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第48話 幕開け

照りつける太陽の下、潮風に混じる木の匂いと汗の匂いが辺りに漂う中、ようやく完成した簡易的な船を前にして、翔と天空神はどこか達成感に満ちた表情を浮かべていた。


肌は焼け、服は汗で張り付き、疲労は限界をとっくに超えているはずなのに、それでも二人の顔にはどこか明るい色が差しているのは、長かった遭難生活に一つの区切りが見えたからだろう。


「これで天界に行ける!」


翔は声を弾ませながらそう言い、額に浮かんだ汗を腕で雑に拭った。


その横で天空神も小さく頷きながら、どこか満足げに船を見つめているが、その表情にはほんの少しだけ“言いにくそうな色”が混ざっていた。


「ちなみにさ」


ぽつりと、何でもないことのように天空神が口を開く。


その声音はいつも通り軽いのに、なぜか一瞬だけ空気が止まったように感じられる。


「私はミスジェロのこと天界に瞬間移動させられるけど……なんで船建てたの?」


その一言で、翔の表情がぴたりと固まった。


数秒の沈黙の後、みるみるうちに顔色が絶望に染まり、目の光がすっと消えていく。

その変化があまりにも分かりやすく、逆に清々しいレベルである。


「……いや、俺は転送で行けないんだよな」


乾いた声でそう返すミスジェロは、どこか遠くを見ている。


現実を直視したくない人間の典型的な目だ。


「正しくは“行けない”というか、“行くことを許されてない”って感じなのかな。俺と天界を繋ぐのは箱舟だけなんだよ。」


その言葉に、翔はゆっくりと視線をミスジェロに向ける。冗談ではないと悟ったのだろう、顔から完全に笑みが消え、代わりに警戒と困惑が入り混じった色が浮かぶ。


「……それはどういうことだ?」


慎重に問いかける翔の声は、先ほどまでの軽さとは打って変わって低く、重い。


その問いに対し、ミスジェロは一瞬だけ視線を伏せた。普段の飄々とした態度は影を潜め、どこか覚悟を決めたような、静かで張り詰めた空気をまとっている。


その表情はどこか硬く、瞳の奥には過去を掘り返すことへの躊躇いと、それでも語らなければならないという決意が同時に揺れていた。


「本当は、ここまで言うつもりはなかったんだ」


低く落ち着いた声が、風の音に紛れながらも確かに響く。


「だけど、お前たちが初対面の俺にここまでしてくれて……俺はもう、ケジメをつけないといけない」


そう言って顔を上げたミスジェロの瞳には、先ほどまでの迷いはなく、ただ真っ直ぐな覚悟だけが宿っていた。


そして、ゆっくりと語り始める。


――時は、三千五百年前に遡る。


まだ“ミスジェロ”という名前すら持たなかった頃、ただの一匹の黒猫だった存在。艶のある黒い毛並みと、夜のように深い瞳を持つその猫は、初代ルールの代理人の“補佐”として、天界の片隅で生きていた。


当時の天界は今よりもずっと不安定で、神々の力も秩序も、どこか危うい均衡の上に成り立っていた。

そんな中で、ルールの代理人は異質だった。

飄々としていて掴みどころがなく、それでいて時折、底知れない狂気を覗かせる。


ある日、その男は何の前触れもなく、黒猫に向かってこう言った。


「近いうちに“全部やり直す”。そのためにお前を浮世って場所に飛ばすぜ!」


 軽い調子だった。まるで明日の天気を話すかのような、あまりにも現実感のない声音。


「いや意味わからないニャン、ぜってーやめろニャン」


 黒猫は即座に拒否した。


耳を伏せ、威嚇するように尻尾を膨らませながら睨みつけるその姿は、小さいながらも確かな怒りを孕んでいる。


「そんなこと言うなよー、君は僕に頼られて嬉しいだろ?」


「照れてねぇよぶち殺すぞニャン」


軽口を叩き合う、いつも通りのやり取り。


だが、その裏にあった言葉の意味を、この時の黒猫はまだ理解していなかった。


「何でもかんでも“ニャン”付ければ許されると思うなよ」


そう笑っていた男の顔が、ほんの一瞬だけ――本当に一瞬だけ、冷たく歪んだことに、黒猫は気づかなかった。



それが、すべての始まりだった。


気がついた時、黒猫は空を落ちていた。


 風が耳を裂くように唸り、視界は歪み、重力が全身を引き裂くように引っ張る。

理解が追いつかないまま、それでも本能的に叫ぶ。


「……は? 何言って……おい!」


 だが、その声は虚しく消えた。


すでに黒猫は、天界と浮世の間に存在する“浮世”へと放り出されていたのだ。


そこは光も音も曖昧で、方向すら分からない異質な空間。


神でも、神見習いでもない“ただの補佐”である黒猫にとって、そこは帰還不可能の領域だった。


そして――


一度でも亜空間を抜けて浮世に行ってしまえば、もう二度と戻れない。


「何やってんだよお前……!!」


怒りと混乱と恐怖がぐちゃぐちゃに混ざった声が漏れる。それでも黒猫が思ったのは、自分のことではなかった。


「お前、自分が何したか分かってんのか……!?」


頭の中で何度も反芻される言葉。


――“全部やり直す”。


その意味に気づいた瞬間、背筋が凍りついた。


もしそれが本当なら、それはただの反逆では済まない。

五大神、その中でも創造神に対する明確な敵対行為。最悪の場合、存在そのものが消される。


思考はまとまらず、感情は暴走し、心は限界を超えて軋んでいく。


それでも、落ちていくしかなかった。


それから三日後。


黒猫の前に、一人の少年が現れる。


まだ幼さの残る顔立ちだが、その瞳にはどこか不思議な強さが宿っている。

日に焼けた肌、粗末な服装、それでもまっすぐに立つその姿は、この世界で必死に生きている証そのものだった。


「ねえ、聞いてくれよ!」


無邪気に笑いながら話しかけてくるその少年――ノアは、どこか興奮した様子で言葉を続ける。


「知らないイケメンの神様みたいな人がさ、これから大洪水が起こるから船を作れって言ってきたんだ!」


その一言で、黒猫の表情が凍りついた。


背中の毛が逆立ち、瞳が鋭く細まる。


その“神様”に、心当たりがありすぎた。


「……おい」


低く、押し殺した声で黒猫は問いかける。その声には明確な緊張と、抑えきれない焦りが滲んでいた。


「その神様ってやつは、どこで見た? そして……何て言ってたんだ?」


ここが――


ノアと黒猫の出会いであり、


そして、すべてを巻き込む“事件”の幕開けだった。

この瞬間から、世界は静かに、確実に狂い始める。


――これはまだ、地獄の“入口”に過ぎなかった。

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