第五部第十一話:北進の避難行と、堅角の猛威
第五部第十一話:北進の避難行と、堅角の猛威
大神殿とその周辺の村々から追われた大勢の住民たちは、絶え間なく続く魔王族の侵撃を逃れ、北方へと延びる峻険な街道を進んでいた。
目指すは、竜王族の庇護下にあり、強大な竜が住まうとされる北の防衛都市――「ラブルの街」である。
長蛇の列をなす避難行の周りを聖騎士や兵士たちが厳重に固めていたが、この巨大な部隊の実質的な主導権を握り、鋭い眼光で全軍を指揮していたのは、教団の騎士ではなく黒衣の傭兵グレイランスであった。
名目上の総指揮官は聖女ソフィアである。しかし、極限状態の戦場においてグレイランスの圧倒的な実戦経験と決断力に対する信任は絶大であり、騎士団内部でも「実質的な指揮は彼が執る」というのが暗黙の了解となっていた。
何より、教団の大神殿から半ば力づくでせしめてきた莫大な軍資金の管理権を、グレイランス自身が握っているという事実が大きかった。
「ラブルの街には格式高い『竜神殿』がある。いくら狂暴な魔王族や獣人どもでも、古の竜王族の領域へ迂闊に手を出す度胸はあるまいよ。民間人はあの頑丈な城塞都市で保護してもらう。奴らを養う軍資金なら、あの渋ちん教領の蔵からどっさり吐き出させてきたからな。文句はあるまい」
愛馬の背の上で長剣の柄に手を取りながら、グレイランスは楽観的な笑みを浮かべた。その言葉には、極限状態においても揺るがない図太さと絶対的な自信が宿っていた。
しかし、その隣に馬を並べる聖女ソフィアの表情は、どこまでも曇っていた。
「……ですが、グレイランス様。竜王族は本当に信頼に足るお方なのでしょうか? それだけが……とても心配なのです」
白磁のような肌を強張らせ、ソフィアは胸の前で細い指先をかたく握りしめた。
人間を見下す者も多い竜王族が、本当に自分たちの味方となってくれるのか。
最悪の場合、彼らすらも牙を向く敵となるのではないかという予感が、彼女の繊細な心を苛んでいた。
その不安を打ち消すように、列の後方から軽快な馬の足取りとともに声を上げたのは、精霊使いの女楽師ルイザであった。
「その心配はいらないよ、聖女様。その竜神殿との折衝なら、このアタシが引き受けようじゃないか。あの神殿の連中には、昔からちっとばかり顔が効くんでね」
艶やかな茶髪を風になびかせ、ルイザは抱えた竪琴をポンと叩いて不敵に微笑んだ。
聞けば、彼女はこの北の都市ラブルの出身であり、竜神殿の神官たちと浅からぬ縁を結んでいたのだという。
その言葉には、単なる強がりではない確かな勝算が滲んでいた。
だが、一行が険しい峠道へと差し掛かったその時――隊列の最前線から激しい悲鳴と金属性の破裂音が響き渡った。
「――敵襲ッ! 敵襲ーッ!! 前方に巨大な魔物が出現ッ!」
混乱する兵士たちの伝令が、避難民の悲鳴とともに後方へと駆け抜ける。
「ちっ、休む暇もくれねぇかよ!」
グレイランスとルイザは即座に馬の腹を蹴り、隊列の先頭へと急行した。
「な……なんだありゃあ!? 今度は『人犀』ときたかいッ!」
立ち込める塵紛の向こう側にそびえ立っていたのは、分厚い灰色の皮膜に包まれた山のごとき巨躯と、顔面にそそり立つ極太の一本角を持つ怪異であった。
重厚な二刃の巨戦斧を軽々と振り回し、前線の騎士たちを盾ごと叩き潰している。
「ハッ、腕試しにはちょうどいいッ!」
グレイランスは馬上から跳躍し、空中で長剣を抜き放つと、必殺の一閃を人犀の首筋へと叩き込んだ。
――ガキィィィンッ!!
しかし、手応えはまるで岩盤を斬りつけたかのように硬く、鈍い衝撃がグレイランスの腕を痺れさせた。
人犀は巨戦斧の柄で剣をいとも容易く受け止めると、ブモォと不快な鼻鳴らしを響かせた。
火花を散らしながら何合も刃を交える二人。
だが、人犀の全身を覆う鎧のごとき皮膚は、グレイランスの鋭い斬撃すら弾き返し、かすり傷一つ負わせることができない。
「ぬんッ!」
人犀が巨戦斧を豪快に横一文字へ振るいぬいた。グレイランスは間一髪で体を捻ってこれを回避したものの――追撃として繰り出された人犀の頭部、突進する巨角の直撃を正面から喰らってしまった!
「ガハッ……!?」
凄まじい衝撃とともにグレイランスの身体は上空へと高く跳ね飛ばされ、数十メートル離れたぬかるんだ泥地へと背中から激しく墜落した。
「グレイランス!」
ルイザの瞳に緊迫の色が走る。
彼女は素早い手つきで腰のポーチから透明な青色に輝く『風精玉』を取り出すと、突進してくる人犀の足元へ叩きつけた。
――シュヴァァァァンッ!!
弾け飛んだ宝珠から巨大な竜巻が発生し、無数の不可視の「風の刃」が人犀の巨躯をズタズタに切り刻もうと暴れ狂った。しかし――。
「ブモォォォッ!!」
人犀は風の刃を全身の皮膚でガツガツと弾き返し、大した痛手も受けぬまま竜巻を強行突破してきた。
「へえ……相当頑丈な皮を着込んでいるねぇ。なら……これならどうだいッ!」
ルイザは竪琴の弦を激しく弾き、風の精霊たちへ新たな真言を下した。
――スーッ……ッ!!
人犀の周囲数メートルから、すべての空気が目に見える歪みとなって一瞬にして急速に奪い去られた。
無の空間――真空の檻である。
「ブモッ……!? ガハッ……ゴーッ……!」
凄まじい皮膚の硬度を誇る人犀も、体内からの呼吸までは防ぎようがない。
肺の中の酸素を奪われ、酸素欠乏を起こした巨躯は膝をつき、口を魚のようにパクパクと開けて苦悶に身をよじらせた。
「……借りは返すぜッ!!」
泥まみれになりながら立ち上がったグレイランスが、死角から疾風のごとく肉薄! 大きく開かれた人犀の口内――その軟組織へ向け、全身の体重を載せた長剣を柄頭まで深々と突き刺した!
――ズヴァァァァンッ!!
内側から破裂した人犀の肉体が凄惨な音を立てて弾け飛び、肉塊となって飛び散った。
「やれやれ……次から次へと妙な怪物が湧いて出やがるぜ……」
呼吸を乱しながら長剣の血をぬぐい取ったグレイランスは、胸の苦しさを隠すように肩をすくめ、隣に立つルイザの肩をポンと軽く叩いた。
「ふん、アタシの精霊術にかかれば大したことないさね」
ルイザは乱れた茶髪を指で軽く払うと、余裕たっぷりといった風に不敵な笑みを浮かべてみせた。
「ヒューッ、おっかないねぇ。敵に回したくない筆頭候補だ」
グレイランスはおどけたように両手を挙げてみせ、戦場の張り詰めた空気を和らげようとした。
だが――そんな猛者たちの勇猛な戦いぶりと軽妙なやり取りを、隊列の中央から守られながら見つめていた聖女ソフィアの胸は、激しい自己嫌悪と無力感で張り裂けそうになっていた。
(……私は……聖女でありながら、何もできていない……)
過酷な試練が訪れるたび、守られるだけで誰の役にも立てていない自分。
神の加護を説きながら、傷つき泥に塗れて戦う傭兵たちの背中をただ見つめることしかできない己の幼さと小ささに、ソフィアはただただ深く下を向き、溢れ出そうになる情けない涙を必死に耐えるのであった。




