第五部第十二話:川のほとりの告白と、冥府への口づけ
第五部第十二話:川のほとりの告白と、冥府への口づけ
険しい山道をようやく抜けた二人は、大神殿へと続く街道を逸れた川のほとりに身を寄せ、静かに燃える焚き火を囲んで野営の準備を整えていた。
夜の冷気が川面を舐めるように吹き抜け、パチパチと爆ぜる火の粉が二人の陰影を濃く浮かび上がらせる。
「……私のために、随分と遠回りになってしまいましたね」
マリオンは膝を抱え、申し訳なさそうに視線を落とした。額の白銀のサークレットが、炎の揺らめきを映して小さく光を反射している。
「なに、気に病む必要はない。今頃、聖女様たちは無事にお力ある天使たちの助力を得ておられる頃だろう。我ら二人程度の到着が少々遅れたところで、全体の戦況に何ら響きはせんさ」
ジェイクは干し肉を噛み締めながら、マリオンを安心させるように優しく静かな声音で諭した。
過酷な修羅場を幾度もくぐり抜けてきたあの傭兵――グレイランスが傍にいるという絶対的な安心感も、彼を落ち着かせていた。
もちろん頭の片隅に拭えぬ不安はあるものの、今は仲間の強さを信じるしかなかった。
「今夜の見張りは私が立つ。お前は横になって体を休めるといい」
ジェイクが立ち上がり、長剣の柄に手をかけた。
しかし、川面を見つめる彼の背中には、どこか深い葛藤の影が落ちていた。
「……マリオン。あの時は……すまなかった」
ぽつりと漏れ出た謝罪。
人河馬の悪魔的な二者択一の前で、マリオンの命を投げ捨てる選択をしたあの断崖での出来事だった。
「いいえ……ジェイク様。聖騎士として、当然の判断にございます。もし私が同じ立場であっても、迷わず同じ決断をしたことでしょう」
そう口にしながらも、マリオンの胸の奥は言葉とは裏腹の冷たい痛みに苛まれていた。
本当に自分は納得しているのだろうか。
「すまない……」
ジェイクは向き直し、苦痛に満ちた瞳でマリオンをじっと見つめ返した。
その切々とした視線に耐えかね、マリオンは胸の奥に閉じ込めていた問いを静かに滑り込ませてしまう。
決して尋ねてはならない、禁忌の問いを。
「……ジェイク様は、聖女様を……愛しておられるのですか?」
「なっ……!? まさか! あり得ん話だ!」
ジェイクは狼狽したように息を呑み、即座に首を振った。
「第一……聖女様が私などのような男に、見向きもされるはずがなかろう」
「……無礼なことをお尋ねいたしました。どうかお許しください」
マリオンが深く頭を下げると、ジェイクは寂しげな笑みを浮かべ、夜空を見上げた。
「いや……いいのだ。私とて、日に日に体内の天王力が弱まってきているのを感じている。もう……そろそろ現役を引退し、聖騎士の職を辞する時期なのかもしれん。そうなれば、私もひとりの男として、妻を娶る人生を真剣に考えねばならん歳だ」
「……」
マリオンは言葉を返せず、ただじっと炎を見つめた。
「もし……その時が来たら……マリオン、お前――」
ジェイクが核心に触れかけたその瞬間――!
――バシャァァァンッ!!
静まり返っていた川の水面が、不自然かつ苛烈に跳ね上がった。
「マリオン! 気をつけろッ!」
ジェイクは瞬時に剣を抜き放ち、マリオンを庇うようにその前に立ちはだかった。
マリオンも即座に立ち上がり、凄まじい集中力で剣を構える。
水面を破って闇の中から飛び出してきたのは、ぬめりけのある漆黒の皮膜と、しなる柔軟な肉体を持った怪異――「人獺」であった。
クネクネと蛇のように体をくねらせ、鋭い爪を閃かせて襲いかかる。
ジェイクは辛うじて剣の腹でその凶爪を受け止めたが、ずっしりとした重圧に足をとられた。
「ハァッ!」
隙を突いてマリオンが横合いから踏み込み、鋭い一閃を放つ。
しかし、人獺はぬるりと滑らかな肉体を歪ませ、水のように斬撃をすり抜けてみせた。
捉えどころのない異常な素早さであった。
「天王の光よ、我に力を――くっ!?」
ジェイクは距離を取り、掌から天王力の光矢を解き放った。
だが、人獺が展開した漆黒の魔王力の障壁に阻まれ、光の矢は虚しく弾け飛ぶ。
間髪入れず、人獺は水生獣特有の軟体を生かし、ジェイクの白銀の甲冑へ巻き付くように肉薄した。
――グザァァァッ!!
「グハァッ……!?」
人獺の凶悪な五本爪が、ジェイクの胸甲の隙間――喉元から胸にかけて深々と突き刺さった! 鮮血が夜の闇に飛散する。
「ジェイク様ぁぁぁぁぁッ!!」
マリオンの口から、悲痛な絶叫が上がった。
視界が赤く染まり、脳裏で何かが弾ける。彼女は自らの意思で額のサークレットに手をやり、己を縛り続ける密かな封印を力任せに解き放った!
――ガァァァンッ!!
溢れ出たのは、禍々しくも圧倒的な紫黒の「冥王力」。
理性を置き去りにしたマリオンは、目にも留まらぬ残像を残して踏み込むと、人獺の頭上へと跳躍。
冥王力を纏わせた漆黒の刃を一撃のもとに振り下ろし、人獺の延髄を骨ごと叩き切った!
怪物の断末魔すら許さず、首を半ば切断された人獺が倒れ伏すと同時に、大量の血を流したジェイクが崩れ落ちた。
「ジェイク様! ジェイク様ッ!!」
マリオンは冷たい地面にひざまずき、血に染まるジェイクの身体を必死に抱き起こした。
「うう……っ……マリオン……」
口から絶え間なく血を吐き出しながら、ジェイクは霞む瞳でマリオンの顔を見上げた。
彼の命の灯火が、今まさに消えかけようとしている。
「……すまなかった……。私が……私が心から愛しているのは……お前だけだ……マリオン……」
瀕死のジェイクが振り絞った、偽りのない魂の告白。
「もったいない……お言葉にございます……っ。ですが……ですが私は冥王界の血を引く者……っ! 貴方様に愛される資格など……到底ない、呪われた者なのです……!」
涙をボロボロと溢れさせながら叫ぶマリオンに、ジェイクは血に濡れた手で彼女の頬を優しく撫で、途切れ途切れに微笑んだ。
「……ならば……ならば私が……冥王界へと堕ちよう……お前とともに……」
満足げな笑みを浮かべたまま、ジェイクの瞳から光が消え、静かに息を引き取った。
「ジェイク様……っ……」
マリオンは絶望の淵で、冷たくなりゆくジェイクの唇へ、静かに自らの唇を重ね合わせた。
死によって固く結ばれた、哀しき魂の契約。
――その時である。
草むらを分けて、首に大粒の数珠を下げた老僧ブルドが息を切らせて姿を現した。谷底へ消えたジェイクとマリオンを捜し求め、追撃してきたのだ。
だが……すべては一足遅かった。
ブルドの目が捉えたのは、恐るべき奇蹟の光景であった。
マリオンの腕に抱かれたジェイクの魂と肉体が、紫黒の渦に包まれながら、生者と死者の境目を越えて冥王界の闇へと引きずり込まれていく。
そして――その異変を、闇の陰から静かに見届ける二つの人影。
冷酷な血の真祖・吸血鬼ハンニバルと、漆黒のドレスを纏った魔王母メルフェレーン。
(……なんと凄惨で、悲しい運命か……)
ブルドは溢れ出る涙を拭いもせず、静かに合掌した。もはや人間としての介入など許されぬ、神と魔と冥府が織りなす輪廻の奔流。
「……南無……南無……」
静まり返った川のほとりに、老僧が深く唱える静かな念仏の音だけが、闇へと消えゆく愛しき二人の魂を見送るように、いつまでも切なく響き渡っていた。




