第五部第二十話:紫煙の迷宮と、覚醒する聖女
第五部第二十話:紫煙の迷宮と、覚醒する聖女
ルイザと別れ、一人でグレイランスの後を追いかけたソフィア。
広大な街道を前にどこへ進むべきか途方に暮れていた彼女の前に、空から一筋の白い影が舞い降りてきた。
「キュイッ!」
愛くるしい声を上げてソフィアの肩に飛び乗ったのは、小竜のカークであった。
「カークちゃん! ……ついてきてくれたのですね」
カークはソフィアの頬に擦り寄ると、鼻をひくひくさせて周囲の匂いを嗅ぎ、街道を逸れた森の奥へと向かって「キュ〜!」と短く鳴いた。
姿を消したグレイランスとブルドの微かな匂いを、その鋭い嗅覚で捉えて導いてくれているのだ。
心細さに押し潰されそうだったソフィアの胸に、小さな安堵と希望が灯る。
二つの精霊玉をしっかりと握り締め、ソフィアはカークの誘導に従って森の奥へと足を進めた。
一方その頃、グレイランスとブルドの二人は、魔王族の追撃や人の目を避けるため、街道を外れて深い森の中を進んでいた。
だが――進むにつれ、彼らの足元には低く不気味な紫色の煙が滑るように立ち込め始めていた。
過酷な移動の疲労もあり、二人はその異常な変化に深く踏み込むまで気づくことができなかった。
――シュゥゥゥ……
あっという間に視界を奪うほど濃密な紫煙が辺り一面を包み込んだその瞬間、グレイランスの背筋に冷や汗が走り、直感が激しい殺気を捉えた。
「くっ! 敵かッ!」
グレイランスは瞬時に長剣を抜き放ち、闇を切り裂く一閃を繰り出した。
――ガァァァンッ!!
打ち合わされた刃と刃が、紫煙の中で眩い火花を散らす。
凄まじい重圧と手応え。グレイランスは間髪入れずに鋭い斬撃を打ち込み、相手もまた正確無比な太刀筋でそれを弾き返す。
何合もの凄まじい攻防が繰り広げられた。
(……待て、この重く粘り強い剣の受けと、無駄のない体捌き……)
相手の姿は濃霧のような煙に遮られて見えない。
だが、剣を通じて伝わる独特の感覚から、グレイランスは向かい合っているのが他ならぬ戦友・ブルドであると察した。
人狐の妖術による幻術が、お互いに相手を敵と誤認させて同士討ちを誘っているのだ。
しかし――「本当にブルドか? 相手が化けた偽物という罠ではないか?」という疑念が頭をよぎり、グレイランスは深追いせず、一気に後ろへ跳んでその場から離脱した。
相手もまた追撃してくることなく、反対方向へ気配を消していった。
おそらく相手側も、戦っているのがグレイランスだと気づいて身を引いたのだろう。
同士討ちの罠は回避したものの、二人の距離は完全に離れ離れになってしまったのだった。
紫煙を振り払い、ようやく視界が晴れた森のひらけた場所へ出たグレイランス。
だが、その正面にはいつの間にか「異様な影」が佇んでいた。
白銀の仮面で素顔を隠し、気品あふれる白銀の甲冑を纏った男――銀仮面。
銀仮面は一切の言葉を発することなく、洗練された騎士の所作で静かに剣を構えると、流れるような動作で問答無用にグレイランスへ襲いかかってきた。
「チッ……また刺客かッ!」
グレイランスは長剣の腹で突きを危うく受け止め、間髪入れずに鋭い返し胴を放つ。銀仮面は紙一重で身を引いてそれを交わし、目にも留まらぬ速さで斬り返す。
静寂の森に、激しい剣撃の金属音が連打のように響き渡る。
勝負はまさに五分五分。
だが、剣を交えれば交えるほど、グレイランスの脳裏にある記憶が蘇ってきた。
この間合いの取り方、一切の無駄を削ぎ落とした美しくも苛烈な剣技――身に覚えのある太刀筋であった。
「……何故に邪魔をするッ!?」
剣を噛み合わせたまま、グレイランスが押し殺した声で問う。
「……この戦いは罠だッ! 貴様を……このまま勝たせる訳にはいかんのだ……!」
仮面の奥から掠れた声が漏れ出る。
「どういう意味だッ! 説明しろ!」
「盟約により……これ以上は言えん! 黙って……殺されよッ!!」
銀仮面は全身の力を込めて、必殺の直線一閃の突きをグレイランスの喉元へ放った!
だが、相手の癖を知り尽くしていたグレイランスは、紙一重の差で首を捻って突きを殺すと、そのまま相手の懐に飛び込み、強靭な肩で銀仮面の胸甲を叩きつけた。
――ドグシャァッ!!
激しい衝撃とともに巨木へと叩きつけられ、崩れ落ちる銀仮面。グレイランスは即座にその喉元へ、長剣の尖端を鋭く突きつけた。
「……くっ……ハァ……ハァ……」
胸を大きく上下させ、仮面の奥から苦しげな呻き声を漏らす銀仮面。
「この戦い……たとえ勝ち進んだとしても地獄……負けても地獄ぞ……ッ!」
苦痛と絶望に満ちたその言葉を聴き、グレイランスはゆっくりと目を開くと、静かに長剣を鞘へと収めた。
「……ならば、勝って地獄を生きるのみだ」
グレイランスが短く言い捨てて視線を切った一瞬の隙に――銀仮面はまるで最初から存在していなかったかのように、足音もなく姿を消していた。
胸の中に不穏な胸騒ぎを残したまま、グレイランスは再び一人、王都ファルスを目指して歩き出した。
一方、小竜カークの先導で森を進むソフィアは、街道を避けて小川のせせらぎに沿って歩を進めていた。
「キュイッ!? キュアァァッ!」
突然、ソフィアの肩の上でカークが激しく羽ばたき、恐怖に満ちた声を上げて騒ぎ始めた。
「カークちゃん……? どうしたのです――」
問いかけようとした瞬間、上流の闇から地響きのような「シャーッ!」という凄まじいな鳴き声と、無数の爪が大地を引っ掻く夥しい足音が響いてきた。
直後、小川の曲がり角から溢れ出してきたのは、濁流のごとき「無数の鼠の大群」であった。
赤く光る眼光と鋭い牙を持った何万匹もの鼠が、津波となってソフィアへと襲いかかってきたのだ!
「きゃあぁぁぁぁッ!?」
逃げる間もなく、ソフィアの身体は鼠の濁流へと飲み込まれた。
鋭い歯が服を破り、白磁の肌へ容赦なく噛みついて血が吹き出す。凄惨な激痛にソフィアの意識が遠のきかけたその時――
――シュワァァァァンッ!!
ルイザから授かった『水精玉』が鮮やかな青い光を放ち、ソフィアの全身を優しく包み込んだ。
水精の庇護が透明な障壁となり、鼠たちの無数の牙を弾き返したのだ。
その直後――上流の堤防が崩れたかのように、本物の濁流と洪水が押し寄せてきた!
――ザバァァァァァッ!!
大量の水流が鼠の大群ごとソフィアの華奢な身体を呑み込み、激しい渦となって押し流していく。
やがて――水が引き、静けさを取り戻した小川の中央。
そこには、今まで誰も見たことのない凄惨で冷酷な表情を浮かべたソフィアの姿があった。
ソフィアは膝まで水に浸かりながら、逃げ惑う巨大な怪異――「人鼠」の太い首を、華奢な両手で力任せに締め上げ、川の水の中へと強引に深く沈め続けていたのだ。
「ギ……ガボッ……ゴボッ……!?」
人鼠は必死に水面へ顔を出そうと爪を立てて暴れたが、ソフィアの細い指先には不可視の天王力が激しく絡みつき、鉄の万力のごとき力で逃がさなかった。
やがて、泡を吹きながら完全に窒息し、ぴくりとも動かなくなった人鼠。
しかし、ソフィアの瞳から凄まじい冷酷な光は消えなかった。
彼女は息絶えた人鼠の胸元にそっと手をかざすと、胸の奥から滾る天王力を限界まで解き放った。
――ゴォォォォォッ!!
白銀の眩い聖光が水面を照らし、極高熱の光線となって人鼠の死体を包み込む。
肉体も骨も、水中で一瞬にして焼かれ、サラサラとした灰となって清流の中へと溶けて消えていった。
血と泥に汚れながらも、静かに立ち上がる聖女ソフィア。
その佇まいには、かつての守られるだけの気弱な少女の面影はなく、愛する者を追うための力と覚悟を宿した、凛とした戦士の神気が漂っていた。




