第五部第十話:断罪の血脈と、漆黒の覚醒
第五部第十話:断罪の血脈と、漆黒の覚醒
切り立った谷底へ向けて落下の衝撃が体を叩く中、聖戦士マリオンの胸中を駆け巡っていたのは、死への恐怖ではなく苛烈な「憎悪」であった。
あの一瞬、迷わず聖女ソフィアの命を選び、自分を谷底へと投げ捨てさせた聖騎士ジェイク。
(……分かっている。理解はしているのだ、ジェイク様……)
聖騎士としての責務、教団の掟、そして世界の存続。
あらゆる天秤にかけても、自分ひとりの命など聖女の尊厳には遥かに及ばない。ジェイクの選択は正しかった。
ならば、己が真に憎むべきは何なのか。
人間の情を裁き、冷酷な二者択一を強いる天王界の苛烈な規律そのものではないか。
命を賭して奉仕してきた神への絶対的な裏切りが、マリオンの心を黒く塗り潰していく。
そのドロドロとした負の情念が極限に達したその時、彼女の体内を逆流した禍々しい気が額へと一気に集中した。
――パキィィィンッ……ガシャァンッ!!
長年、彼女の額で神聖な光を放っていた白銀のサークレットが、内側からの圧力に耐えかねて音を立てて粉々に砕け散った。
それは同時に、彼女の存在を縛り続けていた密かな「封印」が破られた瞬間でもあった。
これまでどれほど修行を積んでも上手く扱えなかった天王力――その理由が今、解き放たれる。
マリオンの体底から爆発的に噴き出したのは、青白い神の光などではなく、重くドロリとした漆黒の「冥王力」であった。
「な……なにが……っ!?」
マリオンは本能的に漆黒の気流を全身に纏い、衝撃を殺しながら見事な着地で冷たい谷底の石畳へ足をついた。
自らの体に漲る未知の力に、彼女自身が狼狽し、震える己の手を見つめた。
「……封印が解けたか? 我が娘よ」
頭上から響いた静かで重厚な声音に、マリオンは弾かれたように見上げた。
岩壁の陰、月光を背にして佇んでいたのは、漆黒の重厚なマントを羽織り、血のように赤い双眸を光らせた気品あふれる男であった。
「……娘……だと……!? 貴様、何を戯言を……ッ! 我が父だと言うのかッ!?」
マリオンは即座に腰の剣を抜き放ち、鋭い殺気を込めて構えた。
しかし、目の前の男から放たれる圧倒的な存在感と闇の気配に、皮膚がビリビリと痺れる。
そこに立っていたのは、まぎれもない冥王族ヴァンパイアであった。
「貴様……何者だッ!?」
「我が名はハンニバル。冥王族であり……そして、そなたの真の父親だ」
「バカな……! 私が冥王族の血を引いているというのかッ!? 戯言を吐くな!」
「戯言ではない。そなたの額にあったサークレットは、教団の聖具などではない。我がそなたの体内に眠る冥王力を封じ込めるために施した、強力な封印の器よ」
「なんのためにッ!?」
マリオンは叫んだ。剣を握る手が激しく震える。
「そのせいで……その恐ろしい封印のせいで、私は幼少よりいくら修練を重ねても天王力を授かれず、聖騎士にもなれず、蔑まれてきたのではないのかッ!?」
「そうやもしれん」
ハンニバルは感情を交えず、静かに目を細めた。
「……だが我が娘よ、我はそなたに『人間として育ってほしい』と願ったのだ」
「……っ! いっそ……いっそ最初から冥王族のもとで、冥王族として育てられた方が、どれほど幸せだったか……ッ! なぜそのような残酷な真似を……!」
「人間の心を知る必要があったのだ。……聞きなさい、マリオン。冥王族と天王族は永遠の敵対関係にある。しかし、今や人間という種族は、天王族の支配と縁を切るべき時代へと差し掛かっている。その後に訪れる時代――冥王族と人間、いや地王族がどのように関わり合って生きるべきか……それを見極め、選ぶのは、そなた自身でねばならんのだ」
ハンニバルの深遠な言葉に、マリオンは息を呑んだ。胸の奥が冷たく冷えていく。
「……っ。では……私の母は……母は誰なのです……?」
ハンニバルは僅かに痛ましげな影を瞳に宿し、静かに告げた。
「……お前の母は、魔王族だ」
「な……ッ!?」
マリオンの手から、ガラガラと音を立てて剣がこぼれ落ちた。
天王力を司る聖職者として生き、神に身を捧げてきた己の身に流れる血――父は冥王族、母は魔王族。世界を脅かす二大勢力の血脈が、自分という一人の存在の中で混ざり合っていたという事実。
「なんということだ……っ。これほどの……これほどの絶望が、この世に他にあろうか……ッ!」
膝を折り、絶叫しながら地面を血が出るほど爪立てるマリオン。
その哀しき姿を見つめ、ハンニバルはゆっくりと歩み寄った。
「今一度、仮初の封印をお前に授けよう。……ただし、今度の封印は、そなた自身の意思でいつでも破ることのできる代物だ。人間として生きるも良し、冥王族として覚醒するも良し……己の運命はそなた自身が決めるのだ」
ハンニバルが細く白い指先を伸ばすと、砕け散っていたサークレットの破片が空中へ舞い上がり、瞬時に元の白銀の形へと修復された。
それが再びマリオンの額へと装着される。
「そのようなことができようか……っ! いや……そのような偽りが、許されようか……ッ!」
「まもなく、お前の運命を決める男がやってくる」
ハンニバルの囁きとともに、深い眠気の波がマリオンの意識を飲み込んでいった。
「……おい! しっかりしろ、マリオンッ!」
強い力で肩を揺すぶられ、マリオンは重い瞼を開いた。
視界に飛び込んできたのは、乱れた髪と、血と泥に汚れながらも必死な面持ちで自分を抱きかかえる男の顔――聖騎士ジェイクであった。
白銀の胸甲をきしませ、息を荒らげながら彼女の無事を確かめている。
「……ジェイク……様……?」
「よかった……! 無事だったか、マリオン……!」
ジェイクは心底安堵したように息を吐き、彼女の身体を強く抱きしめた。
その腕の震えから、彼がどれほどの必死さで崖を駆け下り、自分を探し回っていたかが痛いほど伝わってきた。
「……私……凄まじく……恐ろしい悪夢を見ていました……」
マリオンは弱々しく呟き、己の額にそっと手を触れた。
そこには変わらず、冷たい金属のサークレットがしっかりと納まっていた。
「あぁ……もう大丈夫だ。私がついている」
ジェイクの胸の温もりと、耳元で響く優しい声音。
一度は自分を捨てた男のその温もりに縋るように、マリオンは静かに目を閉じた。
サークレットの奥で静かに脈動する漆黒の力と、胸の中で燃える歪んだ情念を、誰にも知られぬよう深く深く隠しながら――。




