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第50話 俺が俺でいるために

「お前は……ノア、か?」


ミスジェロの喉から絞り出されたその声は、自分でも驚くほど掠れていて、長い年月の奥底に押し込めていた記憶を無理やり引きずり出したような、不快な震えを帯びていた。黒猫だった頃、自分が心を許し、無防備に懐いていた存在はただ一人ルールの代理人だけだったはずなのに、その記憶の隙間に確かに入り込んでくる“ノア”という存在に対して、懐かしさよりも先に込み上げてきたのは、胃の奥を掴まれるような強烈な嫌悪感だった。


まるでルールの代理人の顔を取り、ノアの顔を上から貼っつけたみたいに。


「うん、そうだよ」


ノアはあまりにもあっさりと、何の躊躇いもなく頷いた。その表情は穏やかで、柔らかく微笑んでいるはずなのに、どこか人間味が欠けている。彼の身に纏う白いケープは陽光を受けて淡く輝き、その縁に施された銀色の刺繍は神聖さを強調するかのように静かに煌めいていた。その姿は、かつての“少年”の面影を残しながらも、明らかに別の存在へと変わっていることを示している。


「お前……神になったのか?」


問いかけながら、ミスジェロの頭の中ではいくつもの思考が渦を巻いていた。なぜいなくなったのか、どこへ行ったのか、生きているのか、それとも、、答えの出ない疑問が次々と浮かんでは消えていく。そのたびに胸の奥がざわつき、落ち着かない鼓動が全身に広がっていった。


「そうだよ。君はルールの代理人を求めてきたのかい?」


ノアは静かに問い返す。その声音は優しいのに、どこか距離がある。まるで最初からすべてを見透かしているような、そんな不気味な落ち着きがあった。


「そうだよ!あいつは今どこに――っ!」


言い終える前に、ノアの手がゆっくりと持ち上がる。そして次の瞬間、淡く光る粒子のようなものがミスジェロの頭部に触れた。その光は温かいはずなのに、触れた瞬間、意識が強制的に引き剥がされるような感覚に襲われる。


「ダメじゃないか。猫が紛れ込んじゃ」


その言葉を最後に、ミスジェロの視界は暗転した。


崩れ落ちる身体。力の抜けた指先。遠のいていく意識の中で、かすかに見えたのは、ノアが何かを“書き記している”姿だった。日記のような、記録のような本に、淡々とペンを走らせている。その行為が何を意味するのか理解する前に、意識は完全に途切れた。


――そして。


「だから俺は!真実を知りたいんだ!なんであのタイミングで神力を解いたのか、なんで俺に名前をつけたのか!」


再び意識を取り戻したミスジェロの声は、先ほどとは違い、感情を剥き出しにした荒々しいものだった。瞳はわずかに充血し、奥には怒りとも焦りともつかない色が滲んでいる。


「ミスジェロくん貴方は壊れた船があっても直そうとしなかったよね?これからもっと酷い事実が待ってるかもしれない。耐えられる?」


「、、、」


そうだよ。俺は怖かったんだ。真実を知ることが。このまま待ってればあいつは戻ってくるんじゃないかって期待してたんだよ。


だけどこいつらは俺のためだけに船を直してくれた。天空神は瞬間移動することだって出来る。

天界に行って俺に結果を教えることも出来たはずだ。


なのに、なのにこいつらは俺と一緒に天界に行こうとしてくれてるんだ。俺の心の弱さも全部認めて、俺は真実をしらなきゃいけない。


こいつらの努力を無駄にするなんて俺が俺を許せない。


今行かなかったら俺は此の先ずっと後悔する。

もう迷わないんだ。俺が俺の過去のことを許せるようにする為に。


そう決意を固めたミスジェロは天空神と目を合わせた。


「覚悟は出来てるぞ」


「……ミスジェロくん。君が言った中で違和感はある。それは分かっているね」


静かに口を開いたのは天空神だった。その表情はいつもの軽さが消え、どこか真剣で、わずかに影を落としている。


短く答えるミスジェロ。その声には決意が混じっていた。


「じゃあもうひとつ。君の尊敬するルールの代理人は生きてるよ」


その一言は、空気を一瞬で凍らせるほどの重みを持っていた。


「……は?」


ミスジェロの思考が止まる。数千年という時間の重みを考えれば、既に存在していないと考えるのが自然だった。だが、その前提が今、あっさりと覆された。


「いいかい、二人ともよく聞いて」


天空神はゆっくりと言葉を選びながら続ける。その瞳の奥には、過去を見つめるような遠い色が宿っていた。


「ルールの代理人が“大罪”を犯した時の創造神は、私たちより一世代前の存在だ。そしてその前代創造神の補佐をしていたのが、神見習いだった頃の現在の創造神なんだよ」


その告白に、翔とミスジェロの表情が同時に固まる。驚きと困惑が入り混じり、言葉が出てこない。


「詳しい仕事内容はあの人自身の領域だから私にも分からない。でもあのやり手の前代創造神だ。もし本当に死んでいたとしても、必ず“何か”は残しているはずだ」


その言葉には確信があった。ただの推測ではない、長い時間を共にしたからこそ分かる信頼のようなものが滲んでいる。


「じゃあ――船を使って会いに行こう!」


重苦しい空気を切り裂くように、翔が声を上げた。その表情は真っ直ぐで、迷いがない。だがその言葉は、本来なら成立しないものだった。人間は天界へ行くことを許されていないそれが絶対のルールなのだから。


それでも。


誰もその場で否定しなかった。


張り詰めた空気の中で、三人の視線が自然と一つに重なる。常識も掟も、この瞬間だけは意味を失っていた。


そして彼らは、半ば無謀とも言える決断のまま船へと乗り込む。


軋む木材の音、潮の匂い、そして胸の奥に広がる不安と期待が混ざり合う中で――


三人は天界へと向かった。

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