第五部第四話:巨獣の急襲と、断絶の刃
第五部第四話:巨獣の急襲と、断絶の刃
砦の階上から響き渡る騎士たちの引き裂かれた悲鳴、甲冑の砕ける重厚な金属音、そしてそれらを掻き消すような野獣の獰猛な咆哮。
地下牢の冷たい空気は、一瞬にして濃厚な血の匂いと狂乱の気配へと変貌していた。
「おいおい……こいつは只事じゃなさそうだぜ」
グレイランスが鉄格子の隙間から上の階を窺い、傍らのブルドを見やった。
「ふむ……仕方あるまいな」
老僧ブルドは静かに立ち上がると、極太の角杖を傍らに置いたまま鉄格子の施錠部分へと歩み寄り、低く深く念仏の如き呪文を唱えた。そのシワの刻まれた指先が鍵穴に軽く触れた瞬間――。
――ガチリ……ガチャリッ!
重厚な鉄の錠前が音を立てて内側からあっけなく外れ落ちた。
「おっ、流石! この道、三十年!」
グレイランスがニヤリと笑い、ポンと手を叩いた。
「人聞きが悪いのう、まったく……」
ブルドは呆れたように首を振りつつも角杖を握り直した。
見張りの兵士すら残されていないことを確認した二人は、影のように静かに、しかし素早く石造りの階段を駆け上がっていった。
混乱を極める砦の内部を切り抜け、外の風が吹き抜ける砦の最上層・城壁の屋上へと出た二人は、眼下の中庭を低く覗き込んだ。
「……なんだありゃ? 熊……か?」
グレイランスが思わず目を見開き、舌を巻いた。
眼下に暴れ回っていたのは、通常の巨大な野生熊のさらに倍はあろうかという、山のような巨躯を誇る漆黒の暴獣――「人熊」であった。その巨腕が一振されるたびに、白銀の甲冑を纏った騎士たちが盾ごと砕かれ、中庭の石畳へ叩きつけられていく。
「ほお……これは当分の間、熊肉の蓄えには困らんのう」
「その前にこっちが喰われちまうわッ!」
城壁の上から兵士たちの死闘を冷や冷やしながら見下ろしていたグレイランスであったが、その直後、凄惨な殺気を放つ巨大な赤目とまっすぐに視線がぶつかった。
――ガァァァァァンッ!!
人熊は地響きのような咆哮を上げると、驚異的な脚力で中庭の石造りの壁を蹴り崩し、垂直に近い砦の城壁を一瞬で駆け上がって二人の目の前へと躍り出た。
2. 城壁の死闘と、絶技の連携
「うおうッ!?」
跳躍の衝撃で石畳が爆砕する中、グレイランスは即座に腰の長剣を抜き放ち、鋭い踏み込みとともに上段からの必殺の一閃を繰り出した。
巨獣の頭部を叩き割ろうと振り下ろされた鋼の刃。
しかし、その刃は人熊の肩甲骨のあたりに生え揃う鎧のように硬質な剛毛と分厚い筋肉によって阻まれ、深く斬り込むことができない。
「ぬ……重ぇッ!?」
剣が刺さった衝撃の反動を利用し、グレイランスは咄嗟に剣の柄を軸にして身を翻し、空中を華麗に舞って後方へ着地した。
人熊は勢い余って城壁の石柱へと猛然と激突したが、頭を振るだけで何事もなかったかのように咆哮した。
ゆっくりと立ち上がったその巨体は、グレイランスの背丈の倍を遥かに超え、圧倒的な影となって彼らを押し潰さんばかりであった。
――ブォンッ! ブォンッ!
巨大な爪が風を切り、連続して襲いかかる。
一撃でも掠めれば肉体ごと引き裂かれる破滅の暴力に対し、グレイランスは身を低く沈め、紙一重の足さばきで身をかわすのが精一杯であった。
その背後――静かに機を窺っていたブルドが動いた。
「ハッ!」
懐から素早く取り出したのは、漆黒の鎖鎌であった。
ブルドが腕を振ると、先端に結びつけられた重厚な鋼鉄の分銅が重音を立てて旋回し、人熊の背後からその太い首筋めがけて正確に巻きついた。
しかし、巨獣の圧倒的な前進力を、いくらブルドとはいえ止めることはできない。
人熊がブルドごと引きずり倒そうと身体を強引に前へ進めようとしたその瞬間――。
――ヒュゥゥゥンッ!
ブルドは躊躇することなく、城壁の淵から眼下に広がる深い堀へと向かって身を投げ出した!
「ぐあっ!?」
宙へと落ちていくブルドの巨体と重力がそのまま強力なテコとなり、鎖はギチギチと音を立てて人熊の太い首を苛烈に締め上げた。
呼吸を断たれ、前のめりに体勢を崩す巨獣。
「今だッ!!」
ブルドの叫びと同時に、グレイランスの身体が跳ねた。
低い姿勢から繰り出された一閃が、無防備になった人熊の膝の裏側の腱を正確に深々と斬りつけた。
――ズバァッ!!
支えを失った人熊は激痛に咆哮し、バランスを崩して城壁の淵へと引きずり倒された。
その隙を逃さず、堀の中へぶら下がる形となったブルドは、壁面を左右に強く蹴りながら走り、鎖をギリギリと力任せに手繰り寄せて首を固く絞め上げていく。
完全に動きを封じられた巨獣。グレイランスは長剣を両手で強く握り直し、全身の筋力を集中させた。
「切り離す――ッ!!」
――ズザァァァンッ!!
鮮やかな銀の軌跡が空を裂き、人熊の巨頭が胴体から完全に跳ね飛ばされた。
魔王族の弱点――脳と心臓を切り離された巨獣は、二度と動くことなく絶命し、その巨躯は城壁から滑り落ちていった。
そして、鎖の引っ張りが消えたブルドもまた、そのまま勢いよく堀の深緑色の水の中へと叩き落ちていったのだった。
――ザッパァァァンッ!!
「……ぶはっ! やれやれ……酷い目に遭ったわい」
城壁の上から垂らされたロープを手繰り寄せ、全身ドブネズミのように濡れそぼったブルドが堀から引き上げられた。老人は水に濡れた白髪を乱暴に拭い、顔を歪めて悪態をついた。
「ふぅ……人狼の次は人熊ってわけか。……おいブルド、ジェイクたちのことが気になる。追撃の加勢に行くぞ!」
グレイランスは手にした長剣の血を拭い、数秒ほど深く思案したのち、引き締まった顔で告げた。
「ほう……? 本当は、あの可憐な聖女様が気になって仕方がないんじゃないのかね?」
ブルドが白髭の奥からニヤリと意地悪く口元を緩めた。
「むっ……! うるさい! 余計な口を叩いてないで先を急ぐぞッ!」
グレイランスは顔を僅かに赤らめて吐き捨てるように叫ぶと、混乱の残る城砦の厩舎へと駆け込んだ。
二人は手早く馬を二頭借り受けると、ジェイクと聖女たちが向かったという次の村へ通じる街道を目指し、水飛沫と泥を跳ね上げながら激しい騎馬の足音とともに夜の闇の中へ駆け出していった。




