第五部第十九話:狂乱の戦場と、紫煙の訣別
第五部第十九話:狂乱の戦場と、紫煙の訣別
両軍が平原の中央で激しく激突したその瞬間――魔王族軍の後方に佇む一影が、不気味な妖気を放ち始めた。
そこにいたのは、しなやかな狐尾をたゆたわせ、妖艶な笑みを浮かべた魔王族の幹部――「人狐」であった。
人狐が細くしなやかな指先で妖術の印を結ぶと、戦場全体へ向けて怪しく揺らめく紫色の煙が急速に立ち込め始めた。
「……ん? なんだ、この紫の霧は……?」
前線で交戦していたブラム王国の正規軍兵士たちが、いぶかしげに鼻をうごめかした。
次の瞬間、その瞳から理性の光が消え去り、濁った血赤色へと染まっていく。
「ウガァァァッ! 敵だ! 敵は周り全員だぁぁッ!」
「死ねッ! 死ねぇぇッ!」
紫煙を吸い込んだ兵士たちが次々と発狂し、隣で肩を並べて戦っていたはずの味方へ向けて、狂乱の様相で剣を突き立て始めたのだ。
「同士討ち……!? マズいぞッ!」
後方の丘から戦況を見守っていたグレイランスの顔色が途端に変色した。
人数の多さで圧迫するはずだった数万の正規軍という大軍が、この狂乱の幻術によって一転して「最悪の足枷」へと化してしまったのだ。
さらに追い打ちをかけるように、先陣を切る巨将「人象」が重厚な丸太のごとき四肢を高く掲げ、大地へと力任せに叩きつけた。
――ドドズズズズズズズンッッ!!!
地響きどころではない。天地が引っくり返るような未曾有の大地震が発生し、亀裂が蛇のように地表を走り抜けた。逃げ惑う正規軍の兵士たちが、叫び声を上げながら次々と暗い地割れの底へと呑み込まれていく。
「――アタシに任せなッ!!」
惨状を目にした精霊使いルイザが、茶髪を振り乱して叫んだ。彼女は腰のポーチから焦茶色に怪しく光る『土精玉』を掲げ、地脈を鎮めようと土の精霊たちへ必死のコマンドを下した。
しかし――人象が放つ魔王力の圧倒的な重圧は、ルイザの精霊術を遥かに凌駕していた。
「なっ……何よこれ!? 地脈が……精霊たちが弾き返される……!?」
自尊心を酷く傷つけられたルイザの瞳に、激しい逆上の色が走った。
「生意気やってんじゃないよぉぉぉッ! 鎮まりなさいッ、土の精霊たちぃぃッ!!」
ルイザは自我を失い、限界を超えて力任せに精霊力を注ぎ込んだ。その結果――制御を失った土の精霊たちが凄まじい勢いで「暴走」を開始したのだ!
――ズバババババババンッッ!!!
地震は鎮まるどころか数十倍の規模へと膨れ上がり、大地が津波のように激しく波打った。
凄まじい地割れの口が巨大な人象の巨躯すら丸ごと呑み込んで陥没させたが、同時に巻き込まれた正規軍にも計り知れない甚大な被害が出た。
崩落する土砂と悲鳴。
惨劇の引き金を引いてしまったのは、他ならぬルイザ自身であった。
「――全軍後退ッ! 退却だぁぁぁッ!!」
これ以上の維持は不可能と判断したグレイランスが、裂けんばかりの大声で指示を飛ばした。
彼はすぐ側に繋がれていた軍馬の背へ跳び乗ると、すささっとソフィアの細い腰を抱き上げて膝の上に乗せ、馬の腹を強く蹴った。
ルイザとブルドも青ざめた顔で隣の馬へ跨り、怒涛の勢いで駆け出す。
背後からは、狂乱して刃を振り回す正規軍の生き残りと、どこまでも追いかけてくる巨大な地割れが迫っていた。
「ぬあーッ! 追いつかれるぞいッ! 馬が進まんッ!」
最後尾を走るブルドが情けない悲鳴を上げた。
見れば、ブルドの馬だけがあからさまに足が遅い。
馬の鞍の側面に、ぎっしりと詰め込まれた金貨の袋が重く垂れ下がっていたからだ。
それどころか――馬の尻には、泡を食ったバッカス王子が死に物狂いでしみついていた。
「そんな重いもん、とっとと捨てちまえぇぇッ!!」
グレイランスが振り向きざまに叫ぶやいなや、ブルドは一切の躊躇もなく、鞍の後ろで半狂乱になってしがみついていたバッカス王子の太い首をつかむと、容赦なく大地へ向けて放り投げた。
「ひ、ひえぇぇぇぇッ!? 何をする腐れ坊主ぅぅぅッ!?」
軽くなった馬は一気に跳ね上がり、速度を増していく。
馬群は死線の平原を命からがら駆け抜けたのだった。
なんとか追撃を振り切ったものの、かつての大軍は散り散りとなり、無残に崩壊していた。
紫煙による同士討ちが避けられない以上、大軍での進軍は自滅を招くだけである。グレイランスは生き残った傭兵たちを集め、苦渋の決断として「傭兵団の解散」を言い渡した。
「……これよりは、少数で王都ファルスへ潜入する」
グレイランスは長剣の血を拭いながら、低く静かな声で告げた。
「……アタシは、ここで降りるよ」
ぽつりと漏れ出た声。
振り返ると、木陰に立つルイザが小さく首を振っていた。
「……ああ、構わないぜ。好きにしろ」
グレイランスは一切の引き留めをしなかった。
「アタシは……自分が怖くなったのさ……。あんな……あんな恐ろしい惨劇になるなんて、思ってもみなかったんだ……」
ルイザが自らの両手を見つめていた。
その爪先まで、止まらない激しい震えに支配されていた。
己の暴走した力が味方をも巻き込み、大地を壊滅させてしまったという凄惨な罪悪感と恐怖が、強がりだった精霊使いの心を完全に打ち砕いていたのだ。
「……すまないが、ブルド。俺と二人で潜入するぞ」
「うむ、承知した。生臭坊主の本領発揮じゃな」
「私も! 私もお供いたしますッ!」
ソフィアが前に踏み出し、強く叫んだ。しかし、グレイランスはその華奢な肩を掴み、冷たく首を振った。
「駄目だ。王都の中は死地になる。ソフィア、お前はルイザとともに安全な場所へ引け」
「ですが――ッ!」
「ルイザ、ソフィアを頼む」
ルイザは無言のまま、すがりつこうとするソフィアの白く細い腕を、解けぬほどの力で力強く掴み取った。
ソフィアがいくら暴れても、その手を離そうとはしなかった。
グレイランスとブルドの背中が、荒涼とした街道の曲がり角の向こうへと消えていった。
静まり返った木立の中。
ソフィアはピタリと足を止め、振り向いた。
「……やはり、私は行きます」
涙を浮かべつつも、その瞳には揺るぎない確固たる意志の光が宿っていた。
「死ぬよ……っ! 潜入なんて正気の沙汰じゃない! それでも行くっていうのかい!?」
ルイザが掠れた声で叫ぶ。
「――グレイランス様を一人で死なせるよりは、遥かにマシですッ!!」
ソフィアの迷いのない即答。
その一言に、ルイザはハッと息を呑み、力なく腕を緩めた。
「……そうかい。なら……止めやしないよ」
ルイザは静かに腰のポーチへ手をやると、澄み切った青色に輝く『水精玉』と、鮮烈な赤色を放つ『火精玉』を取り出し、ソフィアの小さな両手へ優しく包み込ませた。
「精霊たちには……アンタを命懸けで守るように言い含めてあるからね。大事に持っていきなさい」
「……はいッ! 本当に……ありがとうございますッ!」
ソフィアは二つの宝珠を胸に強く抱きしめると、グレイランスたちが消えた街道へと向かって、夢中で駆け出していった。
残されたのは、静まり返った秋の風が吹き抜ける一本道。
ルイザは、消えていった少女の背中があった空虚な空間を、ただ一人、手が震えるのを止めることもできぬまま、いつまでもいつまでも立ち尽くして見つめ続けているのであった。




