第五部第二十六話:魔王母の惑乱と、交錯する運命
第五部第二十六話:魔王母の惑乱と、交錯する運命
セレシオンが去り、不気味な高笑いだけが虚しく響く王の間。
玉座から立ち上がった魔王母メルフェレーンは、艶やかな朱色の唇を妖しく歪め、だらりと舌を伸ばして舌舐めずりをした。
その濃密で重苦しい目線が、満身創痍のグレイランスへと注がれる。
「さて……この下らない茶番劇を大いに盛り上げてくれた功労者に、たっぷりとご褒美をあげないとねぇ」
メルフェレーンは足音もなく、まるで滑るように階段を降り、ゆっくりとグレイランスへ向かって歩みを進めてきた。
彼女の全身から溢れ出る甘く濃厚な魔気が、広間の空気を密度の高い毒のように変えていく。
「坊やには……私との『交尾』の権利を授けてあげるわ。私の恩恵を受け入れれば、計り知れない魔王力の加護が手に入る。さぞかし強く、美しい子が生まれるでしょうねぇ……。そして、そこの可哀想な小娘には、立ち直れなくなるほどの無限の快楽に溺れさせて、永遠の幸せの中で正気を失わせてあげるわ」
「……っ!?」
メルフェレーンの放つ強烈な催眠と妖気に当てられ、グレイランスの瞳から光が失われていった。
己の意思とは無関係に、まるで操り人形のように重い足取りでメルフェレーンの方へと歩み寄ってしまう。
「いかん! 騙されるなグレイランスッ!」
正気を保っていたブルドが叫び、二人を握り潰さんとする勢いで全力で駆け寄った。
だが――
「――部外者は黙っておいでッ!」
メルフェレーンが黄金の瞳を軽く一瞥させた瞬間、絶大な「覇気」が暴風となってブルドを襲った。
――ズドォォォンッ!!
「ぐわあぁぁぁッ!?」
死者となり、圧倒的な打撃耐性を得ていたはずのブルドの巨躯すら、触れられることすらなく吹き飛ばされ、王の間の石柱へ激しく激突した。
一方、ソフィアの周囲には、いつの間にか影から這い出した無数の淫魔たちが蠢き、怪しく微笑みながら彼女の白磁の肌へ手を伸ばそうと群がり始めていた。
間合いが急速に詰まり、メルフェレーンの細く柔らかな指先が、無抵抗なグレイランスの頬に触れようとしたその瞬間――
「――いけませんッ!!」
正気を取り戻したソフィアが、淫魔の群れを振り払い、死ふりもの狂いで二人の間へと割って入った。
グレイランスを庇うように、大きく両腕を広げて立ちはだかるソフィア。
しかし――この瞬間の事態の真実を知る者は、広間の中でただ一人、メルフェレーンだけであった。
(……くっ……ッ!)
ソフィアが割り込んだその刹那、メルフェレーンの背筋に、生まれて初めての恐ろしい「死の氷点」が突き抜けていた。
催眠にかかった振りをしていたグレイランスは、暗帯の中に命の全てを懸けた絶対の神速の抜刀術――『地王一閃』の構えを完勝の極致で完成させていたのだ。
メルフェレーンがもう一歩踏み込んでいれば、その首級は一瞬にして跳ね飛ばされ、彼女の命は完全に途絶えていたはずであった。
地王暦の壮大な歴史の中で、絶対者・メルフェレーンを討ち取ることができる「最初で最後」の絶対の機微。
しかし――グレイランスを護ろうとしたソフィアの純粋すぎる愛ゆえの割り込みが、その千載一遇の勝機を、永遠に闇の中へ葬り去ってしまったのだった。
「……ふふ、あははははは……ッ!」
メルフェレーンは瞬時に冷汗を引っ込めると、間合いを阻んだソフィアの華奢な身体を抱き抱え、一瞬で後方へと躍り退いて間合いを取った。
「……ますます気に入ったわ、この小娘。私を殺しかねない危険を遠ざけてくれた……まさに私の『生命の恩人』だもの。大切にしてあげなくっちゃねぇ?」
メルフェレーンは腕の中のソフィアの白い首筋に顔を寄せ、愛撫するように生温かい舌でペロリと舐め上げた。
「ひ……っ!?」
身震いするソフィアを前に、メルフェレーンは不敵な笑みを浮かべ、ソフィアの身体をそっと床に降ろした。
「今日はこのくらいにしておいてあげるわ。……また、遊びましょうねぇ!」
黒いドレスの裾を翻し、メルフェレーンは闇の渦の中へと姿を消したのだった。
魔王母の気配が完全に立ち消え、王の間に重苦しく立ち込めいていた甘い毒気と魔気が、潮が引くように消え去っていく。
催眠の呪縛から解き放たれたグレイランスは、膝から崩れ落ちそうになりながらも、目の前のソフィアを強く抱きしめた。
「ソフィア……! 無事か、ソフィアッ!」
「グレイランス様……! よかった……無事で、本当によかった……ッ!」
二人は互いの存在と体温を確かめ合うように、何度も、何度も強く抱き合い、言葉にならない想いを重ね合わせた。
「……やれやれ。肝が冷えたわい」
壁の瓦礫を押し退け、身体を起こしたブルドが、豪快に首を鳴らしながら安堵の息を吐いた。
すると――ソフィアの肩から飛び立った小竜のカークが、二人の頭上を旋回し、グレイランスのたくましい肩へとちょこんと降り立った。
「キュ〜イッ! キュイッ、キュ〜〜〜ッ!!」
カークは愛くるしい声を上げ、祝福するように翼をパタパタと羽ばたかせながら、二人の頬へと愛おしそうに頭を擦り付けた。
壮絶を極めた神と魔の思惑が交差する地獄の果てで、傷つきながらも生き残った彼らは、静かな温もりに包まれながら、ひとときの安らぎを分かち合うのであった。




