第44話 最悪な夢
薄暗い畳の匂いが、鼻の奥にまとわりつく。
古びた平屋。
軋む床。
ひび割れた柱。
その空間の中心に、幼い少年は一人、ぽつんと立っていた。
「おかーさん……」
小さな声は、誰にも届かない。
まるでこの世界に、自分しかいないかのような孤独。
そんな錯覚すら覚えるほど、周囲の空気は冷え切っていた。
次の瞬間――
「……あの女の子供だと?」
低く、嘲るような声が響く。
「よくのうのうと顔を出せたものだな」
「ほんとよねぇ」
甲高い女の声が重なる。
「私だったら無理よ。だって、ねぇ?」
「私たちの神から、加護すら与えられていない女の子供だもの」
くすくすと笑い声が広がる。
その場にいる大人たちは、誰一人としてそれを咎めない。
それが“当たり前”であるかのように。
――腐ってる。
幼い翔は、すでに理解していた。
(こいつらは、根っから腐ってる)
まだ五歳。
だが、その目は妙に冷めていた。
年に一度しか訪れない本家。
だがその一度が、どうしようもなく嫌いだった。
母も言っていた。
「本家は嫌いだ」と。
その理由が、今ならはっきりと分かる。
(加護? 女? 当主?)
(……くだらねぇ)
胸の奥で、黒い感情がじわじわと広がる。
(女は男より下?)
(何もしてねぇ奴が、偉い?)
(……ふざけんな)
幼いながらに抱いた違和感は年齢を重ねる毎に重くなっていき、やがて“嫌悪”へと変わっていった。
「――神名翔。前へ出なさい」
鋭い声が飛ぶ。
翔はゆっくりと顔を上げた。
目の前には、扇子を持った男。
血の通わないような冷たい目で、こちらを見下ろしている。
――パシンッ!!
乾いた音が響いた。
頬に走る衝撃。
遅れて、じわりと血の味が広がる。
だが翔は、表情を変えなかった。
ただ静かに、男を見つめ返す。
そこにあるのは――期待の欠片もない、空虚な目。
(当たり前だ)
(こんな奴らに、期待なんてしてねぇ)
心の中で吐き捨てる。
(……苗字が違って、本当によかった)
それだけは、唯一誇れることだった。
「ここは鼠がいていい場所じゃない!」
男が吐き捨てるように言う。
「お前は自分の母親と帰れ」
翔の眉がわずかに動いた。
「ここに来たのは、本家からの呼び出しがあったからだ」
低く、しかしはっきりと言い返す。
「文句なら俺の曾祖父に言えよ。当主だからな」
一瞬、空気が凍る。
「――黙れ!!」
怒号と同時に、拳が振り抜かれた。
――ドンッ!!
頬に叩き込まれる衝撃。
視界が揺れる。
それでも、倒れない。
さらに男は、近くにいた女を床に叩きつけた。
「きゃっ――!」
「ここに神名の姓を持つ奴らを連れてきたのはお前だな!!」
その女は、翔の母の姉妹だった。
ただ玄関から部屋まで案内したたけなのに殴られたのだ。なんとも理不尽だ。
床に打ち付けられる鈍い音。
痛みに歪む顔。
その光景を見た瞬間――
翔の中で、何かが切れた。
「……てめぇ」
低く、唸るような声。
気づけば、男の胸ぐらを掴んでいた。
小さな手。
だが、その力は異様に強い。
「てめぇの飯、誰が作ってんだ?」
睨みつける。
「洗濯は? 朝起こしてんのは誰だ?」
言葉が止まらない。
「何もしなくても飯が出てくるの、当たり前だと思ってんだろ」
声が震える。
怒りで。
「お前、米炊けんのか?」
「おかず三品、作れんのか?」
一歩、踏み込む。
「女がいなきゃ、まともに生活もできねぇくせに――」
歯を食いしばる。
「女のこと殴ってんじゃねぇよ!!」
空気が、張り裂ける。
――これは、
翔が初めて本家の男に本気でキレた日。
十二歳の、一月一日。
⸻
「――っ」
翔は、はっと目を覚ました。
視界に広がるのは、青い空と見慣れない天井。
波の音が、遠くから聞こえる。
(……夢かよ)
小さく息を吐く。
昨日のことを思い出す。
ミスジェロの話。
ノアの箱舟。
船を直すという決意。
だが日が暮れ、結局は翌日に持ち越しになった。
髪も、服も、もう完全に乾いている。
けれど――
(決意は変わってねぇ)
胸の奥に残る熱は、消えていなかった。
「……チッ」
思わず、舌打ちが漏れる。
(余計なもん思い出させやがって)
あの家。
あの空気。
あの連中。
思い出すだけで、胸の奥がざらつく。
ふと、隣を見る。
そこには――
「……すぅ……くかー……」
天空神が、気持ちよさそうに眠っていた。
無防備な寝顔。
安心しきった表情。
(……ほんと、こいつは)
呆れ半分、どこか安心する感覚。
そして、ふと重なる。
ミスジェロの姿。
神に抗い、
それでも一人で待ち続ける存在。
(……似てるな)
昔の自分と。
何も持たず、
理不尽に立ち向かうしかなかった自分と。
気づけば――
翔の中に、小さな感情が芽生えていた。
それは同情でも、哀れみでもない。
――親近感。
「……手伝うか」
小さく呟く。
その声は、波の音に溶けて消えた。
だがその決意だけは、確かにそこにあった。




