第五部第九話:冷淡なる神託と、強欲の契り
第五部第九話:冷淡なる神託と、強欲の契り
ブラム王国の北西、雲海を望む峻険な霊峰の頂に『聖天教団』の大神殿はそびえ立っていた。
神聖な静寂が満ちる最上階の『祈りの間』。冷たい白磁の床に膝を折り、聖女ソフィアは胸の前で強く両手を合わせて祈りを捧げていた。
その全身から溢れ出た聖王力の光彩が渦を巻き、空中にひとつの眩い扉を開く。
光の中から舞い降りたのは、純白の翼と神々しい甲冑を身に纏った地上守護天使――地天使ディーリであった。
「……地天使ディーリ様。この度、魔王族に与する恐ろしい獣人たちの侵攻を阻止するため、どうか我ら人間にお力添えをいただけないでしょうか……?」
ソフィアは深く頭を垂れ、すがるような瞳で切々と懇願した。
「――それはできません」
ディーリは一切の感情を排した冷淡な眼光で、ひれ伏すソフィアを見下ろした。
その声には慈悲の欠片すら含まれていない。
「此度の試練は、あなた方人間自身の力で乗り越えなければなりません。これは……最高上位たる聖天使セレシオン様の厳格な決定でもあるのです」
「そんな……! ですが、迫り来る獣人たちの暴力はあまりに凶暴で、今の我らの手には余るかと存じます! 何卒……何卒ご助力を……!」
「なりません。自分たちの足で立ち、自分たちの手で未来を切り拓きなさい。そして……その結果があなた方の種族の命運を左右するということを、固く肝に命じるのです」
冷酷な神託を言い渡すと、ディーリは白銀の翼を羽ばたかせ、ソフィアの引き止める声を振り払って光の彼方へと去っていった。
「ディーリ様……っ……」
差し伸ばした手が虚しく空を切る。冷たい床に突伏し、ソフィアは深くうな垂れた。
その頃――祈りの間の真下にあたる大聖堂では、腹を揺るがす爆音と悲鳴が激しく響き渡っていた。
「グハハハハ! 汚物どもめ、まとめてミンチになれッ!」
聖堂の中央で暴れ回っていたのは、巨大な豚の頭部と脂ぎった爛漫な巨躯を持つ怪異――「人豚」であった。
身の丈ほどの巨大なスパイク付きミートハンマーを振り回すたび、白銀の甲冑を着た騎士や兵士たちが重厚な音とともに叩き潰され、肉塊となって石畳を赤く染めていく。
「おのれぇッ! 誰ぞ……誰ぞこの化け物を討ち取る猛者はおらぬのかッ!?」
豪奢な法衣を身に纏った教皇が、物陰から顔を覗かせて悲鳴のような叫びを上げた。しかし、凄惨な惨状を目にした騎士も兵士も恐怖に竦み上がり、誰一人として前に出ようとはしない。
「ほーい! 俺がやってやろうか?」
静寂を破り、軽薄な声とともに人豚のすぐ隣へ足を踏み入れたのは、黒衣の傭兵グレイランスであった。
「ぬ……!? その方、其奴を打ち取れると申すか!?」
「ああ! だが……タダって訳にはいかないぜ?」
グレイランスは不敵にニヤリと口元を歪め、指で金貨の形を作ってみせた。
「ぬうっ! 混乱に乗じて足元を見おって……! 貴様、それでも神に仕える人間かッ!?」
「俺は別に構わないんだぜ? 神殿のありがたい財宝が、この豚野郎の糞まみれになろうとな!」
グレイランスが肩をすくめて踵を返そうとすると、教皇は慌てて手を伸ばした。
「分かった! 頼む! 褒美は望みのままくれてやるッ!」
(フン……このような切羽詰まった口約束など、後でなんとでも反故にできるわ)
教皇が腹の中で黒い算術を弾いた、その瞬間――。
「――では、『聖天使セレシオン』の名に誓っていただく!神殿の全ての財宝を差し出すとな!」
グレイランスが鋭い眼光で教皇を射抜いた。
「なにッ!?」
教皇の顔から血の気が引く。
至高の存在たるセレシオンの名を冠した誓約を立ててしまえば、神聖な神罰により、どのような権力者であっても約束を破ることは不可能なのだ。
「ぐぬぬぬぅ……っ! 分かった! 承知した! ただし、受け取った財貨はすべて苦しむ人民の為に使うと誓えッ!」
教皇は苦虫をかみ潰したような顔で、辛うじて最高権力者としての威厳を保とうとした。
「……承った!」
グレイランスは即座に長剣を抜き放ち、刃を閃かせた。
「アタシも一口乗ったよ!」
その時、聖堂の二階バルコニーから、可憐な装飾の竪琴を抱えた精霊使いの女性楽師・ルイザが軽やかに舞い降りてきた。
「構わんさ! なぁ……豚野郎?」
「ハッ! 何人増えようが、俺の腹に入れば同じことさッ!」
人豚は腹の肉を叩いて下品に高笑いした。
――ズバァァァンッ!!
グレイランスが地を蹴り、閃光のごとき斬撃で人豚の腹を裂いた。
しかし、脂ぎった深い傷口は肉を蠢かせ、一瞬にして元の通りに治癒して塞がっていく。
驚異的な再生能力であった。
「ちっ、再生能力か! 」
「任せな!」
ルイザは懐から緑色に煌めく『木精玉』を取り出すと、人豚の足元へ力任せに投げつけた。
――パァァァンッ!!
宝珠が弾け飛んだ瞬間、大聖堂の硬い石畳を突き破り、無数の太い木の枝と鋭いツルが爆発的に生い茂って人豚の巨躯をガチガチに絡め取った。
「ぬぐっ……!? 動かん……っ!」
「死ねッ!」
身動きを封じられた人豚の胸深く、グレイランスは長剣を柄頭まで深く突き刺した。そして刃を抜くことなく、転がっていた騎士の死体から別の長剣を奪い取ると、二本目、三本目と容赦なく人豚の肉体へ深々と刺し通していった!
「ぐあぁぁぁっ……!!」
数本の剣を突き立てられた人豚が、脂汗をダラダラと流しながら唸り声を上げる。
――ドバァァァァンッ!!
次の瞬間、人豚の体表から滲み出た超高熱の脂汗に着火し、凄絶な爆炎が大聖堂の中央で跳ね上がった! 炎と激しい爆風に乗って、人豚の体に刺さっていた剣が弾丸となって全方位へ飛散する。
「くっ……!」
グレイランスは足元に転がっていた騎士の死体を掲げ、間一髪で飛来する刃の雨を防ぎ切った。
「トドメさ! 受け取りな!」
煙の向こうから、ルイザが今度は黄金に輝く『金精玉』を弾けさせた。空中から放たれた無数の鋼鉄のトゲが雨あられと降り注ぎ、人豚の巨躯を跡形もなく串刺しにする。
絶叫を上げる怪物へ向け、グレイランスは拾い上げた長剣を全腕力で振り抜いた。
――ズザァァンッ!!
鋭い銀の軌跡が空を裂き、惨たらしい豚の頭部が白磁の床へ転がり落ちた。
怪物は潰え、戦闘は終わった。
しかし――周囲に潜んでいた兵士や教皇からは、歓喜の声など一切上がらなかった。
散乱する肉塊、焦げ付いた肉の臭気、そして仲間を盾にして突き立てる傭兵のあまりにも凄惨で容赦のない戦いぶりに、一同は顔を青ざめさせて絶句するばかりであった。
「……グレイランス様……ッ!」
遅れて祈りの間から駆け下りてきた聖女ソフィアが目にしたのは、血煙と惨劇の真ん中に立つ黒衣の男の姿であった。
神聖なはずの大聖堂は見る影もなく荒廃し、全財産を失うこととなった教皇は、呆然と膝をついて愕然と肩を落としていたのであった。




