第五部第二十二話:深き愛の焔と、冥府からの還り路
第五部第二十二話:深き愛の焔と、冥府からの還り路
「――グレイランス様ッ!」
小竜カークの導きのもと、必死の思いで薄暗い森を走り抜けてきたソフィアの眼前に、追い求め続けた愛しい男の後ろ姿が飛び込んできた。その背中に向けて安堵の声を上げた次の瞬間――ソフィアの口から悲痛な悲鳴が上がった。
――ガッ!!
樹上から突如として舞い降りた巨躯――鋭い爪と褐色の毛並みを持つ魔王族の刺客「人猿」が、グレイランスの背後から力任せに襲いかかり、地面へと激しく叩きつけたのだ。
「ぐっ……ッ!」
グレイランスは即座に身を翻して長剣を振り抜いたが、人猿は樹々を縦横無尽に跳び回り、すばしっこい動きで刃をかわしていく。
巨体に似合わぬ圧倒的な敏捷性に翻弄され、防戦一方に追い込まれるグレイランス。
そして、人猿の狙いは最初からグレイランスだけではなかった。
――サッ!!
「きゃあああッ!?」
俊敏な動きでソフィアの背後へ回り込んだ人猿は、彼女の華奢な首筋を太い腕で締め上げ、逃げられないように固く拘束した。
「ぐふふふ……武器を捨てろ、人間め! さもなければ、この聖女の首を骨ごと叩き折るぞッ!」
人猿は汚らしい爪を立て、ソフィアの着ている聖衣の肩口をビリビリと破り捨てながら、下品な唾を飛ばして威嚇した。
「ソフィア……ッ!」
人猿の凶刃がソフィアの肌に食い込むのを目にし、グレイランスは苦渋の表情を浮かべると、固く握りしめていた大剣を地面へ深く突き刺し、無抵抗の姿勢をとった。
「ぐふふふ、愚かな男め! 聖女一人のために命を捨てるとはなッ!」
人猿は用済みとばかりにソフィアを地面へ投げ捨てると、無抵抗となったグレイランスへ一直線に躍りかかった。鋭い爪を立てた太い腕が、グレイランスの胸板と喉元を激しく突き穿つ!
――ドグシャッッ!!!
「ぐ……はっ……ソフィア……逃げ……っ」
鮮血を吹き出し、その場に崩れ落ちるグレイランス。
何度も、何度も振り下ろされる惨虐な打撃。やがて、彼の鼓動は静かに途絶え、冷たい土の上で動かなくなった。
「いやあぁぁぁぁぁぁッッ! グレイランス様ぁぁぁッ!!」
ソフィアは泥に塗れながら這い寄り、物言わぬ肉体となったグレイランスの胸に縋り付いて激しく慟哭した。
「ぐふふふ……泣け泣け! その後でお前もたっぷり慰みものにしてから、じわりじわりと殺してくれようぞ!」
血に濡れた手を舐めながら、人猿がニヤニヤと嘲笑い、ソフィアへ近づいてくる。
その時――ソフィアはゆっくりと立ち上がり、血走った瞳で人猿を鋭く睨みつけた。
彼女の胸の奥で燦然と輝いていた「聖王力」の光が急速に失われ、代わりに禍々しく、黒くドロドロとした「邪王力」の気が全身から溢れ出し始めた。
「ぐふふ、憎いか? 憎むがよい! その怒りと憎悪の感情こそが、我ら魔王族の格好の餌となるのだからなッ!」
聖王力を失い、憎悪に身を任せた人間など恐るるに足らず――人猿は慢心しきった顔で、ソフィアの細い肩を力任せに掴みかかった。
だが――
「……あ、熱いッ!? なんだこれはぁぁぁッ!?」
ソフィアが静かに手を伸ばし、自らの肩を掴む人猿の太い腕を握り返した瞬間、まるで極高熱の鉄板を押し当てられたかのように、人猿の皮膚がジュウジュウと音を立てて煙を上げ始めた。
「バ……バカなッ!? 憎悪や邪王力の気では、我ら魔王族を傷つけることなどできぬはず――ッ!」
激痛に顔を歪め、困惑と驚愕に目を見開く人猿。それを見下ろすソフィアの瞳には、黒い憎悪ではなく、どこまでも深く、苛烈なまでの光が宿っていた。
「……勘違いしないで。これは憎悪などではないわ」
ソフィアの唇から、凛とした冷たい声が漏れる。
「――これは、『愛』よッ!!」
ソフィアの身体から、邪王力をも呑み込む圧倒的な黄金の『地王力』が激流となって爆発した! 愛する者を殺された果てなき執念と慈愛が結実した神聖なる焔が、人猿の全身を瞬く間に包み込んでいく。
「ギャアアアアアアアアッッ!?」
絶叫を上げるヒヒの怪異は、ソフィアの放つ愛の焔の前に抗う術もなく、一瞬にして灰すら残さず燃やし尽くされたのだった。
「グレイランス様……ッ!」
人猿を滅ぼしたソフィアは、すぐさまグレイランスの遺体の元へ駆け寄り、その冷たくなり始めた頬を抱きかかえた。
そこへ、森の奥から息を切らせたブルドが駆け込んできた。
「グレイランスッ! ……む、これはッ!?」
息絶えたグレイランスの姿を目にしたブルドの顔から、一瞬で余裕が消え去った。
「ブルド様……グレイランス様が……グレイランス様が……っ!」
泣き叫ぶソフィアの傍らで、ブルドは固く唇を噛み締め、静かにグレイランスの傍らに膝をついた。
「……やむを得ん。ワシの命に代えても、『蘇生の術』を使おう」
「え……? 蘇生、ですか……!?」
『蘇生の術』――それは命の理を破る禁忌であり、術者自身の生命力を全霊で捧げねばならぬ、命がけの危険な秘術である。
ブルドは静かに目を閉じると、胸の前で印を結び、重厚な念仏を唱え始めた。そして、その骨太な手のひらをグレイランスの開いた胸元へとそっと置いた。
ブルドの身体から漆黒と白銀の混ざり合った異様なオーラが立ち上り、ドクドクとグレイランスの体内へと流れ込んでいく。
……その頃。
暗く冷たい三途の川の河原――冥府の入り口に、ぼんやりと佇むグレイランスの魂があった。
あちら側へ足を踏み出そうとしたその時、背後から聞き覚えのある力強い声が響いた。
「――グレイランスッ! そっちへ行ってはならんぞいッ!」
振り向くと、そこには汗を流しながら仁王立ちするブルドの幻影が立っていた。
「……ブルド……? アンタ、なんでここに……? .......蘇生?.......そうなったら、アンタ自身はどうなるんだ!?」
「ハッ、拙僧の心配などなんてことはござらん! さあ、疾く己の肉体へ戻るがよいッ!」
ブルドが強烈な掌打をグレイランスの胸へ叩き込んだ。
――ガハッッ!!!
「……はぁっ……! 呼っ……ハァ、ハァッ……!」
グレイランスは大きく息を吹き返し、勢いよく目を開けた。
目の前には、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしたソフィアが、狂喜の表情で自分にしがみついていた。
「グレイランス様ぁぁぁッ! よかった……よかったぁぁッ!」
「ソフィア……俺は……? ……そうだ、ブルドはどこだ!?」
グレイランスがハッと周囲を見渡すと、すぐ隣で両手を組んだまま、胡坐をかいて静止しているブルドの姿があった。その目からは光が消え、胸の上下運動すら完全に止まっている。
「ブルド……! 嘘だろ、オイ……すまない……っ。お前は本当に……最高のいい奴だったぜ……」
座したまま微動だにしなくなった戦友の肩に手を置き、グレイランスは痛恨の思いで呟いた。
すると――
「……まったくじゃな。全くもって同意じゃぞい」
――ガバッ!
動かないはずのブルドが突然目を開け、白ひげを揺らしてぬっと動き出した!
「ひぃっ!? ぶ、ブルド様ぁぁぁッ!」
「うおっ!? 驚かすんじゃないよ、この生臭坊主ッ!」
驚きつつも、安堵の表情を浮かべるグレイランス。ソフィアは感極まって、そのままブルドのぶ厚い胸板へと勢いよく抱きついた。
「ふぅ……脅かしっこなしだぜ、まったく……生き返ってくれて良かったよ」
グレイランスが胸を撫で下ろすと、ブルドは「すまん、すまん」と破顔して豪快に笑ってみせた。
しかし――
ブルドの巨体に深く抱きついたソフィアの表情が、突如として凍りついた。
(……な、なに……これ……?)
ソフィアの肌に伝わってきたブルドの体温。
それはあまりにも急激に冷え込み、血の巡る温もりを完全に失っていた。
体内で脈打つ心音は途絶え、その存在感はまるで――命を失った「死者」そのものの冷たさであった。
蘇生の代償として、ブルドの肉体に一体何が起きてしまったのか。
ソフィアは恐怖に胸を締め付けられながらも、何も言えず、ただ冷え切ったブルドの体を抱きしめ続けることしかできなかった。




