずにいられなくなった」
「非日常?」
「ああ。大昔はね、ぼくは常に非日常を求めていたのさ。有り得ないような出来事、人物、物体、現象、それらに興味を持ちたかったんだよ。だけどあるとき、それが日常になったと感じてしまってね。だから、やめたんだ。だから今は平和な日常というのを送ろうとしている」
初めは、人間の非日常を求めていた。だけど、人間の日常に憧れた。面白いことが好き、興味を持てるものが好き。それの繰り返し。それだけ。
「楽しいですか?」
「どっちかというと、つまらないかな。というか、おそらくぼくが平和な日常に過度な期待を持っていたのかもしれない。平和がこんなにつまらないものだとは思ってもなかったよ」
「だったら、何で兄の誘いに乗らなかったんですか?」
回想始まり ――
「どうなんだい。僕の研究に協力してくれるのかい? それとも協力してくれないのかい?」
その言葉が重く突き刺さる。
それは恐怖と感じるくらい。
引力――そっちへと引っ張られているような。
油断したら飲み込まれそうな。
だけど、
「協力しませんよ」
はっきりと言ってやった。
「……なんでだい?」
折紙の顔は特に驚いているようには見えなかった。冷静なように見える。
ぼくが出した答えは《ノー》。
その理由は一つ。
「興味が持てないからですよ」
それ以上の理由はないだろう。
「さっきの会話からは、興味を持ってるように見えたんだけどな」
それはあなたの勘違いですよ。
「この建物とむよくちゃんには興味があるですけどね。あなたの研究だけには、結局興味を持てなかったです。実はぼく、人体実験という四字熟語が大嫌いなんです」
笑顔で言ってやりました。
それで会話は終了した。
―― 回想終わり
そう、ぼくは断ったのだ。折紙の誘いに。
興味を持てないというのが理由で。人体実験という言葉が嫌いだという理由で。もっともらしい理由じゃないか。人間らしくて素晴らしい言い訳だ。
ぼくはむよくちゃんに言った。
「二階の部屋で耳を澄まして聞いてたんじゃないのかい? 答えを言うと興味が持てなかった、ぼくが人体実験大嫌い人間だということ」
「ふーん、ほんとにそんなものなんですか」
彼女が思ってよりも面白くない解答だったのかな。
「実はぼくは怪人ライダーでその言葉を聞くだけで吐き気が――」
「嘘ですね」
そうだね、今回は分かりやすい嘘だったね。
「ああ、そうだよ。結局理由は過去の出来事がトラウマでさ、君の兄の研究に最後まで興味を持てなかったんだ。もしそれがなかったら、あっさり《イエス》と返事してたかもね」
心にも無いことを言う。
「やっぱり私にはよく分かりません」
「だろうね」
無欲だし。
「だけど……」
「なんだい?」
無表情な顔を少し下傾ける。ぼくは顔を横に傾げる。
そして再びぼくの顔へ視線を向けるため顔を上げると、
「何で、私には興味を持ったんですか?」
やっぱり盗み聞きしてたんじゃないか。
「そんなんじゃないです」
と言われてしまった。テレパシーで通信できたのだろうか。
まるで普通の女の子みたいな質問だった。本当の普通の女の子ならもっと回りくどい言い方か、もっと分かりやすい表現をするだろうけど。
無欲な彼女に興味を持った理由か。まさか聞かれると思ってなかったからな、今更『実は興味ないんだ』とも言えないし。それは女の子に対して失礼な気がする。
考えた挙句に出てきた、一つの理由。
「むよくちゃんが可愛いからさ」
他にも理由はあるだろうか。
彼女が、無欲だから。髪の毛が白いから。瞳が白いから。肌の色が白いから。ぼくと同じ歳の中では背が短いほうだから。そして、愛らしいからだ。
それら全てひっくるめて、ぼくは彼女に魅入ってしまったのだろう。
だから、興味を持った。
理由はそれだけでいい。それ以外はいらない。
通路の一番端、西洋風の建物が途絶えた辺りまで歩いた。渡らなくてはいけない横断歩道の信号は、ちょうどよく青白く光っていた。
「ここまででいいよ。ありがとう」
「うん」
自然とぼくとむよくちゃんの手が離れていった。
ぼくは精一杯笑顔を作って、言った。
「じゃあね。縁があったら、また会おう」




