第五部第八話:断崖の選択と、抉られた絆
第五部第八話:断崖の選択と、抉られた絆
切り立った崖と深遠な谷に挟まれた、場所によってはすれ違うことすら困難な険しい山道の隘路。
大神殿を目指す聖騎士団の一行は、前方のぬかるんだ道を緩慢な足取りで歩く一人の異様な男の背影を目にし、馬の足を止めた。
「そこを行く者、道をあけよ! 急ぎの旅ゆえ、端へ寄っていただきたい!」
隊列の先頭を行くジェイクが、手綱を握り直して凛々しく声を張った。
男がゆったりと立ち止まり、首を180度近く捻るように振り返る。
その顔には、人間のものとは思えぬ歪んだ嘲笑が張り付いていた。
――ズズズズズッ……!!
男の肉体が不気味な骨鳴りとともに一瞬で膨張・巨大化し、服を弾き飛ばす。
現れたのは、巨大なカバの頭部と、湿った強靭な皮膚、そして丸太のような巨腕を持つ怪異――「人河馬」であった。
「なんと……ッ! 貴様、魔王族かッ!?」
「総員、抜刀! 天王力を込めよ!」
ジェイクの怒号とともに、騎士たちが一斉に剣を抜く。
刃には「天王力」の青白い光彩が宿った。
「グアハハハ! 威勢のいい獲物どもだ!」
ジェイクの傍らにいた一人の騎士が果敢に跳躍し、人河馬の喉元へ刃を閃かせた。
しかし、人河馬の巨腕が風を切り、空中で騎士の身体を容易く鷲掴みにした。
――バリボリッ……!!
「ぎゃあああああッ!?」
甲冑ごと頭部を噛み砕く凄絶な砕骨音が響き、鮮血が崖肌を赤く染める。
人河馬は咀嚼した騎士の残骸を、物言わぬ生ゴミのように谷底へ投げ捨てた。
「オノレ! 化け物めッ!」
怒りに目を血走らせたジェイクが自ら剣を振りかざし、疾風のごとき刺突を繰り出す。
しかし、巨体に似合わずぬめり気のある皮膚とすばしっこい身こなしで紙一重にかわされた。
後続の騎士たちが次々と死力を尽くして挑んだが、狭隘な地形も災いし、巨腕に捕えられては次々と噛み殺され、谷底へと叩き落とされていった。
「神よ……光の導きをッ!」
後方のソフィアが両手を合わせ、神聖な天王力の光矢を解き放った。
しかし、人河馬が展開した禍々しい漆黒の魔王力の防壁に阻まれ、光は不発に弾け散る。
「くっ……! 聖女様をお守りする!」
果敢に間合いを詰めた聖戦士マリオンが横合いから刃を走らせたが、凄まじい手応えとともに剣を弾かれ、太い巨腕に首筋を掴まれて宙へ吊り上げられた。
「マリオンッ!」
ジェイクが救出のため踏み出そうとしたが、人河馬の強力な蹴りを見舞われ、白銀の胸甲を砕かれて弾き飛ばされた。
「やめなさい……ッ! マリオン様から離れなさい!」
ソフィアは自らの身を省みず、直接触れて体内の天王力を力任せに流し込もうと突進した。
だが、それすらも容易く見切られ、もう片方の巨手に華奢な胴体を固く握り締められてしまった。
左右の手に、捕らわれた二人の女。
人河馬はうっとりとした表情で、握りしめたマリオンとソフィアの匂いを交互に嗅ぎ回った。
「グハハハ……甘くて美味そうな匂いだ。……どちらから先に食べようかなぁ? おい貴様、どちらか片方を選ぶがよい! 一方は助けてやらんでもないぞ?」
魔王族が人間の理性を破壊し、精神を地に堕とす際によく用いる残酷な常套手段――命の選択。
「ふざけるなッ……! 卑劣な真似を……ッ!」
血を吐きながら立ち上がろうとするジェイクが歯噛みする。
「フン、選ばないというなら……このまま両手で二頭とも握り潰して締め殺してしまうまでだ!」
「ぐ……っ……!」
人河馬の手に力がこもり、マリオンとソフィアの口から絶叫が漏れる。
死線に立たされたジェイクの脳裏を、苛烈な葛藤が駆け巡る。
聖騎士としての絶対的な責務は「聖女ソフィア」の護衛。
そして何より、マリオン自身もまた、聖女を守るために命を捨てる覚悟を持った聖戦士であった。だが――。
「……ぐっ……、聖女様をっ!」
苦渋と無念に満ちたジェイクの叫び。
その決定的な言葉が放たれた瞬間、彼の内に宿っていた神聖なる「聖王力」の輝きが、絶望と罪悪感によって大きく翳り、色褪せた。
「ぐへへへ! 良かろう、契約成立だッ!」
人河馬は邪悪な悦びを露わにすると、握っていたマリオンの身体を無造作に深い谷底へと投げ捨て、残されたソフィアへ巨大な口を開けてかじりつこうとした。
「やめろぉぉぉぉッ!!」
「――『破』ッ!!」
突如、部隊の後方から風を切って疾走してきた老僧ブルドが、首に下げていた大粒の数珠を引きちぎり、人河馬の開いた大口の中へ勢いよく放り込んだ!
「ソフィア! 防御の術を唱えろッ!」
遅れて駆けつけたグレイランスの絶叫。ソフィアは涙に濡れた瞳で間一髪、神聖な光の結界(障壁)の呪文を唱え、自らの身を包み込んだ。
――ドバババババァァァンッ!!!
数珠に込められた秘伝の火薬が人河馬の体内で爆発。
巨躯が内側から破裂し、肉塊と血の雨となって四散した。
血煙が舞う中、結界に守られたソフィアが足元へ転がり落ちる。
すささっと駆け寄ったグレイランスが、震える彼女の華奢な肩を抱き起こした。
「おい、大丈夫かッ!?」
「グレイランス……様……っ。私、私は無事です……! ですが、マリオン様が……っ!」
無事を確認されたソフィアが抱きつき、声を上げて泣きじゃくった。
一方、地面に膝をついていたジェイクは、失意と痛恨に満ちた表情で谷底の闇を見つめていた。そして、決意を固めたように立ち上がった。
「……すまぬ。私は、落ちたマリオンを探しに行く。……大神殿には、お前たちが先に向かってくれ」
ソフィアを抱き抱えるグレイランスは、ジェイクの深く沈んだ眼光を静かに見つめ返し、多くを語らずに答えた。
「……分かった」
ジェイクは残された僅かな生き残りの騎士たちにソフィアの護衛を任せると、甲冑を軋ませながら、急勾配の崖を滑り落ちるように深く暗い谷底へと降りていった。
本来であれば、隊長たる聖騎士が職務を放棄して一人の配下の捜索に当たるなど許されず、部下に任せるべき事態であった。
だが、己の判断で彼女を見捨てたという殺人的な責任感と……それ以上に、長年背中を預け合ってきたマリオンに対する、聖職者として抱いてはならない断ち切れぬ想いが、彼を突き動かしていたのだった。




