第五部第二十一話:山間の妖花と、破戒僧の毒杯
第五部第二十一話:山間の妖花と、破戒僧の毒杯
紫煙の立ち込める不気味な森の中でグレイランスと離れ離れになった老僧ブルドは、数畳ほどの視界しかない濃霧の中をただ一人、静かに彷徨っていた。
どれほどの刻が流れたであろうか。ふと深い樹海を抜けた小高い丘の上に、一軒の古びた山小屋がポツンと佇んでいるのが目に入った。
「ふむ……どなたか居られますかな?」
ブルドは骨太な手で木製の重厚な扉を数回、叩いてみた。
返事はなく、静寂だけが周囲を包み込む。留守かと諦め、ブルドが足を開いて立ち去ろうと身を翻しかけたその時――カチャンと静かに鍵の外れる音が響き、扉がゆっくりと内側へ開かれた。
そこに立っていたのは、深山幽谷にはあまりにも不似合いな、息を呑むほどの極上の「美女」であった。
薄桃色の艶やかな着物を乱れがちに纏い、はだけた胸元からは白磁のように透き通る柔肌と、豊満な胸の谷間が覗いている。
湿り気を帯びた濡れ色の黒髪が肩に零れ落ち、細く長い指先がすっと着物の帯に添えられていた。
「……あら、こんな夜更けに……どなたかしら?」
しっとりと濡れた吐息とともに発せられた声は、男の耳朶を優しく撫で、脳の芯を痺れさせるような妖しい甘さを帯びていた。切れ長の瞳はうっすらと桃色に潤い、上目遣いにブルドの体躯を見つめている。
「おお、怪しい者ではござらん。道に迷うたただの旅の僧じゃ。良ければ一晩、納屋の片隅でも貸していただけると助かるのじゃが……」
ブルドが白ひげを撫でながら柔和な笑みを浮かべると、美女はふっと朱色の唇を歪め、艶っぽい笑みを零した。
「ほほほ……お前様のような逞しいお方なら大歓迎ですわ。納屋だなんて滅相もない……夜分も遅うございます。どうぞ、温かいお部屋へお入りくださいな」
「む……これはこれは、かたじけない」
美女は豊かな胸をブルドの太い腕に惜しげもなく押し付け、香木のような甘く濃厚な芳香を漂わせながら、手繰り寄せるように彼を部屋の中へと招き入れた。
一歩足を踏み入れた部屋の中は、柔らかな炉端の火がくべられ、芳しい香煙の匂いが立ち込めていた。
「外は寒うございましたでしょう? ちょうど残り物ですが、特製の鍋を用意いたしましたの。どうぞ、召し上がってくださいな……身体の芯まで、ぽかぽかに温まりますわよ?」
美女は屈み込み、わざとらしく胸元を大きくはだけさせながら、囲炉裏から湯気の立ち上る土鍋を持ち上げた。
細くしなやかな指先がブルドの手に重なり、吐息が耳元をかすめる。指先から伝わる滑らかな皮膚の感触と、男の情欲を狂わせるような甘く重い匂い。
まさに男を骨抜きにする毒婦の誘惑そのものであった。
「これはこれは……ありがたい。では遠慮なく、喜んで馳走になりましょうぞ」
ブルドは豪快に笑うと、出された器を両手で受け取り、木製の匙を握りしめた。
器の中には、怪しい深紅のスープに浸かった肉と野菜が盛られている。
ブルドは何の疑いもなく、旨そうに「ズズッ……ズズズッ」と音を立てて、一気にそれを口の中へ流し込み、ものの数秒で平らげてしまった。
「ふぅ……美味い鍋じゃった」
言い終えた瞬間――
――カタンッ……
ブルドの手から力が抜け、木匙が床へと転がり落ちた。
「ぬ……っ!? こ、これは……身体が……動か……っ」
ブルドは白目を剥き、苦しげに喉をかきむしりながら、ズスンと豪快な音を立てて冷たい板間へと倒れ込んだ。
完全に全身が麻痺し、指一本動かせない様子で痙攣している。
それを見下ろす美女の表情から、先ほどまでの可憐な艶っぽさが一瞬にして消え去った。
「――くくく、あははははッ! 惨めねぇ、愚かな生臭坊主ッ! このアタシの美貌と毒の香りにコロリと騙されるなんて、たわいもないッ!」
女の美しい顔面が怪しく歪み、皮膚の下から黄金の毛並みが浮き出してきた。背後からはしなやかな狐尾がワッと広がり、口元は耳まで引き裂かれて無数の鋭い牙が露わになる。人狐――この森の紫煙と幻術を司る魔王族の幹部であった。
「うふふ……人間の脳髄ほど甘くて美味しい蜜はないのよ。さあ、生きながらその頭蓋を割り、熟した柿のように脳髄を貪り喰らってあげるわッ!!」
人狐は狂喜の血走った眼光を輝かせ、だらだらと唾液を垂らしながら、ブルドの頭部へ向かってその大口をカッと開き、勢いよく飛びかかった!
――ガシィィィッッ!!!
「……なっ!?」
人狐の巨大な顎がブルドの頭に届く直前――突如として伸びてきた骨太な手が、人狐の太い首筋を万力のごとき力でガッチリと掴み取った。
麻痺して倒れていたはずのブルドが、片目を鋭く見開き、肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべていたのだ。
「ぐっ……な、なぜ動きを……ッ!? 痺れ薬と致死の劇薬を混ぜたはず……ッ!」
驚愕に目を見開く人狐の額へ向けて、ブルドは逆手で握りしめた金属製の法具――『独鈷杵』を、迷いなく一気に振り抜いた。
――ドスッッ!!!
「ぎゃあああぁぁぁぁぁッッ!?」
鋭利な鉄の尖端が、人狐の柔らかいコメカミへ深く突き刺さり、骨を砕く嫌な音が部屋に響き渡った。
鮮血が吹き出し、人狐の身体が激しい痙攣を起こす。
「ふん……人を騙すのは得意でも、自分が騙されるのは大層苦手と見えるのう」
ブルドは冷酷な眼光で狂乱する人狐を見下ろすと、突き刺した独鈷杵の柄から、漆黒の怪光――『冥王力』をドクドクと直接体内へ流し込んだ。
――ズババババババッッ!!
「あがッ……ごばッ……あぁぁぁぁッ!?」
内側から破壊的な冥府の波動を叩き込まれ、人狐の眼球と口から黒い煙が噴き出す。
「生憎とな、ワシは古今東西のあらゆる毒に精通しておってな。この程度の痺れ薬や劇薬、ワシの肉体と知識の前には白湯を飲んだようなものじゃよ」
ブルドは突き刺した独鈷杵を冷酷に引き抜いた。
支えを失った人狐の巨躯は、コメカミから大量の血を流しながら、ビクンビクンと一度大きく跳ね、そのまま二度と動かない物言わぬ肉塊へと変わった。
山小屋を包んでいた妖しい香煙と紫煙の気配が、潮が引くように急速に薄れていく。
「やれやれ……せっかくの鍋じゃったのに、後味が最悪じゃな」
ブルドは衣の裾で独鈷杵の血をさっと拭い取ると、腰の数珠をジャラリと鳴らした。そして何事もなかったかのように、人狐の死体をまたぎ越し、王都ファルスへ続く月夜の街道へと静かに足を歩み進めるのであった。




