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第五部第六話:狼殺しの煙と、破られた契り

第五部第六話:狼殺しの煙と、破られた契り


深夜を過ぎ、静まり返った村の中央広場。

粗末な木製の柱に太い麻縄で括り付けられた聖女ソフィアは、寒風に震えながら寂しげな松明の灯りに照らされていた。

身を包む純白の聖衣は夜露に濡れ、白磁のような肌を浮き彫りにしている。

物陰の暗がりには、息を殺したジェイクやマリオンら聖騎士団が潜み、村人たちは恐怖に歯を鳴らしながら固く扉を閉ざした家の中に閉じこもっていた。

――オオォォォォン……ッ!!

静寂を切り裂き、遠くの森から地鳴りのような狼の遠吠えが響き渡った。

ザッ、ザッ、とぬかるんだ土を蹴る不吉な足音が近づいてくる。闇の中から姿を現したのは、通常よりも遥かに巨大な二十数頭の狼の群れであった。

そのうち十頭が凄惨な骨鳴りを響かせ、二足歩行の巨躯――「人狼」へと変貌を遂げた。

爪を打ち鳴らしながら歩み寄る人狼のひと頭が、柱のソフィアへ顔を近づけた。湿った鼻先で可憐な首筋の匂いを蠢くように嗅ぎ回る。

ソフィアが恐怖に固く目を閉じると、人狼は邪悪な悦びを露わにし、血の滴る口を大きく開いて鋭い牙を剥き出しにした。

――シュバッ!! グシャッ!!

その瞬間、闇を疾走した一本の黒い矢が、人狼の眉間へ深々と突き刺さった!

本来、人狼の驚異的な生命力の前では、矢傷程度など大した痛手にはならないはずであった。しかし――。

「グアァァァッ!? ギ、ギャアアアッ!!」

矢を撃ち込まれた人狼は、全身を狂ったように跳ねさせ、泡を吹いて悶え苦しみ転がり回った。

「どうだい! 秘伝『狼殺し(ウルヴズベイン)』の毒の味わいはよーッ!」

暗がりから長剣を引っ提げ、不敵な笑みを浮かべたグレイランスが豪快に躍り出た。

その背後の大樹の上では、錫杖ならぬ強弓を構えたブルドが早くも次の矢を番えている。

同時に、物陰からジェイクたち聖騎士団も一斉に飛び出した。

「……チッ、貴様のおかげで計画の段取りがめちゃくちゃだ!」

ジェイクは苦々しく吐き捨てながらも、素早い手つきでソフィアを縛り付けていた縄を剣で切り飛ばした。

「ジェイク様……! グレイランス様……!」

自由になったソフィアをマリオンが抱き留め、後方へと下げる。


仲間を傷つけられた狼の群れが、唸り声を上げてグレイランスへと襲いかかった。

「ぬんッ!」

グレイランスの背後から跳躍したブルドが、重厚な錫杖の一撃で飛びかかった人狼の頭部を叩き落とし、石畳へと叩き伏せた。

「フハハ、お主たちにはコレじゃ!」

ブルドは立ち上る麻の袖口から怪しげな乾燥草の詰まった袋を取り出すと、広場の中央で燃え盛る松明の火の中へ惜しげもなく放り込んだ。

――シュゥゥゥゥ……ッ!!

途端に立ち込める、紫煙を孕んだ濃密で激痛を伴う煙。

それを僅かでも吸い込んだ狼たちは、視界と嗅覚を奪われ、「ギャン! ギャン!」と凄惨な悲鳴を上げて地を転げ回った。

「カカカ! どうじゃ、特製『狼殺し』の香煙の威力を知ったか!」

ブルドが白髭を揺らして豪快に高笑いする。

「……まったく、戦いに毒を用いるなど騎士道のかけらもない奴らめ……」

ジェイクは呆れたように眉をひそめたが、隣に立つ女性聖戦士マリオンは、一切の無駄を省いた傭兵たちの泥臭く確実な戦いぶりに、感心の眼差しを向けていた。

勢いを削がれた人狼たちは次々と騎士たちの刃に沈み、戦意を喪失した普通の狼たちは命からがら森の闇へと逃げ出していった。

しかし――煙の向こう側から、最後までその場を動かず立ち尽くす「一頭の巨狼」が残っていた。

その佇まいは他の人狼とは一線を画し、漆黒の毛並みと静寂な殺気を漂わせている。巨狼は黄金色に光る双眸で、まっすぐにグレイランスを射抜くように睨みつけた。

「うっ……!? お前が……この群れのボスか……!?」

その圧倒的な威圧感と眼力に、流戦の猛者であるグレイランスすら思わず半歩たじろいだ。息を呑み、圧迫感に汗を流しながら、思わず背後の老僧へ助けを求めた。

「ブ、ブルド……ッ!」

だが、巨狼は襲いかかる気配を見せなかった。

ただ、低く太い……人間のものとは思えない地鳴りのような唸り声を発した。

「――――百万の死が、王都で待っている」

人間臭い残忍な言葉を残し、巨狼は不気味な残像を残して夜の森へと消え去っていった。

「……ふぅッ……! なんてヤツだ……」

圧倒的な存在感が去り、グレイランスは緊張の糸が切れたようにその場へ膝をつき、脱力した。

言葉の通り、人狼たちの真の狙いがこの貧村などではなく「ブラム王国の王都」にあることは明白となった。

だが、事態の深刻さを重く受け止めたジェイクは、即座に王都へ向かうのではなく、まずは事態を知らせて大軍の援軍を要請するため、一路「聖天教団の大神殿」を目指す決断を下したのだった。


翌朝――。

事態が収束し、ジェイクたち聖騎士団とグレイランスらが村を後にした翌日のことである。

静まり返った村長の館。

大広間の奥の部屋で、生きた心地もなく机にしがみついていた村長のもとへ、軋む音とともに一頭の足の萎びた狼が滑り込んできた。

その瞳には、血のような赤光が宿っていた。

「……け、契約を破ったな……ッ!」

低く響く狼の唸り声に、村長の顔から血の気が完全に引いた。

「ま、待ってくれ! たのむ、待ってくれッ! 約束は守ったんだ! 聖女様をしかと柱に縛り付けた! 途中であの忌々しい騎士どもと傭兵どもが割り込んできただけなんだ……ッ! 許してくれ……許してください……ッ!」

畳みかけるように床へ額を擦り付け、必死に命乞いをする村長。

狼は冷酷な目で哀れな人間を見下ろし、牙を覗かせてボソリと呟いた。

「……良かろう。貴様の『命』だけで許してやる」

「ひっ……!?」

次の瞬間、短い悲鳴とともに暗い部屋に鮮血が飛び散った。

怪異の狼は村長の命だけを確実に刈り取ると、約束通り村の他の住民には一切手を出さず、静かに朝日の中へ姿を消していった。

神を裏切り、魔に魂を売った男に残されたのは、あまりにも虚しく惨めな断罪の結末だけであった。

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